32話 軋む世界
嫌な予感は、朝から胸の奥に沈んだままだった。
森は静かすぎるほど静かで、鳥の声も風のざわめきも、どこか遠くで鳴っているように感じる。
遠征隊は慎重に隊列を整え、木々の間を進んでいた。私は最後尾の馬車の横を歩きながら、水筒の残量を確かめる。補給係としての、いつも通りの仕事。
それなのに、落ち着かない。
何かが、来る。
そんな確信にも似た予感が、理由もなく胸を締め付けていた。
次の瞬間、前方で爆ぜるような音が響いた。地面が震え、兵士の叫び声が重なる。
木々を押しのけるように現れたのは、昨日とは比べものにならない巨躯の魔物だった。圧倒的な質量と殺気が、森の空気を一変させる。
兵士たちが応戦し、アルトさんが前に出る。
私は立ち止まった。前線に出る役目ではないと、頭では分かっている。
けれど視界の端で、若い兵士が足を取られて倒れるのが見えた。魔物の爪が振り上げられ、その軌道の先には、咄嗟に庇おうと動いたアルトさんの姿がある。
その瞬間、世界がひどく静まり返った気がした。
ここで兵士が倒れる。
アルトさんが庇う。
そして、何かが決定的に変わる。
そんな流れが、なぜか「分かってしまった」
分かるはずがないのに、胸の奥が強く拒絶する。
気づけば私は、救護袋を抱えたまま駆け出していた。
前線に飛び込むつもりはなかった。ただ倒れた兵士のもとへ向かおうとしただけだ。補給係として、負傷者に手を伸ばす。それは役目の範囲を超えていないはずだった。
けれど、私が一歩踏み出した瞬間、空気が軋んだ。
目に見えない何かがずれる感覚。魔物の爪の角度が、わずかに変わる。アルトさんの剣が、本来よりも早く振り抜かれる。倒れていた兵士が転がり、土煙が上がる。
轟音のあとに訪れたのは、悲鳴ではなかった。
誰も、死ななかった。
胸の奥が強く脈打つ。
本来なら、ここで誰かが倒れていた――そんな確信めいた違和感が、ひどく生々しい。
その瞬間、強烈なめまいが襲った。
視界が揺れ、地面が波打つ。森全体が低く唸り、空気が逆巻くように重くなる。何かが、私を押し戻そうとしている。
そこに立つな。
その位置は違う。
言葉にならない圧力が、確かにあった。
それでも私は、倒れた兵士に手を伸ばした。
「立てますか」
自分でも驚くほど、声が震えていた。
次の瞬間、圧力がふっと消える。
森は何事もなかったかのように静まり返り、時間が再び流れ出した。
アルトさんがこちらを見る。
一瞬だけ、目が合った。その瞳には、はっきりとした戸惑いが宿っていた。まるで、違う結末を知っているかのような――そんな、微かな既視感。
私は視線を逸らす。胸の奥が痛い。
ただ助けようとしただけだ。役目を果たそうとしただけ。それなのに、何かを壊してしまった気がする。
森を抜ける風が、冷たく頬を撫でた。遠くで木が軋む音がする。
どこかで、見えない何かが書き換わったような、そんな感覚だけが、いつまでも消えなかった。




