45話 軽微な代償
戦闘は、補給班の位置からでもよく見えた。
前線より一段下がった場所。荷車の影に身を置きながら、私はいつも通り物資を整理している。
――いつも通り、のはずだった。
木箱の並びが少しずれている。
包帯を入れた箱は、本来ならもう少し奥だ。水筒の位置も、薬品瓶を収めた木枠も、昨日までとはわずかに違っていた。
たぶん、些細なことだ。
ほんの少し手際のいい人が一人いなくなった。それだけの差。
でも、その“差”がやけに目についた。
荷車の横にできた小さな空きが、どうしても気になる。
昨日までなら、そこにダグさんがいた。重い箱を持ち上げるのはいつも早くて、危ない足場では何も言わず前へ出る。無口なのに、いるだけで補給班の動きが整うような人だった。
「補給班、四人。持ち場を崩すな」
前から飛んできた声に、喉の奥がひりついた。
私は反射的に顔を上げる。
自分は今、ここにいる。荷車の横で、いつも通り手を動かしている。
それなのに、その数はあまりにも自然に通ってしまった。
誰も言い直さない。誰も気に留めない。
補給班は四人じゃない。
私は今も、ここにいるのに。
「そっち、包帯を」
別の兵士に呼ばれて、私は包帯を差し出した。
相手は何のためらいもなく受け取って、すぐ前線へ戻っていく。
ちゃんと受け取られる。
ちゃんと仕事は回る。
だからこそ、さっきの「四人」という数だけが余計に気になった。
私はここにいるのに、その勘定だけがいつも少しずれている。
私だけが、どこか半端に浮いているみたいだった。
せめて、いつも通りでいようとした。
何も変わっていないみたいに、黙って荷を整える。
そうしていても意味がないかもしれない。
昨日、世界は確かに私のいる場所を選んだのだから。
「水、前列に回して」
水筒を差し出す。
受け取った兵士が頷き、前へ走ろうとする。
その瞬間だった。
胸の奥が、ざわついた。理由はない。何かを見たわけでもない。
それでも、嫌な感覚が背筋をなぞる。
行ったら危ない。
そう思った瞬間には、もう口が開いていた。
「……待って」
兵士が驚いたように振り返る。
「え?」
一歩、踏み出しかけた足が止まる。ほんの一瞬。それだけの遅れ。
「いや、その……」
言葉を探す。
自分でも理由が分からない。ただ、嫌な感じがしただけだ。
「……気をつけて」
結局、そんな曖昧な言葉しか出てこない。
兵士は少し首を傾げたが、それでも頷いた。
「分かった」
そして、再び前へ出る。
――その直後だった。
前線の足場が崩れた。小石が流れ、地面がわずかに沈む。
もし、さっきのまま踏み出していたら。
――そこに、いた。
魔物の爪が振り下ろされる。
だが位置が違う。横から別の兵士が割り込み、体を引き戻す。
爪は、空を切った。地面を叩く鈍い音。
兵士が、呆然と息を吐く。
「……あ、ぶな……」
助かった。
確かに、今の一言で。
「……」
私は動けなかった。
偶然じゃない。
止めたから、結果が変わった。
その実感と同時に、胸の奥がすうっと冷えていく。
昨日みたいに誰かが倒れたわけじゃない。
それなのに、何かがずれてしまった感覚だけは同じだった。
このままで済むはずがない。
そんな確信にも似たものが、理由もなく身体の奥に沈んでいく。
「……やだ」
小さく呟く。
今のは、ただの一言だ。
ただ呼び止めただけだ。
それなのに、嫌な感覚が消えない。
「来ないで……」
願うように呟く。
一拍。
何も起きない。
さらに一拍。
まだ、誰も倒れない。
呼吸が浅くなる。
もしかしたら、今回は――
「っ……!」
背後で、誰かが声を漏らした。
振り向くと、補給班の仲間が膝をついていた。
「足を……」
軽い捻挫。それだけだ。血も出ていない。
なのに、胸の奥の冷たさが消えない。
まだ終わっていない。
「……違う」
思わず声が漏れる。
その直後。前線で金属音が弾けた。
剣が手から滑り落ちる。拾い直す隙に、浅く腕が裂かれる。
悲鳴は上がらない。致命傷でもない。
それでも、確かに削れている。
さらに。
荷車の方で、軋む音がした。縄が緩み、箱が一つ落ちる。
その衝撃で薬品瓶が一つ転がり落ちる。パリンと音がして、割れた瓶から中身がこぼれ出た。
それだけ。
それだけなのに。
「……え」
喉が乾く。
足を捻った仲間。
浅く傷を負った兵士。
こぼれた薬品。
どれも些細なこと。
なのに全部が、さっきの“助かった”の余波みたいに思えた。
胸の奥が、じわじわと冷えていく。
私が止めた。
ただ一言、呼び止めただけで。
それだけで、結果は変わった。
ひとつ助かったかわりに、何かが細かく散っていく。
そんなふうに帳尻を合わせられている気がした。
「こんなの……」
一人分じゃない。
どれが代わりなのか分からない。
どれを選んだことになるのかも分からない。
それでも、確実に何かは削れている。
少しずつ。ばらばらに。
「……まだ?」
視線が揺れる。
終わったのか。
それとも、まだ来るのか。
分からない。
それが、一番怖かった。
戦闘はそのまま収束した。
大きな崩れもなく、予定通りに。
被害は軽微。
そう報告される程度には、いつも通りの結果だった。




