第一話『魚と黄金手』-4-
イフィニアスの本に囲まれた執務室に、小さな粘土板を掌へ納めたペルタンダスがやってきた。石床に御座を三枚重ねて座るイフィニアスは眼鏡の位置を直すと、
「ペルタンダス、これはなんだ?」
と聞いた。ペルタンダスは手に持つ粘土板を石床に置いた。粘土板に描かれているものは、なんらかの図形のように見えた。だがそれが何を表しているのかまでは、イフィニアスにはわからない。魚のようなものと、人間の手首らしいもののように見えるが……。
「我らが末弟エクランドスの抱える第Ⅲ軍団軍団旗の素案、とでも言うべきかな」
ペルタンダスは心の底から愉快そうに破顔していたが、歯を見せるほどの快活な笑みは見せなかった。これは彼の気性からだ。
「母上から写しを貰ってきた」
「なるほど」
イフィニアスは『仕事』の粘土板を手机の上に置いたまま、石床に置かれた軍団旗候補の粘土板を覗いた。刻みが甘いな、と思った。深さにムラがあり、道具を使ったときに寄った土が醜く波打っている。イフィニアスの目には、これを誰が打ったのかは明白だ。
(三番めの軍団、か)
イフィニアスには複雑な心境だ。父、アレイポラス王が犠牲と芝居で勝ち取った『戦力』ではあるが、手放しに喜ぶことはできなかった。王家と民衆議会の亀裂になる可能性がありえるからだ。
「エクランドスがその気になりすぎるのは、な。もし軍団を取り上げなければならなくなったとき、あれのガッカリした顔は、できれば見たくはないものだ」
「議会が認めているんだ。問題はないだろう。そんなことよりも新兵はどこから引っ張ろうか。熟練は第Ⅱから何人か送るが、第Ⅰからも送ってくれよ、長兄のイフィニアス」
「楽観的だな、我が弟ペルタンダス」
イフィニアスとペルタンダスは気心の知れた仲だ。王位を争い、宮廷で暗殺合戦というものが横行する時勢だ。貴族の当主をめぐって家族で殺しあうことが珍しくないことを考えれば、アレイポラスⅧ世の三人兄弟は異常な仲の良さだった。
それは、イフィニアスの誇りだ。
家族に悩みはあるが、大きな悩みではなく酷く個人的なものくらいだ。だが同時にそれは、王家から離れた国家という集合には影を落とすかもしれない。イフィニアスの問題ある悩みの一つは、そこだ。
「議会に第Ⅲ軍団を認めさせたアレイポラス王は酷く感情的にことを進めすぎた。民衆議員の心は刹那的だ。時期に自分達が、何を王にくれてやったのか気がつく。そうなれば王家と民衆議会の軍拡競争か、あるいは内乱だぞ、ペルタンダス」
「共和国を火の海になど、当事者の民衆議会が扇動するとは思わないがな。民衆の顔役だぞ。資産もコネも約束の信頼も破ることになる。民衆と、それから選出された議員は馬鹿ではないんだ、イフィニアス」
立ったままであったペルタンダスが、石床に腰を降ろした。ずい、と兄弟の顔が寄る。
「気をつけろ我が兄。お前は『不要な王候補』なのだから。代えは、字引き人形でも務まる」
「ドォレムが国難を全て受けてくれるとあれば、まさしく王族など不要になるだろう。だが国家には時に、王家という規範が必要なことがある。共通の、普遍の認識である柱がだ」
「だからこそ、迂闊なことで折れてはくれるな、我が自慢の兄」
「心得ている、我が愛しい兄弟の一人」
真剣な目が、離れた。
「我らが弟御だが、結婚話でもないのか」
「いきなりどうした、イフィニアス」
「政略結婚絡みの縁談が来ていてもおかしくはないのだが、とな」
「聞いたことがないな、そういえば。女と言えば、乳妹のユカタチにいつも尻を蹴飛ばされているけど」
弟の話題に、二人の兄イフィニアスとペルタンダスは自然、笑みをこぼしていた。イフィニアスはユカタチを知っていて、
「ユカタチは辺境部族の出だろう。エクランドスには偏見がない、なさすぎるとも言えるが……」
「同意だ。白い乳牛レウルシルを母としているしな。我らが母と同格だ。母上もよく怒らなかったとも思ったが……」
イフィニアスは白い乳牛を思い浮かべた。ペルタンダスは思い出すように話を続けた。
「アレイポラス王が乳牛……いや、レウルシルとまぐわい孕ませたと汚名を被り、また彼女自身が息子を差し出す献身をしてくれたからこそ、エクランドスは生きながらえた。牛ごときというには、あまりにも恩知らずだったな」
ペルタンダスは一抹ほど不安を滲ませ、
「……我らが弟はそのうち、牛の嫁でも貰うのではないか?」
ペルタンダスの言葉には、冗談と本気が半分ずつ宿っているように聞こえる。心配しているのだろうか。だがイフィニアスは、
「それならばそれでいい」
「本気か!?」
ペルタンダスが声を荒げたが、当のイフィニアスは涼しいものだ。
「辺境種族とは、どうしても偏見から国交が難しい。だが我らが弟エクランドスがそれら異種族と契りを結び、血族となれば、彼ら彼女らは王家の家族になろう」
「蛇や鳥、得体の知れぬものに我らが弟御をくれてやるのか。流石に聞き捨てならんぞ、我が兄イフィニアス」
だからお前には、辺境種族との折衝をさせられないのだ。イフィニアスは内心を留め置き、言った。
「『黙れ』」
ペルタンダスは、イフィニアスのその一言、それで話を終えた。




