第八話『そして竜は目を閉じ夢の終わり』
愚かな決断だったろうか。白い闇がエクランドスを呑み込む中で、彼は自問を続けていた。もっとも望み、しかし決して叶わないだろうと諦めていたからだろうか。今、エクランドスはただ一人で死のうとしていた。サリサス人の神の土地でその身を埋めるだろう覚悟だ。神なんてどこにもいなかった。求めるものに決して応じてはいけないものが神なのだ。救いを求めて神を求めるのは、あまりにも愚かな行為なのだ。だから、エクランドスは死んでも神に救いを求めはしないと決めていた。
一人、また一人と部下を失っていく。第Ⅰ軍団との戦いがいつまでも可能なだと甘い未来は捨てられた。エクランドスは最後の近付きを感じた。王国へは、山越えできそうにない。死に場所を決める必要があった。
「おぉ!」
思わず漏れ出た声。
サリサスの冷たい山々が、美しさだけを見つめることを許していた。瞑目の中で情報の潮流に身を任せたエクランドスは、そこに居て、そこには居ない。
死とは何であろうか。
避けられない死を前にして、エクランドスはそれを見つめた。恐れはなかった。時期になるものでしかない。答えはどこにも転がっておらず、答えを作らなければいけない。でなければエクランドスは、死を理解できず、理解とはいかずとも何かともわからないままに死ぬ。エクランドスの避けたい可能性だ。だからこそエクランドスは死から目を逸らさない。
「私はどうなると思う」
「死ぬだろう」
肉人形は答えた。エクランドスは「そうか」とだけ返した。
「私はーー」
どうしてこんな死に際を当てられる。何をした。死を望まなければいけない。最後の呪詛をしかし、エクランドスは飲み込んだ。
「いや、私である為に私でいるとしよう。誰から望まれた形ではなくとも、私がそう定めたのであるから」
例え肉体に刻まれた咒が、エクランドスの手だけではなくともだ。打ち込まれた咒は致死であり、治らない傷を負わせるもの。流れる血が止まることはないのだ。エクランドスは流れたぶんだけの血をすすることで生きながらえている。死者を喰らって生きているのだ。その生き様は、醜い。
だがそれでも生きたい。だからこそ死にたい。相反する二つの感情だが、だがもしかしたらと明日を意味もなく希望し絶望する。
「エクランドスはどうしてそんなに生きたいのさ」
「さっさと死んじゃえよ」
咒はーーエクランドスの体を蝕む。
「哀れだな」
雪原はしばしば白い闇を生みだす。これも幻だろう、とエクランドスは見たものに対して考えた。彼の目には、竜が見えた。巨大で、しかし絵巻物にあるような暴虐や卑しさを見せない竜を。それは美しかった。サリサスの古竜がエクランドスを見下ろしていた。幻だと断じ、現実を否定することは容易いが……彼は逸らす必要性を感じないでいた。かつて、神と古代人と覇権を争っていたと伝承が残る古き竜の一は、小さくなった人間を見つめている。
「竜よ。醜い末裔を殺しにきたのか」
「醜い命を美しく散らすことも我がさだめ……と、昔ならば慈悲の牙を向けるであろう。しかし今は眠い。好き勝手に囁きを語るのならば聞いてやらんこともないと現れただけだ」
悪びれもせずに竜は言った。要するにサリサスの古竜は、エクランドスの死に際を覗きにやってきたのだ。趣味の良い行動とは思えなかったが、エクランドスには良い悪いどちらにしても古竜が見るのであれば、否としたところで目蓋を縫い合わせる力が残っているわけでも、あったわけでもないのだ。古竜が見ると言えばそれは自然、見られることを受け入れるしかない。
「時にエクランドス」
エクランドスは、古竜が名前を知っていたからと驚く気はなかった。
「なぜ、お前は『今しか見ない』のだ?」
古竜はそう訊いたが、エクランドスには答えるべき答えのある質問だ。長い時間、無限のものが有限のものを知ろうとする方が、もしかしたら難しいのだろうかな、とエクランドスは考えた。
「今だからです」
エクランドスが立っているのは、決して巻き戻ることのない先にある過去ではなく、進めようと思ってもいつも闇の中で恐れながらも飛び込むことでしかわからない未来ではない。エクランドスが立ち、そして見ているのは現在なのだ。過去も未来も、現在を基準に推し量る相対的な時間と光景だ。
「もっと過去を見直し、未来を考えることはしないのか?」
古竜の純粋すぎる疑問の投げかけに、エクランドスは少し笑いそうになった。星とともに生きている古竜が、あまりにも純粋だ。
「そう見る人間もいるでしょう。過去から学び、未来のまだ知らない存在の為に奉仕する。とても尊いことだとは思います。ですが、それさえも今しか見えてはいないのです、古竜よ。立っている場所は今しか無いのです」
「見る時間を今に限定する必要はないだろう。事実、『見えている』というのに」
「見える見えないは水掛け論になりますね。より問題なのは解釈でしょう」
「見えていても受け入れないと」
「どんなに素晴らしい発明でも、使われなければガラクタせあるように、情報は情報として存在している限りでは何の意味もありませんから。私が次の瞬間に死ぬとしても、私には何の用意も無く、この情報の過去も未来も無価値です」
動かないゼロは、何も価値が無い。
「ふーむ」
古竜は、『随分と人間臭く唸って』顎を撫でていた。鋭い、が、爪研ぎで先端を潰したような爪が鱗を掻き毟る荒さで撫でた。
「しかしとやはりもう一度訊こう」
古竜の爪が、エクランドス頰に血を刻んだ。凍り、破けたエクランドスの皮から僅かに血の雫が玉を作りーー凍りつく。
「何故、今しか見ようとしない?」
エクランドスには答えられないが答えがあった。それはもう先が無いからだ。だがそれを言葉にするのは古竜が相手であっても『気にくわない』が故に教えるつもりはなかった。
ハッとした瞬間には、既にエクランドスは竜の見る夢に手篭めにされていた。つねっても、引き裂いても、エクランドスにはこれまで通り何もできない。達観していた。冷たい、半ば氷となっていた肌に血が流れている。死んではいない。
「灰色だ」
そこは、四角い世界だ。定型化された高層建築物に何百と青い硝子が嵌め込まれている。道は固く、気休めで植えられた僅かな木々と土以外にはことごとくが隠されていた。川でさえも、左右を頑強に人工物で覆っていた。エクランドスの知っている、サリサスのよう土地でも共和国でもない、どこか遠い見慣れた世界だ。
過密な都市ではあるが、人通りは極端に少ない。また窓という窓に鉄格子のようなものが降りていることにも気掛かりだ。エクランドスは小首を傾げながら、無人の都を進む。勝手知ったる場所だ。最後に見たときと何ら変わりはなく、何もかもが違うはずなのに全てが変わらずそこにあるというのは、なんだか変な感覚だ。
エクランドスの体から、咒が剥がれ落ちた。それは文字の力学だけを残してコソコソと逃げていく。「……」ミソギでも受けているようだな、とエクランドスは感じた。であれば咒とは穢れなのだろうか、とも。
「でさー」
人がいた。いや、正確には声が文字となってエクランドスの知覚を刺しただけだ。エクランドスは少しだけ驚いてしまった。文字が起こり、黄色い肌、体毛は黒い、華奢な肉体を意図的に維持しようとする具合であることがうかがえる。声をかけるか迷い、しかしエクランドスは欲望に抗えない。話してみよう、衝動が彼の背中を押した。だが彼が見つけたものは視覚として収められたものは、形のわからない何かでしかなく、もう言葉を発してはいなかった。酷く残念な気持ちがエクランドスの心中を満たした。
「エクランドス、気をつけろ」と、声は古竜だ。「お前の存在は既に一線を超えた咒の怪物。下手な力場で壁を崩せば常人の形が失われるのは当然のことだろう」
呆然と、エクランドスは見た。人間だったもの、その形をだ。
「私がやったのか、いや、やってしまったのか」
「驚くことは何もないのだ、エクランドス。今までにその身体へどれほどの咒を刻んできたと思っているのだエクランドス。膨大な文字の積層なんだぞ、力学は折り重ねれば崩壊する。そして崩壊した力場には、崩壊した別の法則が必要だと思わないか?逆説的に、新しい法則があるということだ。つまりエクランドス、お前は新しい知らない存在というわけだ」
「頭が痛くなる。だけど、わかります」
エクランドスは肌を見た。黒い肌だ。よりよく見れば細かな文字がそこには刻まれているはずだったが、今、その文字は微小に粉砕され、溶け合い、黒い色としてしか見ることができない。それでも文字が崩壊しているということが、エクランドスにもわかった。
何度も、肉体が限界を超える為に文字で感覚を上書きした。文字の上から文字を書き換え、重なり合う文字も多い。膨大な文字を単独、それも極狭い範囲に集中した。文字を文字として維持できる力の限界はどこにあるのだろうか。エクランドスはそのことを考えてはいなかった。文字とは破壊不可能な存在だと漠然と認識していた。そう考えることもないほどに、無限の強度があると思い込んでいたが、大きな間違いであったようだ。
文字は崩壊しうる。
結果的に、エクランドスの体に発生したことは文字の力場が崩壊して何か別のものに変わったということだ。文字は記憶とも変換可能だ。それ故にエクランドスは文字の圧壊の中で何か別の重なり合う、記憶の根源へと触れている状態にある。そこには時間という概念がないのではないか。未来とは過去であり、連続性でありそうではない?
そこでエクランドスは考えることをやめた。
「文字から逆算して形状を投影する人間というのは異質だ。ましてや偶発的とはいえ意図的に引く起こす。素晴らしいという他ない結果だろう」
古竜の素直な賞賛だ。
悠太郎は、はっきりとした意識と気怠い肉体のアンバランスに苦しんでいた。だが、その気怠さを押してでも外が気になった。警報はまだ出続けている。外には、今、『誰がいるのだろうか』という疑問が衝動していた。
平面情報化された記憶が文字になって起き上がっている。
母なる牛レウルシルは、血の繋がらない兄弟らの死に涙を流した。もはや何人にも知られることのない涙の意味を知る者など彼女自身以外にはいないだろう。名前が刻まれた。
(オーラニア、グインネイヴ)
二人の子を持つ母に贖罪の言葉を投げた。いななき、憤怒、悲しみ、言語にし難い様々な言葉を持った言葉だ。
(過去は今、未来とは昨日……)
レウルシル、この雌牛は考える。あるいは人よりも。共和国で牛とは神聖である。建国の子供たちを守り育てたのがレウルシルと同じ牛であると信じられているからだ。あるいは、信じられていた。尊い肉として、食べる。神聖不可侵ではない。だがその生に対して侮辱は許されない。神聖な生き物としてもてなす一方では肉を食う。これは決して矛盾しない信仰だ。
しかし……レウルシルは、信仰の薄れを感じていた。百年もすれば、レウルシルのような牛も含めて『ただの肉』として食われる為に飼われるだろう。市場には数多くの食肉が並び、経済を重視したより多くより安くの思想が根付きつつある。豊かになる制度なのだろうか。レウルシルの目にはただ、急速に変わりいく世界だけが見えていた。
ククルスニアだけでも大きな流れの中に飲み込まれた。人の上に金が立つ時代だ。金は人を生かし、人を豊かにし、人に不平等を小さくした。
「レウルシル様」
そう呼ばれることの希少さ。多くの行き交う人は、仕事の邪魔であるか、汚い家畜を見るような目だ。レウルシルはククルスニアの外へと出ていた。狩人の鉄に狙われ、蹄でこれを砕き、あてもなくさまよう。
「レウルシル様」
また呼ばれた。人の言葉も億劫になっていたレウルシルは、しかし話さざるをえなかった。ユカタチ、王家の庭の妹がそこにいたのだから。
「ユカタチ。ククルスニアに戻りなさい。貴方は人として暮らせるでしょう」
「しかし私が離れれば、レウルシル様はいずれ肉として死ぬことになりましょう」
「死ねば誰もが、そして何もが肉と骨と皮でしかないものですよ、ユカタチ。それを恐れてはいけません。息子もまた、恐れることなく竜の夢へと還りました」
「レウルシル様……私は、私は死をそのように達観はできません」
「それも良いことです。今を生きているなら、それでも充分でしょう」
曖昧な答え。しかしレウルシルの中で矛盾はなかった。
「どちらに向かわれるのですか」
「さぁ?食べて、生きていく場所ですよ、ユカタチ」
ぴょこぴょこと、レウルシルの後ろをユカタチが付いて来る。エクランドスがどうなったか、生きているのか、それを聞くことは何度もできたであろうが、彼女が訊くことはなかった。
「生きるとは苦しいですね」
「そうですね、レウルシル様」
新しい時代の魂には、新しい器が必要だ。
「我が子の生まれ変わりは今、どうしているのでしょう」
「エクランドス王子は……」
ユカタチは少し言い淀んだ。だが自分自身へと言い聞かせる。言葉を強く、
「たくましく生きておられることでしょう」
ユカタチはウォーターシスターの話を思い出していた。自我とは何かという質問だ。小難しい、頭の痛くなりそうな問いに、ユカタチは自分自身の今までの積み重ねであると言うことを適当に言った。彼女の単なる思いつきだったが、今はその言葉がユカタチ自身を支えている。エクランドスは、ユカタチの中にいるエクランドスはーー最強なのだ。踏みつけても、燃やしても、呪われても、決して死ぬことなんてありえないのだ。
きっと、絶対。
「純粋ですね、ユカタチは。そこが愛おしく、同時に矛盾して……愚かでもあります」
「自覚は勿論あります、レウルシル様」
「愚かだけでは言葉足らずでしたね。賢くはないですが、何よりも慈しめる愚かものです」
「私には違いがわかりません」
「ですが、四本足の蹄にかけてそれらはあまりにも大きな線引きをしていますよ。私はきっと、貴方を贔屓の目で見て、またそう手助けしてしまうでしょう」
「ありがとうございます」
喜んで良いものかは、ユカタチは少し考えた。
イフィニアス。その名前が力学として意味を手繰り寄せるのは、アレイポラスⅧ世の長兄だろうか。あるいは第Ⅰ軍団の指揮官であるが意味は同じだ。イフィニアスという最低単位の個人を銘とするには充分なものがそれにはある。
アレイポラス王が死に、王子が死に、王家が消え、共和国は変わった。王家の裁定は完全に立法……民の手に移った。共和国は民主主義を進めた。だが、とイフィニアスは考える。本当のところは、そんなものは必要のなかった血なのだ。王家もまた、議員の争いに巻き込まれた。それだけで全てに答えが出た。ただ、王という銘を持っていたがゆえに大きな波紋を呼び込んだ。王家の庭は接収された。王家の私有地だからだ。財産はイフィニアスの手に入った。彼はこの土地を、首都ククルスニアの中でも自治区にしている。
(あらためて、驚くべきことばかりだ)
王家の庭は、歴代の王が作り上げた悪趣味な庭と口の悪い市民は言っていた。辺境の『人間足り得ない蛮族』を愛でる為に一個の街を作り上げたのだと。間違いではなかった。そしてその血をもっとも受け継いでいるのは、エクランドスだ。イフィニアスにはどうしても、王家の庭の住人らを、エクランドスほどには愛することができなかった。それだから、彼は王家の庭の巨大な城壁を外から見上げることしかしない。中には入らなかった。門を全て封鎖しても、中だけで暮らせるだけの咒の都だ。首都ククルスニアが餓死しても、王家の庭は生き残ることだろう。
王子ではない民衆議員のエクランドスは考えた。市民権のない王家の庭の住民に投票権はない。票田ではない以上、彼女達の声を『聞く必要がない』のだ。議員は市民の声だ。そして支援者の利害を調整する。イフィニアスの支援者は色々だが、辺境に大きな利益を持つものはいない。利益、要求、それを餌にして飼い主にならなければいけない。でなければ飼っている獣に自らの手どころか首を噛み千切られた。
「ままならん」
イフィニアスは王家の庭に背中を向けた。銘柄釘が打ち込まれていた。王家の庭が作られたとき、王家としてその刻まれた文字の中には、イフィニアスの名前もあった。
「第Ⅰ軍団」
足は、止まらない。
「ペルタンダスを殺すぞ」
第Ⅱ軍団と第Ⅰ軍団が衝突した。そして呆気のない、弟ペルタンダスの敗死の報はそれからしばらくしてからのことだった。第Ⅱ軍団は転進し、サリサス人の土地へと侵入した。エクランドスを殺す為にだ。
イフィニアスは夢を見ていた。決意した日の夢だ。そうして、ペルタンダスを、アレイポラス王を殺した。
誰にも知られることのない叛乱は、そうして切られた。
「血よ」
恨みも、妬みもなく、そうあるべき形の為にだけ奉仕しよう。その記憶を、イフィニアスは思い出した。第Ⅰ軍団が弟のエクランドスを追討に出ていた、完全に見失ったとの報告は受けていた。王国へと抜ける大山脈の果てに消えたのだ。それで良かったのかもしれない。イフィニアスは考え、腰のものに指先を撫でた。父であるアレイポラスⅧ世から祝いに賜わった剣がそこにはあった。斬るためのものではなかった。その刃には歴代の王の名前が刻まれていた。そして、イフィニアスが王となった日には、そこに新たな王の名前を刻むようにとも言われていた。
銃声が響く。
銃撃戦だ。
サリサスの黒い木々で咒が交差した。呪いが蝕む。刻まれた目はそれを見ていた。
木々が、四肢が引き裂かれた。ハラワタは捩じくれ、骨さえもおぞましく捻くれさせられた。ペルタンダスの亡霊がもしこの光景を見ていれば嘆くだろう。彼は咒が嫌いだ。
竜の加護か。
エクランドスは第Ⅰ軍団の先見を撃破した。イフィニアスはその姿に加護を見つける。
(繋がりがあるのか)
エクランドスの肌に恐ろしい文字が刻まれているのを見つけた。形が変わっているのだ。積層された文字の力が、文字自体を押し潰していた。何か、別の文字へと変化している。
(面白いな)
こういうこともあるのか、イフィニアスは驚きと同時に、弟が生きていることでも死んでいないことにも無関心であったことに気がついた。イフィニアスは言葉を咒して『人間性』を刻みなおした。
力は、何も暴力だけではない。水の流れ、星の動き、風の揺らぎ、地が裂けることも力が起こすことだ。ならば根源の力を自在に引き出せれば、万物に対して無限の可能性を持てるのではないか?
とても純真な考えであるそれから生まれたものは、酷く歪な物だ。
「共和国に千年の繁栄を、千年を守る兵士を、千年の栄光を!」
神殿から立ち上がる巨人は、ククルスニアの全てから見えていたことだろう。
巨人。
神ではない。
「アレが噂に聞く、ククルスニアの力なのか」
「人造神です」
「神職として神を創造した状況をどう思う、絹のイース」
「人間が可能であれば可能なことをやるものです。神を作り、星を作ったとしても、神の御技とは言いませんし、神とはそもそもそのようなものではないですよ、ノグ=ボー」
「力の象徴としてのアレを笑っているな、お前」
王家の力を捨てた共和国の代用品だ。その中身を満たしているものは、知らないほうが身のためだろう。知識が命を蝕むこともあるのだ。
祝福とともに花が流されていた。ククルスニアの市民が、窓という窓から、籠一杯の花を詰め込んで、それを振り撒くことで祝いを表していた。
「王家とは何だった。アレイポラスとは」
「王の字がもつ力は代行です」
「支配者だろう」
「同じことですよ、ノグ=ボー」
アレイポラス家とは、王の家だった。なぜ、それが排除されたかはわかっている。支配されることを嫌った。それだけのことだ。誰かに口出しされることは酷く、剣を突きつけられたように感じて対抗してしまう。逆に言えばそれだけなのだ。力を財を蓄えれば、失うことを恐れる。奪う存在は消したくなる。……その程度の理由だ。成功してしまった民衆議員は、成功を自慢とともに胸に持ち続けるだろう。イースとノグ=ボーは勘していた。
「これが、正しい道なのか、イース」
「真に問うべきかは、正しさなどではありませんよ、ノグ=ボー」
「どう言う意味だ」
「正しさという危うさに囚われるべきではありません」
「……そう言うことか」
「はい。ですから、私が共和国の行く末に意見はあっても正そうということはありえません」
「共和国はいつか滅びるな」
「それもまた、悪さはないでしょう」
求められたものだけが形と意味を持つ。必要とされた世界が形だ。社会だ。良い悪いではなく、そうあるのであれば均衡を保って安定しようとしている。どんなに不安定でもだ。情と理にこだわるのであれば別の話だが。少なくとも、世界への活動に酔う人間は会話にいない。
「なすべきをなそう」
サリサス人が飛んでいた。触れれば凍る雨が翼を重くした。それでも氷を割るように、雨というよりは雪を掻き分けるように彼らは飛んでいた。サリサスの土地に住む有翼人の翼は特殊な羽毛だ。充分に寝かされて撥水性が良く、翼は短く太い。そのせいで遠くへは飛べないが、凍りつくような空、海のような粘りある空を泳ぐように飛べた。
探し物だ。
サリサス人の硬い保護膜で覆われた瞳が雪を弾きながらそれをやっと見つけた。
「いたぞ!」
雪に埋もれた凍る肉の森に、エクランドスがいた。歪なおぞましい中心でまだ生きていた。「助けるんだ!」翼は畳まれ急降下するサリサスの翼人が鉤爪を雪に置いたときには、それはもはや生きてはいなかった。
翼で硬い雪を掘り返し、全身に文字を刻んでいたエクランドスの体を引きずり出した。心臓は止まっていた。液という液が凍りつき、氷像のようになっていた。死んでいた。
「遅かった……」
旅立つものを追ってはならない。そんな掟がある。だがここに飛来したサリサス人は掟を破り、決意して来た。遅過ぎた。
「フィフィネ様のところへ運ぶか?」
「いや、旅立ちを起こすべきではない」
「雪に還そう」
「旗は持ってきているな?」
「魚と黄金手をここへ持ってこい。返すべきものだ」
生きるものの柔らかさではなかった。硬く、硬く、氷だ。雨吹雪の中でバタバタと音を立てる軍団旗は広げられエクランドスを包んだ。死後に余計な足枷が、死者から漏れ出し魂を引きずらないようにする為だ。肉と血は現世で還る。軍団旗を打つ雨が氷となって根を張った。
「さぞ無念だろう」
知らないところで裏切られ、兄であるイフィニアスの第Ⅰ軍団に追い立てられ続けて遂には果てた。恨みが雪に焼き付いて、白を黒にするほどであっても不思議ではないとサリサス人は考えた。
「目を刻んでやれ」
サリサス人の部下の多くは『肉人形』であった。彼らは自らと死者に咒を刻んだ。それは今までには無かったサリサスの文化だ。かつてエクランドスの第三軍団が始末した死者は他国がサリサスの子育て戦争に介入して生まれたものではない。サリサス人自身が変わった結果生まれた存在だ。共和国の誰も、サリサス人の変化を知ろうとはしてはこなかった。隣人を理解はできなかった。
「死後にも貴方様に見つめられる目を、道を失うことはなく、閉じるべきときに閉じられる瞳を刻むことをお許しくださいませ」
サリサス人の手で咒が刻まれた。エクランドスの肌、僅かな隙間に文字の瞳だ。文字が時を超えて、血よりも記憶となることで迷うことや忘れることもなく、そして消せる目を書いた。
「幾多の人生の舵取りで、御仁は転がされていたのだな」
エクランドスの凍りついた肌は、氷のように固く、血は既に流れておらず冷たい。だが確かに今ここまでの人生は、始まりから終わりまでやはり、誰かが転がす運命に絡まっていた。だから今、このサリサスの土地で竜の眠りに還った。死に際を知るものはいない。ただーー死んだ。その事実だけをサリサス人は見つけた。やがてエクランドスの体は氷雪の中に巣食う虫に何十年とかけて食される。サリサス人はそれを邪魔はしない。雪原へ返すとはそういうことだ。命とは自然から貸し与えられたものでしかなく、その最後は返さなければならない。
そう、彼らは教えられてきた。
「……竜が鳴いている」
吹雪が強くなってきた。白い闇が、夜のない世界に夜を運んでくる。サリサス人でさえ耐え難い、寒い夜が訪れようとしていた。帰ろう。誰から言ったわけでもなく、一人、また一人と強まりつつある風へと翼を乗せては飛び立っていく。
「光莉」
「どうした?体調はもういいのか」
「うん。もう、多分だけど大丈夫です」
「たぶんならもう少し横になってろ。どの道、お前は今日、お泊りなんだからな。のんびりしておけって、光莉さんは思うんだよ」
悠太郎の指先は少し、凍りかけていた。




