34話 もう一度、隣へ
あの戦闘から数日。森は妙に静かだった。
胸の奥に残る冷たい感覚は、完全には消えていない。それでも――以前のような息苦しさは、薄れている気がした。
私は野営地の端で、補給品の確認をしていた。水筒の残量、乾燥肉の数、保存パンの在庫。指先を動かしていると、思考が静まる。こうしている間だけは、余計なことを考えずに済む。
「……リナ」
名前を呼ばれて振り向くと、アルトさんが立っていた。
鎧を外し、肩の力を抜いた姿。
その距離が、驚くほど自然だった。
――最初は、こうだった。
召喚されたばかりの頃。右も左も分からなかった私たちは、同じ異物として並んで立っていた。
補給係も勇者も関係なく、ただ同じ場所に放り出された者同士として。
あの頃は、もっと近かった。
それが、いつからだろう。気づけば、アルトさんは遠くに立つようになった。
話しかけようとすると、誰かに呼ばれ。隣に立とうとすると、自然に位置が入れ替わり。
手を伸ばせば届くはずの距離が、なぜか埋まらなくなった。
理由は分からない。
誰かの意思とは思えないのに、けれど確かに“流れ”があった。
勇者は物語の中心へ。
補給係は物語の外側へ。
それが正しい配置だと、誰かに決められているかのように。
でも今は違う。
アルトさんは、何の妨げもなく、私の隣に腰を下ろしている。
「少し、話をしようと思って」
ただそれだけの言葉。
それだけなのに、胸の奥が、じんわりと熱くなる。
「……久しぶりですね」
思わずこぼれた言葉に、自分で驚いた。
「何がだ?」
「こうして、ゆっくり話すの」
アルトさんは一瞬、目を見開き、それから小さく笑った。
「ああ……そうだな」
その声は、どこか申し訳なさを含んでいた。
「近くにいるのに、遠い感じがしてた」
胸が、きゅっと締まる。
「俺のほうから、避けていた気がする」
「避けてなんて、いません」
反射的に否定する。
だって、感覚として分かっていた。
避けていたのではない。近づけなかったのだ。
まるで、見えない線に触れると押し戻されるみたいに。
「……寂しかったか?」
唐突な問い。
私は、少しだけ視線を落とす。
「少しだけ」
本当は、少しどころではなかった。
隣に立てるはずの人が、遠くにいる。声は届くのに、距離が埋まらない。
それが、思っていた以上に苦しかった。
アルトさんの指が、わずかに動く。
触れそうで、触れない距離。
「俺もだ」
短い告白。
焚き火の火が揺れる。
その揺らぎの中で、ようやく気づく。
今は、押し戻されない。
誰にも急かされない。
誰にも割り込まれない。
ただ、隣にいられる。
それがこんなにも安堵をくれるなんて、思わなかった。
やがて、静かな足音が近づく。
「お二人とも、こんなところに」
エリシアさんだった。白い外套を羽織り、微笑んでいる。
「少し休んでいらしたのですか?」
「まあな」
アルトさんが苦笑する。
エリシアさんは私の隣にしゃがみ込み、そっと手を重ねた。
「なんだか……不思議ですね」
「何が、ですか?」
「前は、こうして三人でいる時間が、すぐに途切れていたように感じます」
穏やかな声に私は顔を上げる。
エリシアさんも気づいていた。
「ああ。まるで、決められた配置に戻されるみたいに」
アルトさんが低く呟く。
「今は、それがない」
「ええ、とても安心できます」
私も同じだった。
エリシアさんが隣にいると、息がしやすい。アルトさんが近くにいると、胸の奥の緊張がほどける。
ただ、焚き火が燃えている。
森は静かで、風も穏やかだ。
アルトさんがぽつりと呟く。
「こうしていると、普通の遠征みたいだな」
エリシアさんが小さく笑う。
「ええ。勇者様も、ただの人ですね」
「それを言うな」
そのやり取りに、思わず笑みがこぼれた。
たわいもない会話。
縮まった距離。
それが、何よりも愛おしい。




