35話 振り返れば届く距離
魔物の出現は、昼下がりだった。
森を抜けかけた街道沿い。前方の斥候から短い合図が走る。
小規模な群れらしい。数は多くない。遠征隊にとっては、日常の延長のような戦闘だ。
私は馬車の脇で荷を下ろし、水筒と予備の包帯を確認する。
補給係は前に出ない。それが役割だった。
以前なら、何も考えずにそうしていた。
勇者は最前線へ。
聖女は後方支援へ。
私はさらにその外側へ。
配置は決まっていた。
誰も疑わなかった。疑えなかった。
――けれど。
剣が抜かれる音がして、私は思わず顔を上げる。
アルトさんが、こちらを振り返っていた。
「下がりすぎるなよ」
それだけ言って、前へ出る。
けれど、完全に先頭へは行かない。
私と、数歩の距離。振り返れば声が届く位置。
それは、以前とは違う立ち位置だった。
魔物が跳躍する。
アルトさんの剣が閃き、一体を斬り伏せる。
土煙が上がり、別の一体が横から回り込む。
思わず息を呑む。
その瞬間、アルトさんは半歩だけ位置を変えた。
私の視界を遮るように立つ。その背中に、守られているのだと気づく。
剣戟は長くは続かなかった。数分もせず、魔物は地に伏す。
隊の空気が緩む。私はすぐに前へ出て、軽傷の兵士に水を渡した。
「助かりました」
兵士が礼を言う。
私は頷きながら、ちらりとアルトさんを見る。
彼は剣を拭いながら、こちらへ歩いてくる。
「怪我はないか」
「はい。私は後ろでしたから」
言いながら、少しだけ胸がざわつく。
本当に、後ろだっただろうか。以前より、ずっと近かった。
アルトさんは小さく息を吐く。
「前に出ようか迷った」
「……いつもみたいに?」
「そうだな。いつもなら、もっと前に立ってた」
彼は苦笑する。
「でも、今日はこれでいいと思った」
それは、誰かに決められた配置ではない。彼自身の選択だった。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
「危なく、なかったですか?」
「いや」
少しだけ視線を逸らしてから、ぽつりと。
「その方が安心する」
一瞬、言葉の意味が分からなかった。
いつもより後方。その近くにいたのは、私だ。
顔が熱くなる。そんな顔を見られたくはなくて、自然と俯いてしまう。
「そ、そうですか……」
情けない声しか出ない。
アルトさんはそれ以上何も言わなかった。
けれど、その距離は変わらない。
勇者は前へ。
補給係は後方へ。
そう決められていたはずの線は、どこにも見当たらない。
私は水筒を握り直す。
戦闘は終わった。
何も異常はない。
空も晴れている。
――今日は、何も起きなかった。
ただ、アルトさんが自分の意思で立つ位置を選んだ。
それだけのこと。
それなのに。
それが、どうしようもなく嬉しかった。




