第一話『魚と黄金手』-3-
怒りを滲ませた、しかしそれを褐色の肌の内側に封じ込めきっているユカタチが地に倒れているエクランドスの手を引いて立たせた。
あの乳妹は、ユカタチは兄の顔をたてはするが、同時にいつまでも倒れている姿を見過ごすほどの女ではなかった。荒々しい肌の手と王子の剣を振るい豆のついた手が繋がれた。
「この……!」
今まさに大気を震わせようとしたユカタチは、しかしその言葉を飲み込み、エクランドス、王の子を前にしての言葉を選び直しながら紡いだ。エクランドスの三人の母達はその成り行きを見守っている。
「王子エクランドス。いつまでも倒れていても示しがありません」
エクランドスの尻や頭を汚した土が、ユカタチの手で乱雑に払われた。しかしエクランドスの整わない髪は、彼が大きな悩みの渦の中で纏められずにいることを意味しているようだ。
「ユカタチ。やはり私は、王子であっても王ではないんだ。だから兄が王になった日には、私は野に下るほうがよいのではないだろうか。王が死んだ時の予備にも、小兄がいるのだから。三人の三人めは必要ない」
エクランドスは真面目に絞り出していた言葉だが、聞き手ユカタチは呆れたように溜め息を吐いた。そしてエクランドスの額に軽く、自分の額を打ち合わせた。
「そんなことがあって良いわけが無いでしょう!王子は予備でも何でもありません。どこに行っても王子なのです。ユカタチが額を合わせているのは、イフィニアス様ですか?ペルタンダス様ですか?」
どちらでもありません、と彼女は陽だまりの微笑みでエクランドスに微笑んだ。優しさに、彼は心が動いて涙ぐんだが、膨れた涙袋から流すことはなかった。彼には男の子の意地があるのだ。
男の子、それをユカタチも知っているからだろう。泣きかけの顔を彼女は何も言わなかった。額を接し、鼻が擦れるほど顔を寄せるのは後にも先にも、特別な心がありものだ。
「だが私は役には立てない!人は、命は産まれながらにその役目を天より授かるというが、私はいまだそれが何なのかわからないのだ」
「あら、それならユカタチもそうです、今こうしてうじうじの王子と話すのが天命か悩んでいます」
「……むぅ。それは少し、意地が悪いぞ、ユカタチ」
「怒りましたか、王子エクランドス」
エクランドスは答えなかった。だが、彼のほうから額を剥がした。それは拒絶とは違った揺らぎからだ。
「……少し気が晴れた。物を試してみよう。やって見なければわからず、やらずに察することができるほど私は賢人ではないのだから」
「その意気です。お互い頑張りましょう」
「そうだな。ユカタチ、君にはいつも心を支えられているぞ、小さな妹」
「最近、背はユカタチのほうが大きくありますけれど、『小さな弟』エクランドス」
エクランドスは考えた。差し当たって、彼が考えるべきは、彼が面倒を見れるようにならなければならない彼の軍団についてだ。アレイポラスⅧ世が約束した軍団はいまだに、一人も新兵も招かれず、軍団旗も作られてはいない。つまり軍団は存在していないのだ。
王家に許された伝統の常備軍団は、二つある。
第Ⅰ軍団、軍団旗は鷲と白雪。長兄イフィニアスの指揮下にあり、重装歩兵を主体とした騎兵や弓兵を混成した停止と機動の兵法に従う重厚な軍団だ。熟練した古参兵士は代々、この軍団の名誉を勝ち取る教育の効率化が進んでおり、数代に渡って、血と技術が高められ続けてきた。
第Ⅱ軍団、軍団旗は狐と三日月。次兄ペルタンダスの軍団は同盟諸国から募集した志願兵からなっている。投石兵や弓騎兵など、王国ではあまり見かけない兵士らが様々な神と肌で、一つの軍団に纏まっている、癖が強い、しかしこれも強力な軍団だ。
ではーー第Ⅲ軍団は、どうあるべきだろうか。
エクランドスは男だ。できるのであれば、それは上の兄達の軍団よりも強くありたいと考えていた。本能と言える強さへの累進だ。
「私の軍団か」
ユカタチが小首を傾げた。
「いや、どうあるべきかと考えていた。私が弱くとも私の手足が強ければ何も問題がない。問題はその手足が無いことなんだ」
「だからこそ、無力だと思ったのですね」
「……正直な話、私の第Ⅲ軍団というものを想像できないんだ。兄達の軍団を見たことはあるか、ユカタチ」
「はい、勿論です。何度か演習を見学に」
「ならばわかるだろう、乳妹のユカタチ。私の軍団は、あれら勇者達と肩を並べ色褪せていてはならないんだ」
「難しいですね」
「難しいのだ」
想像ができないでいた。
エクランドスが、長兄イフィニアスや次兄ペルタンダスと同じように精強な軍団を従える未来がだ。
「ユカタチは思うのですよ」
悩みで固められ、動けなくなっていたエクランドスの時間を溶かすのは、いつだってユカタチの役回りだ。そして今回もそれは変わりなかった。あるいは、彼女が産まれた日から、そうであったように。
「旗が無いから、考えが散るのではないでしょうか。ここは、どしーんと杭を打つくらいの考えで、我ありと軍団旗を考えてみては?」
エクランドスは思った。なにそれ妙案すぎる、と。男は単純であり、虫に抉られ刺された傷はすでに、筋肉が盛り返して埋めていた。




