37話 隣で笑う
夕食の支度は、いつもより少しだけ賑やかだった。
今日は魔物の襲撃もなく、行軍も順調だった。鍋には乾燥肉と野菜を多めに入れる余裕がある。
私は木椀を三つ並べながら、ふと手を止めた。
三つ。
以前なら、無意識に一つ下がった位置に置いていた。
勇者の隣は聖女。
私はその外側。
それが自然だったから。
けれど今日は、何も考えずにアルトさんの右隣に椀を置いていた。
気づいてから、少しだけ鼓動が早くなる。
「いい匂いだな」
背後から声がして、思わず肩が跳ねる。
「お、驚かせないでください……」
振り向けば、アルトさんが笑っている。
その顔は、戦闘のときとは違う。肩の力が抜けた、ただの青年の表情。
「そこ、座ってもいいか」
当然のように、私の隣を指す。
――以前なら。
誰かに呼ばれたかもしれない。
別の場所へ座る流れになったかもしれない。
でも今日は、何も起きない。
「どうぞ」
声が少しだけ上ずる。
アルトさんが腰を下ろす。
距離が、近い。
布越しに伝わる体温。
腕が触れそうで、触れない。
「お二人とも、もう始めてしまいますよ?」
向かい側に座ったエリシアさんが、くすりと笑う。
「今日は随分と仲がよろしいのですね」
「そ、そんなことは……」
反射的に否定しようとして、言葉が詰まる。
アルトさんは平然とした顔で言った。
「別にいいだろ」
その一言に、胸の奥が熱くなる。
別にいい。
それはつまり、隠す必要もないということだ。
鍋の中身をよそいながら、視線を落とす。手元が少し震えているのが分かる。
「リナ、今日は近いな」
不意打ちだった。
「え?」
「前は、もう少し離れて座ってなかったか?」
心臓が跳ねる。
覚えている。
あの、微妙な距離を。自然に空いてしまう隙間を。
言葉が途切れ、視線が外れ、気づけば少し遠くにいた時間を。
「……そう、でしたか?」
誤魔化すように笑うと、アルトさんは首を傾げた。
「まあ、今の方が落ち着くけどな」
さらりと落とされた言葉に、息が止まる。
「無自覚というのは罪ですね」
エリシアさんが楽しそうに言う。
「何の話だ」
「さあ?」
からかうような視線が、私へ向けられる。
顔が熱い。
けれど、不思議と逃げたいとは思わなかった。
食事が進み、たわいもない会話が続く。
道中の話。兵士の失敗談。次の宿営地のこと。
アルトさんが笑う。
声を上げて笑うのを、こんなに近くで聞いたのはいつ以来だろう。
その横顔を、思わず見つめてしまう。
強くて、遠くて、物語の中心に立つ人。でも今は、ただ隣にいる。
エリシアさんが言った。
「今日は、風が穏やかですね」
「そうですね」
頷きながら、ふと気づく。
誰も席を変えない。
誰も呼び出さない。
誰も、私を外側へ押しやらない。
当たり前のように、ここに座っている。
アルトさんの肩が、ほんの少しだけ触れる。
反射的に身を引こうとして――やめた。
そのままにする。
押し戻されない。
世界は、静かだ。
「リナ?」
名前を呼ばれる。
「はい?」
「どうかしたか」
心配そうな声に私は首を振る。
「……いえ」
そして、少しだけ息を吸う。
胸の奥に、ゆっくりと広がる温かさ。
隣で笑う声。
向かいで見守る視線。
揺れない空気。
ああ、と心のどこかで思う。
私は――ここにいていい。
それは誰かに許されたわけじゃない。
誰かに決められたわけでもない。
ただ、自然に。
この場所が、私の居場所になっている。
鍋の湯気が、まっすぐ空へ昇っていく。
それを見上げながら、私はそっと微笑んだ。




