48話 見失えない名前
行軍前の空気は、いつもどこか張り詰めている。
誰もが持ち場につき、荷を整え、武具を確かめる。遠征が長くなればなるほど、その動きは無駄がなくなる。兵士たちは言葉少なに準備を済ませ、補給班は荷車の周囲で慌ただしく手を動かしていた。
アルトは隊列の前方に立ち、全体を見渡していた。
兵の配置。荷車の位置。前衛と後衛の距離。魔力の流れ。どれも勇者として確認すべきことだ。見るべきものは多く、実際、いつもそうしてきた。
だから、視線が補給班の方へ向いたことにも、最初は深い意味を見出さなかった。
ただ、確認したかっただけだ。
荷の積み方に乱れがないか。補給の動線に無理がないか。後方の準備が遅れていないか。
そう、自分に言い聞かせるように視線を流す。
荷車の脇で、木箱を抱えた小柄な影が見えた。
――いた。
それだけで、胸の奥がわずかに緩む。
その感覚に、アルトは自分でも気づかないふりをした。
補給班の動きは忙しい。兵士が指示を飛ばし、水筒が運ばれ、薬品箱が積み直されていく。その中で、リナもいつも通りに働いていた。木箱を持ち上げ、荷車の間を縫い、必要な場所へそれを運ぶ。
問題はない。そう判断して視線を外そうとした、その時だった。
「補給班、四人。遅れるなよ」
飛んだ声に、アルトの眉がわずかに寄る。
四人。
何がおかしいのか、すぐには分からなかった。
隊列は整っている。準備も進んでいる。言葉だけ拾えば、何も問題はないはずだった。
それなのに、妙な引っかかりが残る。
視線をもう一度補給班へ戻す。木箱を抱えたリナがいる。水筒を運ぶ兵士がいる。薬品箱を点検する者がいる。
数は足りているように見える。
だが、どこかが合わない。
その違和感に形を与える前に、別の指示が飛ぶ。
「そっち、包帯を後ろへ回せ」
リナが頷き、包帯箱へ手を伸ばす。
その姿を見て、アルトはわずかに息を止めた。
いる。
確かに、あそこにいる。
なら、今の引っかかりは何だ。
自分でも理由は分からない。
ただ、見落としてはならないものを見落としかけたような、不快感だけが残る。
「アルトさん?」
横から声をかけられ、アルトははっとした。エリシアが不思議そうにこちらを見ている。
「どうかしましたか」
「……いや」
短く返し、再び補給班へ目を向ける。
そこにいたはずの姿を探すような動きに、自分で少し驚いた。
そんなはずはない。
ほんの今しがた見ていた。
数秒目を離しただけだ。
それなのに、視界の中から誰か一人だけが妙に滑る。
木箱の影。荷車の脇。兵士の肩越し。
そこにいるはずのものが、一瞬だけ輪郭を失う。
胸の奥がざわついた。
理由のない焦りだった。
戦場でもない。ただの準備中だ。こんなところで気を乱す方がおかしい。
それでも、アルトは補給班の方へ足を向けていた。
荷車の近くまで来ると、声や物音が少し近くなる。木が擦れる音。水筒の揺れる音。兵士たちの短い指示。その合間に、リナの姿を見つけて、アルトはようやく小さく息を吐いた。
今度はちゃんと見えた。
リナは薬品箱を抱えたまま、荷車の横に立っていた。
だが、その手が止まっている。
何かを探しているようでも、指示を待っているようでもない。
ただ一瞬だけ、自分が次にどこへ動くべきか見失ったように、視線が揺れていた。
その表情を見た瞬間、アルトの背筋に冷たいものが走る。
まずい、と思った。
何が、とは説明できない。
けれど、このままでは駄目だという感覚だけが先に来る。
リナの周囲では兵士たちが普通に動いている。荷車は軋み、補給班の声も途切れない。誰も異常に気づいていないように見えた。
だからこそ、余計に悪かった。
流れの中に置き去りにされるように、リナだけがほんの半歩ずれている。
「リナ」
アルトは気づけば呼んでいた。
その声に、リナの肩がびくりと揺れる。
だが、まだ足りない。
視線は向いた。けれど、焦点がどこか曖昧だ。
アルトは無意識に距離を詰め、薬品箱を抱えた腕に軽く手を添えた。
「リナ、大丈夫だ」
自分でも、なぜそう言ったのか分からなかった。
大丈夫か、ではなかった。
問いかけではなく、断言だった。
確認するより先に、そう言わなければならない気がしたのだ。
リナに向けて。
そして、妙にざわつく自分自身に向けて。
数秒の沈黙が落ちる。
そののち、リナの瞳がようやくはっきりとアルトを映した。
「あ……アルトさん」
掠れた声が返ってきた瞬間、アルトは胸の奥に張っていたものがゆっくりほどけていくのを感じた。
戻った。
そう思った。
何が、と問われても答えられない。だが確かに、今の一声で何かが元の位置へ収まった感覚があった。
「持つぞ」
アルトは薬品箱へ視線を落とし、そのまま受け取ろうとした。
しかしリナは小さく首を振る。
「だ、大丈夫です。自分で持てます」
「……そうか」
手を離しかけて、少しだけ遅れる。
自分の指が、まだ彼女の腕に触れていることに気づいたのは、その後だった。
アルトは一歩だけ距離を取る。
必要以上に近くにいたことが、今さら妙に意識された。
「すみません、少し……ぼんやりして」
「無理はするな」
短く言ってから、その言葉がずいぶん柔らかく聞こえた気がして、アルトはわずかに視線を逸らした。
リナはまだ少し青い顔をしていたが、それでも頷いて薬品箱を抱え直す。
その動きは、先ほどまでよりずっと確かだった。
木箱の重さも、足元の感覚も、きちんと現実に戻ってきたように見える。
「アルトさん」
背後からエリシアの声が飛ぶ。
アルトは振り返りかけて、もう一度だけリナを見た。
今度はちゃんと、そこにいる。
兵士たちの声に紛れても、荷車の影に隠れても、もう見失わないと思えた。
なぜ、あんなに焦ったのか。
なぜ、ただ立ち止まっただけのリナに、あれほど強く心を引かれたのか。
分からない。
分からないまま、それでも一つだけはっきりしていることがあった。
視界から消えるより前に、声をかけなければならない。
置き去りにされる前に、手を伸ばさなければならない。
そんなふうに思う相手は、今のところ一人しかいなかった。
「……アルトさん?」
怪訝そうなリナの声に、アルトははっとする。
「ああ、悪い。もう行く」
「はい」
短い返事のあと、リナは小さく頭を下げた。
その仕草が妙に胸に残る。
アルトは踵を返しながら、自分の鼓動がまだ少し速いことに気づいた。
戦いの前に緊張しているわけではない。
危機を察知した時の高ぶりとも違う。
もっと個人的で、説明のつかないざわめきだった。
勇者として見るべきものは、もっと他にある。
隊列も、地形も、敵の気配も、何もかも。
それなのに、意識のどこかがまだ補給班の方へ引かれている。
荷車の脇で、リナが箱を運び直しているのが見えた。
今度は迷いなく動いている。
その様子を確認して、ようやくアルトは本当に息を吐いた。
大丈夫だ。
先ほど口にした言葉が、今になって自分の中へ返ってくる。
あれは、リナに向けた言葉だったはずだ。
けれど同時に、自分自身を落ち着かせるための言葉でもあったのかもしれない。
なぜなら、彼女が揺らいだ一瞬、自分の足元までも不安定になった気がしたからだ。
その理由だけは、まだ分からなかった。




