47話 ひとり分のずれ
朝の空気は冷たく、荷車の木枠には夜露がうっすら残っていた。
遠征隊は行軍の準備に入っており、兵士たちはそれぞれの持ち場で慌ただしく動いている。補給班も例外ではない。水筒の点検、包帯の確認、保存食の積み直し。戦闘の翌朝ほど、細かな確認が多い。
私は荷車の横にしゃがみ込み、木箱の中身を順に確かめていた。
包帯、薬草、止血用の布、予備の水筒。
指先を動かすたび、箱の並びが少しだけしっくりこない。
昨日までなら、もっと取り出しやすい位置にあったはずだ。
水筒の置き方も、薬草を収めた木枠も、わずかにずれている。
それは本当に、わずかな差だった。
他の人には気づかれない程度の、手順の乱れ。
けれど、私にはやけに目についた。
荷車の端。重い箱を仮置きしていた場所に、今は何もない。
昨日までなら、そこにはダグさんがいた。無口で、でも誰より早く荷を持ち上げて、危ない足場では自然に前へ出る人だった。
もういない。
その事実を、朝の光はあまりにも当たり前のことみたいに照らしている。
「そっちの木箱、奥に寄せといてくれ」
声をかけられて、私は顔を上げた。
補給班の兵士がこちらを見ている。名前を呼ばれたわけではない。けれど自分のことだと分かったので、私は黙って頷いた。
「はい」
木箱を持ち上げて、指定された位置へずらす。
その間にも、別の場所から短い指示が飛ぶ。
「水筒の数、確認したか」
「薬草は後ろに回せ」
「そこの紐、緩んでるぞ」
どれも普段通りのやり取りだった。忙しい朝だ。いちいち全員を名前で呼ばないことくらい、いくらでもある。
そう、自分に言い聞かせる。
気にしすぎだ。
昨日のことを引きずっているだけだ。
荷車の脇でしゃがみ込み、水筒の中身を一つずつ点検していると、補給班をまとめている兵士が木札を手にこちらへ来た。
「持ち場、確認するぞ」
私は反射的に顔を上げる。
「水筒二。薬草一。保存食一」
短く割り振られていく役目に、それぞれが返事をする。
「了解」
「分かった」
「問題ない」
そこで兵士が木札を見ながら続けた。
「補給班、四人。遅れるなよ」
その言葉に、胸の奥がひりついた。
私は今、ここにいる。
荷車の横で、木箱に手をかけている。
実際に作業しているし、さっきも指示を受けた。
それなのに、数だけが合わない。
誰も言い直さない。
誰も違和感を覚えない。
そのまま話が進んでいく。
「じゃあ行くぞ。水筒は前寄り、薬草は中央、保存食は後ろだ」
自然に割り振りが決まり、自然に皆が動き始める。
私もいつも通り動いた。
水筒を持ち上げ、荷車の横へ回り込み、必要な箱を押し込む。
作業は通る。私が手を出せば、荷は整う。誰かがそれを止めるわけでもない。
なのに、勘定の上ではいないみたいだった。
喉の奥が、じわりと乾く。
「それ、終わったら包帯も見といて」
また別の声が飛ぶ。
私は返事をして包帯箱に手を伸ばした。
その手が、ほんの少しだけ止まる。
今のは、誰に向けた言葉だったのだろう。
私だ。たぶん。
だって、他にその位置にいる人はいない。
でも、その“たぶん”が気持ち悪い。
箱を抱えたまま立ち尽くしかけて、私は小さく息を吐いた。
だめだ。考えすぎるな。仕事をしない方が目立つ。
包帯の束を確認しながら、私は自分の中で数を数え直す。
一、二、三、四――そして、五。
補給班は五人だ。
ダグさんがいなくなっても、私を入れれば四人ではない。
それなのに、頭の中で自分を最後に足すこの感じが、ひどく不安定だった。
まるで無理に帳尻を合わせているみたいで、気持ちが悪い。
「薬品箱、こっちへ」
呼ばれて振り返る。
私は箱を抱えて歩き出す。
歩いて、渡して、受け取られて、作業は進む。
何も止まらない。
何もおかしくないように見える。
でも、ずっと薄い膜が一枚あるみたいだった。
向こう側にちゃんと届いているのに、どこかで私だけが弾かれているような感覚。
やがて再び持ち場の確認が入った。
「水筒よし。薬草よし。保存食よし」
一つずつ確認されていく。
私も頷きながら聞いていた。
「人手も問題なしだな」
その一言に、思わず顔を上げる。
問題なし。
その言葉が、妙に重く響いた。
私がいるから足りているのか。
それとも、私がいなくても足りることにされているのか。
分からない。
分からないことが、一番怖かった。
手の中の包帯が、少しだけずしりと重くなる。
そのときだった。
「リナ。その箱はそちらではない」
静かな声が、すぐ後ろから落ちた。
びくりと肩が跳ねた。
振り返ると、ノアさんが立っていた。いつもの無表情で、私の抱えている箱と、その先の荷車を見ている。
「あ……」
声がかすれる。
今、自分の名前が呼ばれた。
ただそれだけのことなのに、張りつめていた何かが一気に緩む。
足元が急に地面へ戻ってきたみたいだった。
「そちらは予備ではない。後方用だ」
「……すみません」
私は慌てて箱を持ち直し、指定された位置へ運ぶ。
手の震えが、自分でも分かった。
ノアさんはそれ以上何も言わなかった。
ただ私の動きを一度だけ確認して、手帳へ何かを書き留める。
それだけだ。
それだけなのに、さっきまで曖昧だった周囲の輪郭が、少しだけ元に戻った気がした。
兵士たちの声が、ちゃんと距離を持って聞こえる。
荷車の軋みも、木箱の重みも、ようやく現実のものとして手に馴染む。
私は箱を置いて、そっと息を吐いた。
名前を呼ばれただけだ。
ただ、それだけ。
けれどもし、今あの声がなかったら。
私はもう少しだけ、自分の立っている場所を見失っていた気がした。
胸の奥が、冷たく縮む。
怖い、と思う。
消えることが、ではない。
もっと曖昧に、もっと静かに、ここにいるはずの自分が少しずつ勘定から外れていくことが。
「どうかしたか」
ノアさんが視線も上げずに言った。
「……いえ」
うまく笑えたかは分からない。
それでも私は首を振って、もう一度木箱へ手を伸ばした。
作業はまだ残っている。
行軍はもうすぐ始まる。
世界は何もなかったみたいに先へ進んでいく。
だからこそ、私も動かなければならなかった。
それでも、さっきの一声だけは、いつまでも耳の奥に残っていた。
――リナ。
ただ名前を呼ばれただけで、自分がここに引き戻されるなんて。
そんなこと、知りたくなかった。




