46話 軽微の内約
戦闘後の報告は簡潔だった。
死者なし。重傷者なし。行軍続行に支障なし。
ノアは受け取った報告書に目を通し、焚き火の脇で一度だけ紙を裏返した。追記はない。誤記も見当たらない。内容としては妥当だった。
被害軽微。
指揮官に提出する文言としては、それで十分だろう。
ノアは膝の上で手帳を開き、別に記録を書き出した。
・前衛兵一名 右前腕浅傷
・補給班一名 足関節捻挫
・薬品瓶一 破損
・戦闘継続、結果に大勢なし
そこまで書いて、ペン先が止まる。
個別に見れば、いずれも特筆するほどの損害ではない。前腕の裂傷は浅く、捻挫も歩行不能に至っていない。薬品瓶の破損も一本分だけだ。
普通なら、ここで終わる。
記録としては十分。分析するほどの事象ではない。そう判断してよいはずだった。
だが、ノアは次の行へ進めなかった。
「……」
無言のまま、手帳に並んだ項目を見下ろす。
違和感がある。
ただし、その時点でその感覚に価値はない。違和感は事実ではないからだ。
ノアは一度目を閉じ、戦闘の経過を頭の中で整理した。
前列へ水を運ぶ兵士がいた。
その兵士は本来より一拍遅れて前へ出た。
直後、前線の足場が崩れた。
魔物の攻撃は空を切り、兵士は致命的な損傷を免れた。
ここまでは、確認できる事実だ。
次いで、前衛兵の浅傷。補給班の捻挫。薬品瓶の破損。
いずれも発生そのものは報告と一致する。
問題は、それらをどう扱うかだった。
すべてを独立した偶発事象として処理することはできる。戦場では複数の小損害が短時間に重なることも珍しくない。そう記録しても誤りではない。
しかし、それで片づけるには一つ引っかかる。
ノアは手帳の空白に短く書いた。
・個別には説明可能
その下に、少し間を置いてからさらに書き足す。
・同時発生としては違和感あり
書いてから、その一文をしばらく見つめた。
違和感あり。
記録としては曖昧だ。観測者の語としては粗い。
「……不適切だな」
小さく呟き、線を引いて消す。
代わりに、
・従来観測事例と一致せず
と書き直した。
それなら事実に近い。少なくとも、今の時点で断定しすぎずに済む。
ノアはページをめくり、以前の記録を見返した。死者の発生位置、損耗の偏り、回避されたはずのない局面での生存。そこに共通していたのは、ずれが生じた時、修正の出方がもっと明瞭だったことだ。
誰かが助かる。
別の誰かが損なわれる。
あるいは、あるはずの損耗が、別の箇所へ移る。
残酷ではあったが、少なくとも挙動には一貫性があった。
今回は、それが薄い。
ノアはそこで思考を止める。
薄い、というのも印象の語だ。採用するには粗すぎる。
代わりに、手帳の余白へ記す。
・補正現象の出方に変化の可能性
それ以上は書かない。
現時点で言えるのはそこまでだった。
補正が弱まったのか。
出力形式が変わったのか。
あるいは、そもそも同一の現象として扱うべきでないのか。
どれも判断材料が足りない。
ノアは報告書を横へ置き、もう一度戦闘の流れを辿った。
あの一拍の遅れ。
あれが結果を変えた可能性は高い。
だが、結果が変わったことと、その後の小損害群を一本の因果で結ぶには、まだ証拠が不足している。可能性はある。だが可能性に過ぎない。
ノアはそれを不満とは思わなかった。
足りない情報を足りないまま扱うことは、誤りではない。
むしろ、説明が欲しいからといって空白を仮説で埋める方が危うい。
「保留だ」
誰に聞かせるでもなくそう言って、ノアは視線を上げた。
補給班の荷車の傍で、数人が木箱を整えている。その中に、補給係の少女の姿もあった。昼間と同じように手を動かし、荷の確認を続けている。
昼の人数確認を思い出す。
補給班、四人。
その声が飛んだ時、少女は確かにそこにいた。荷車の横で、包帯を渡し、作業を続けていた。存在を失ったわけではない。現場から消えていたわけでもない。
だが、その事実をもって何が言えるかとなると、現段階では何も言えない。
人数勘定の齟齬。
認識の揺らぎ。
それらを今日の損害と結びつけるには、まだ材料が足りなかった。
ノアは視線を手帳へ戻す。
・人数確認に微細な齟齬あり
・現象との関連性は不明
書いて、そこで止める。
それでいい。
不明なものは不明のまま記録するべきだ。
焚き火が小さく鳴った。兵士たちの声が遠くで混ざる。誰かが笑い、誰かが鍋をかき回している。表面だけ見れば、今日は運の良い戦闘だった。被害は少なく、予定通り進める。遠征隊はまだ機能している。
その評価自体は間違っていない。
だが、内訳まで含めて同じように扱ってよいかは別問題だった。
ノアは再び手帳を開き、最後に三行だけ書き足した。
・本日損害は総量に対し軽微
・ただし発生分布は従来観測事例と不一致
・継続観測要
それで終わりにした。
これ以上は踏み込まない。
踏み込むだけの根拠がないからだ。
手帳を閉じる。
被害軽微。
報告としては正しい。
しかし、その四文字だけでは見えなくなるものがある。
それもまた事実だった。
ノアは焚き火の火を見つめ、静かに息を吐く。
世界は今日も、何事もなかった顔で進んでいく。
だからこそ、そうではなかった部分を記録しておく必要がある。
今はまだ、それで十分だった。




