回し車、舐めてたわ
一緒に住み始めてしばらく経った頃——
俺は、目の前に置かれたそれを眺めていた。
(……)
回し車。
知っている。
もちろん知っている。
ハムスターが乗って、ひたすら走るやつだ。
「ハムオ~」
彼女が、ケージの外からこちらを覗き込む。
「これ、回し車だよ」
(知ってる)
「こうやって使うんだよ」
指先で、くるりと回してみせる。
(それも知ってる)
俺を何だと思っているんだ。
それは、愚問だ。
ハムスターだと思っているに決まっている。
それなら仕方ない、と、一人納得する。
「乗らないの?」
(乗らないよ)
俺は人間だ。
身体はこんなことになっているが、中身までハムスターになったわけじゃない。
わざわざ同じ場所を延々と走り続けることに、何の意味がある。
「そっか」
興味がないと思ったのか、彼女はあっさりと離れていった。
(……)
目の前には、回し車。
(……まぁ、少しくらいなら)
この身体で走る感覚がどんなものなのか、確認しておくのも悪くない。
別に、興味があるわけではない。
今後しばらくハムスターとして生活する以上、身体能力を把握しておくのは大切だ。
(うん)
必要な確認だ。
回し車へ前足をかける。
乗る。
(……)
一歩。
からん——
(お)
もう一歩。
からん。
からん。
(なるほど)
思ったより軽い。
少しだけ速度を上げる。
からからからから——
(……おぉ)
走った分だけ、足元が後ろへ流れていく。
当然、身体は前へ進まない。
なのに、妙な爽快感がある。
(これ……)
さらに速度を上げる。
からからからからからから——
(結構、楽しいな)
風を切っているような感覚。
身体が軽い。
人間だった頃より、ずっと速く足が動く。
(すげぇ)
からからからからからからからから——
楽しい。
普通に楽しい。
「……ハムオ?」
(ん?)
声に気付いて、足を止める。
勢いの残った回し車に身体を持っていかれそうになりながら、どうにか踏ん張った。
ケージの外を見る。
彼女が、笑いを堪えるように口元を押さえていた。
「めっちゃ走ってるじゃん」
(……)
「さっき全然興味なさそうだったのに」
(別に)
身体能力の確認だ。
「気に入った?」
(まぁ)
悪くはない。
「よかった」
嬉しそうに笑っている。
(何、その顔)
なんだか無性に恥ずかしくなって、回し車から降りる。
「もういいの?」
(終わり)
もう、十分確認した。
もう乗らない。
少なくとも、今日は。
***
夜——
彼女はベッドで眠っている。
(……)
俺は、眠れない。
布団の中で、何度か寝返りを打つ。
(……)
暇だ。
視線を向ける。
そこには、回し車。
(……)
少しくらいなら。
昼間とは違って、今なら誰にも見られない。
開けっ放しのケージに向って歩く。
そして、回し車に、そっと一歩。
からん——
もう一歩。
からん。
(……)
少し速くする。
からからからから——
(やっぱ、いいな)
さらに速くする。
からからからからからからから——
無心で走る。
何も考えなくていい。
ただ足を動かしているだけなのに、妙に気持ちがいい。
(これ作ったやつ、天才だろ)
からからからからからからからから——
「……ハムオ?」
(!)
ぴたりと足を止める。
恐る恐る、ベッドの方を見る。
「ふふっ……」
彼女が布団から顔だけを出して、こっちを見ていた。
(起こしちゃった?)
「楽しい?」
(……)
「いいよ、回してて」
(……寝れる?)
回し車の音は、かなり大きな音のように聞こえる。
「おやすみ~」
そんなことは気にならない様子で、彼女は再び布団へ潜っていく。
(……)
静寂。
回し車の上で、しばらく固まる。
(……もういいか)
降りた。
今日はもう乗らない。
***
翌朝。
「おはよ~」
彼女が起きる。
俺を見る。
回し車を見る。
もう一度、俺を見る。
「……珍しいね」
(うるさい)
俺は今日も、回し車の上にいた。
ハムスターの回し車。
正直、舐めてた。




