33話 揺らぐ均衡
戦闘から半日が過ぎても、森の空気はどこか重かった。
仮設の野営地が整えられ、負傷者は天幕へ運び込まれている。私は救護袋の中身を補充しながら、何度もあの瞬間を思い返していた。
あのとき助け起こした兵士は軽傷で済んでいる。傷は浅く、意識もはっきりしていた。私は胸を撫で下ろしていた。
先ほどの戦闘では、誰も死ななかった。
――そのはずだった。
不意に、野営地の端で悲鳴が上がる。
「おい、どうした!」
振り向くと、別の兵士が地面に崩れ落ちていた。戦闘ではほとんど傷を負っていなかったはずの人だ。鎧にも目立つ損傷はない。
それなのに。
全身が痙攣し、呼吸が乱れている。
私は駆け寄り、脈を取る。速い。異様なほどに。
「どうして……」
外傷はない。出血もない。
なのに、その兵士の体の内側から何かが壊れていくような感覚があった。
その瞬間、空気がひやりと冷えた。
視界の奥で、何かが揺らぐ。あのときと同じ冷えが走る。
――修正開始
どこからともなく、そんな言葉が聞こえた気がした。
意味は分からない。けれど、背筋が凍る。
次の瞬間、兵士の体が大きく跳ね、血を吐いた。
私は息を呑む。
さっきまで普通に歩いていた人が、突然、命の境を彷徨っている。
周囲がざわつく。
アルトさんが倒れた兵士に駆け寄る。
「どういうことだ」
問いかけられても、答えられない。
私は必死に止血と魔力安定の処置を施す。
理由は分からないが、内部の魔力循環が異常なほど乱れていた。まるで、どこかから無理やり引き裂かれたみたいに。
「……毒ではないな」
いつの間にか隣に立っていたノアさんが、低く言った。
ノアさんは兵士の胸元に手をかざし、淡い光を灯す。
「外傷なし。呪詛反応なし。感染徴候もなし」
淡々と告げる。
「しかし魔力流動が断続的に遮断されている。自然発生とは考えにくい」
「自然発生じゃ、ない……?」
「ああ。これは外因的干渉の可能性が高い」
ノアさんは兵士の脈を測り、静かに続ける。
「だが、命は維持される。ただし重篤。長期離脱は確定だろう」
断言。
そこに迷いはない。
ノアさんは立ち上がり、天幕から立ち去った。
◇
――その夜。
ノアは一人、焚き火の前で手帳を広げていた。
「本来、あの戦闘では死亡事象が発生していたはずだ。だが、現場で介入があった」
誰にも聞こえないほどの声。
「死亡確定事象が重傷へと書き換わった。代償は発生したが、等価ではない」
ペン先が止まる。
「強制力が……弱まっている」
焚き火の火が揺れる。
ノアの口元が、ほんのわずかに歪んだ。
「興味深い」
そう呟いたあと、彼は手帳を閉じる。
まだ、共有する段階ではない。
特に――彼女には。
夜空には、雲ひとつなかった。
それでもどこか、星の配置がずれているかのようだった。
それは、誰かが無理に触れた痕のようにも見えた。




