49話 名前を結ぶ声
ここ数日、ときどき息が浅くなる瞬間があった。
疲れではない。
祈りのあとに残る倦怠とも違う。
胸の奥を、細い糸で静かに締められるような感覚。ほんの一瞬、呼吸の仕方が分からなくなるような、説明しづらい圧迫感だった。
けれどそれは長くは続かない。
気づけば消えていて、振り返る頃には曖昧になっている。
だからエリシアは、それを口にしなかった。
遠征の疲れかもしれない。気のせいかもしれない。そう思えば、それ以上深く考える理由もなかった。
その日も、休憩の準備をしながら最初はそう思っていた。
遠征隊は森を抜けた先の開けた場所で足を止め、短い休息を取っていた。兵士たちは武具を下ろし、水を回し、補給班は荷車の確認に追われている。エリシアもその一角で手伝いをしていた。
「こちらで大丈夫ですか?」
水筒を抱えたまま声をかけると、近くにいた兵士が頷く。
「はい、ありがとうございます。向こうにも回してもらえますか」
「分かりました」
言われた通りに足を向ける。
すぐ脇では、リナも木箱を抱えて動いていた。いつも通りの手際だ。荷を確かめ、足りないものを確認し、必要な場所へ運んでいく。
その姿を見て、エリシアは少しだけ肩の力を抜く。
理由は分からない。
けれど最近、自分は無意識にリナを目で追ってしまうことが増えていた。
視界の中に姿を見つけると、どこか落ち着く。逆に見失うと、胸のあたりがざわつく。説明できるほど明確なものではないが、無視もしづらい感覚だった。
補給班のやり取りは無駄がない。
短い声が交わされ、荷が動き、必要なものが必要な場所へ運ばれていく。名前を呼ばなくても、滞りなく進む。
「そっち、包帯は足りてるか」
「それは後ろへ回してくれ」
「水は先に前へ」
声は短く、誰も迷わない。
誰に向けた言葉かも、その場ではちゃんと通じている。
それは正しいはずの光景だった。
けれど今日は、その滑らかさがかえって息苦しい。
「……っ」
エリシアは小さく息を飲み込み、胸元に手を当てた。
まただ、と思う。
何かが合っていない。
けれど何がどうずれているのか、自分ではうまく掴めない。
少し離れた場所で、補給の確認が続いている。
水筒が渡され、薬品箱が動き、木箱が積み直される。そのどれもが自然で、淀みがない。
それなのに、リナの姿だけが、その流れの端で少しだけほどけているように見えた。
リナは今もそこにいる。
木箱を持ち、兵士たちの間を縫い、補給の仕事をしている。
なのに、言葉だけがその姿をすり抜けていくような気がする。
エリシアは思わず、そちらへ一歩踏み出した。
兵士たちは誰も気づいていない。補給班もいつも通り動いている。荷車の軋む音、木箱の擦れる音、短い指示の声。すべてが普段通りで、だからこそ自分の苦しさだけがひどく異質に思えた。
リナが次の荷を取ろうとして、ふと手を止める。
ほんの一瞬だった。
次にどこへ向かうのか、誰に渡すのか、その順番が頭から滑り落ちたみたいに視線が揺れる。周囲から見れば、ただ一拍遅れただけのことだろう。
だがその瞬間、エリシアの胸を締めつけていたものが、はっきりと重くなった。
苦しい。
祈りの時とも違う。
癒しの奇跡を使った後の疲労とも違う。
もっと直接的で、もっと近い場所で何かが軋んでいる感じだった。
理由など考えるより先に、口が動く。
「リナさん」
自分でも驚くほど自然に、その名前が出た。
声に反応して、リナがはっと顔を上げる。
「あ……エリシアさん」
その目がこちらを映した瞬間、胸の圧迫感がふっと薄れた。
息が通る。
それは本当に一瞬の変化だった。けれど確かだった。
苦しさがなくなったわけではない。ただ、さっきまでぴたりと閉じていた何かが、少しだけほどけた。
エリシアは自分でも理由が分からないまま、リナの方へ歩み寄る。
「その箱、少し重そうですね。こちらに置きましょうか」
「いえ、大丈夫です。すみません、少しぼんやりしていて……」
「無理はなさらないでください」
言いながら、自分の声が思ったより柔らかいことに気づく。
リナは小さく頷いて箱を抱え直した。
さっきまでより動きが確かになっている。足元の感覚を取り戻したみたいに、次の置き場へ迷わず向かっていく。
それを見届けて、エリシアはようやく静かに息を吐いた。
何だったのだろう、今のは。
誰かが苦しんでいるのを見たから、自分もつらくなった――そう説明することもできる。だが、どこか違う気がした。
もっと先に、自分の身体が反応していた。
リナが揺らいだことに気づく前から、胸の奥ではずっと嫌な圧迫感があった。
それに、ただ名前を呼んだだけで楽になるのもおかしい。
エリシアはその場に立ち尽くしたまま、そっと自分の胸元に触れた。
鼓動は少し早い。
けれど、さっきまでの息苦しさはもうない。
「エリシアさん?」
呼ばれて顔を上げると、リナが心配そうにこちらを見ていた。
その表情がひどくはっきり見えて、エリシアは小さく微笑む。
「なんでもありません。少し、考え事をしていただけです」
「そう、ですか……?」
「はい。ですから、気にしないでください」
リナはまだどこか不安そうだったが、それでも頷いた。
その仕草を見て、エリシアの胸に今度は別の感情が生まれる。
"守りたい"というより、"目を離してはいけない"という感覚だった。
それは聖女として皆を思う気持ちとは少し違う。
もっと個人的で、もっと静かな焦りに近い。
エリシアはその違いに戸惑いながらも、言葉にはしなかった。
周囲では相変わらず準備が進んでいる。兵士たちは動き、補給班は荷を整え、遠征隊は何事もなかったみたいに次の行程へ進もうとしている。
その流れの中で、さっきの一瞬の違和感だけが、ひどく頼りないものに思えた。
気のせいだったのかもしれない。
疲れているだけなのかもしれない。
それでも、エリシアはもう知ってしまっていた。
あの苦しさは、リナに声をかけると少し和らぐ。
そして、自分はそれを見過ごしたくないと思っている。
「リナさん」
確かめるみたいに、もう一度呼ぶ。
リナが振り返る。
「はい?」
「……あとで、お茶を淹れますね。少し休みましょう」
「え、でも……」
「少しだけです」
言うと、リナは困ったように笑った。
「ありがとうございます」
その笑みを見た瞬間、エリシアの胸の奥がふわりとほどける。
やはり、と思った。
理由は分からない。けれど、この名前をちゃんと呼ぶことだけは間違っていないのだと、そんな確信だけが静かに残る。
遠征隊は先へ進む。
世界もまた、何事もなかったように動き続ける。
それでもエリシアは、そっと心の中で繰り返した。
リナさん。
その名前を呼ぶたび、失われかけた何かが細い糸で結び直されるような気がした。
たとえその理由が、まだ何ひとつ分からなくても。




