第一話『魚と黄金手』-5-
少しだけ、空気が固くなった。だがいつものことだとイフィニアスは割り切れた。彼は話題を変えた。とはいえ彼が咄嗟に思いつくことなど限られていた。
「咒は国家を変えうる、ペルタンダス」
「誰もが使えればな。文字を覚えるのはとても金がかかるぞ」
「誰もが使えるようにすればいい。知識を集約する大学校を建てれば、富の分配からも民衆議員を仲間に引き入れることが可能だ」
「文字の読み書きが、そこまで普及するかどうか。少なくともいくつかの生業が消えるな」
「できるように変えていけばいい。社会はいつだって変わるのだ。保証をたて、それでもとすがるなら技を高めればいい。全ての古いものが、全ての新しいものに必ず勝るわけではない。滅ぶべきが消えるだけのことだろう」
ーー咒。
それは神秘の累積、あるいは奇蹟と言われる力だ。文字を刻み、その文字の力学が現象に影響するという神からの贈り物だと言われているが、神や精霊は民間の話だ。国家頭脳の多くは信仰を持ってはいても、信仰に由来するもので全てを片付けておらず日夜研究に励んでいる。
イフィニアスも簡単な咒を扱うことはできる。咒とは言ってしまえば、文字の形にあろうとする力学だ。例えば石に水と刻めば、石は極力、水になろうという力場に晒され不安定なものになるという形だ。
古くから咒は存在するが、言葉の数だけあり、いまだそれが何なのか知る者はいない。
「咒は苦手だ。退散、退散」
イフィニアスはさらに咒の話を、咒の普及に話を広げようとした。だが聞き手のペルタンダスは、第Ⅲ軍団軍団旗案の描かれた粘土板をしまい、そそくさと背中を向けて出て行った。ペルタンダスは自分が言うように、咒が苦手なのだ。
ペルタンダスが去り、残されたイフィニアスはぼんやりと表現するには鋭い思考が走っていた。咒に関しては、エクランドスのほうが素養ではなく熱意があると。エクランドスの膂力は、アレイポラス王の子にしては異常なまでに弱すぎた。だからこそか、とイフィニアスは微笑む。
エクランドスには、『誰よりも前進の力学がある』と、イフィニアスは弟を見て、考えていた。
「『仕事に戻れ、イフィニアス』」
事務仕事の粘土板を見た。手机の上にあるそれには、あちこちで発生した紛争の調停の嘆願が書き連なっている。王族の特権が、重大な仕事と結びついているゆえだ。
領民を裁く。
それが、王とそれの血筋に残された特権だ。
勿論、裁判所というものは王家の代理としてあちこちの城や都市にある。あるが、それだけで解決するには王家というわかりやすい共通の象徴が必要なのだ。共和国に王族は、実に都合の良い存在だった。でなければ、自由への革命で民衆の手にかかり、王族は一人残らず殺されていたことだろう。
(咒然り、やはり僕には……)
イフィニアスは次期王であり、アレイポラスⅨ世となる未来が濃かった。だがそれは、果たして本当に正しい枝葉の末端であるのか。
木々は多くの先端を伸ばす。粘菌や蛸や烏賊の手足も探り、そして辿り着くのだ。イフィニアスは悩んでいた。自分の道は探りの中で見つけられたものではなく、定められただけであるのだと。
何ができるのだろうか。イフィニアスは悩んだ。だが答えはいつも湧いてはこなかった。これからもずっと、悩みを抱えることになるだろうという確信めいたものが彼の胸の中にはあった。深すぎる悩みは、人間を氷の人形に変えてしまう。答えを絶対に出せない質問をドォレムに投げかけるのと同じだ。幸いなことに、イフィニアスは人間であり、『考えることをやめる』という選択肢を取れた。
(気晴らしに弟エクランドスでも揶揄うか)
兄としては悪い笑顔を浮かべたイフィニアスは、手隙の召使いに粘土板を棚へと片付けさせた。
「誰か」
イフィニアスが呼べば、奴隷の男テレパチオンが膝と腰を折り現れた。テレパチオンは信頼厚い奴隷であり、解放奴隷ではあるが義務を全うできるその最後の日まで、奴隷としていることを選択していた。
「テレパチオン、我が弟エクランドスの場所まで案内しろ」
イフィニアスは危うく、「すまない」あるいは「悪いが」と言いかけた。もしそのような言葉ききをしようものなら、イフィニアスよりも長く奴隷をやっているテレパチオンは一時的に対等な解放奴隷の立場へと帰り、イフィニアスの言動を厳しくたしなめることだろう。
テレパチオンは戦傷で白い顔を、微塵も笑みに崩さず言った。
「お戯れが過ぎますぞ」
「仕事は終えた。我が弟には、咒の可能性を感じるのだ。あれは星に見られる子へ相応しい」
イフィニアスはよく漉された泥の入る桶を確認しながら、楔型杭を数本、それに小さい木枠を荷出ししていた。その道具諸々が、エクランドスに咒を伝授する為のものであることは明白だ。
「星々に漕ぎ出せるのだ。行かねばなるまい」
「次期王よ。危険な考えです、私は星の彼方を知っています。その恐ろしさ、その伽藍堂、人間の知がおよばぬおぞましい海です。そのような海に帆を張るのは、危険ですぞ」
「いずれはーー」
イフィニアスは荷物を纏めた。
「ーー籠から出ねばなるまい。かつてそうであったように、今もそうであるべきなのだ」
「御意」とだけ、テレパチオンは言った。
テレパチオンは顔をあげ、イフィニアスを先導した。彼が悲鳴をあげながら乳妹に手解きを受け、それを母達に見守られている輪に加わるのは程なくしてからのことだった。
王家の庭で、『イフィニアスの咒式兵器』が暴発したのは、そんな揶揄いで彼が訪れた直後のことだった。




