第七話『ある王家の死について』
果てはあるのだ。エクランドスの長くはない旅が始まった瞬間に、それはどこかの終わりが約束された。全ては託した。であれば残りは何をするべきだろうか。エクランドスは全てを切り離して身一つで行く。馬も犬もいない。だがーー追っ手が彼の身には付いて回った。狼蜥蜴よりもしつこく、休息さえ知らない咒の人形で作られた部隊だ。連日のように襲ってきた。彼らの足は、普通の人間であるエクランドスよりも遥かに速い。咒を刻んで無理矢理動かしてもやっと対等な能力だ。単純に、咒を刻む洗礼兵と肉人形では、肉人形のほうが強いということが多い。戦いは言うほど、頭を使う前にまずは何あれ力があってこそなのだ。
「私が、こんなにも生きたがっていたとは」
エクランドスは自身に驚いていた。あるいはあまりにも安直、あまりにも素朴な欲求を求めていることに驚いた。
「ならばーー歩こう」
先へ。時間とともに歩くことが生きることだ。遅れることはなく、先へ生き急いでしまうことなく。
サリサスの山は溶けることのない雪の平野に覆われた世界だ。サリサス人は短い翼で山から山を飛び移るように飛び、柔らかな雪の中を泳ぐか待ち伏せて獲物を獲る。白すぎる世界は冷たく、凍え、命が死に絶えている世界のようだがその実は豊かなものだ。全ての生物を拒絶するような極限ではなかった。雪玉を割れば、中からは雪虫が出てくる。そして雪玉はいたるところにあった。雪虫は海老のような虫で、とても高い栄養を持っている。虫の見た目だが植物の一種だ。雪で体を隠しながら、栄養を雪の中で高めている。サリサスの生態系の大基本だ。エクランドスもその恩恵を授かった。
生きるとは、生かされることだ。
「全てに意味がある、と信じたいな」
エクランドスは時々夢を見る。それは大きな悩みとして彼を悩ませた。夢と現実の境界が曖昧にされるからだ。あるいはそれは、咒を肌に刻みすぎた副作用なのかもしれないと彼は考えた。彼の肌には既に、おびただしい文字が彫られていた。生きる為にと、文字が力学で歪めているのだ。だからこそエクランドスはまだ生きていた。文字が、彼を生かしていた。エクランドスの肉人形達もまた文字の産物だ。文字は人間の時間を受け継いだとき不変に近似した歴史の連続性を確かなものにするのだ。文字は言葉ともなり、多くの進化とともに、生物のように環境へと適応していくだろう。文字はある種の生命であるのだろう。文字は生きているのだ。そして文字は死にえるのだ。
夢を見る、記憶の整理ではなく何か、遠くのものを受け取った僅かな光で照らされた世界だ。エクランドスはそれを他人事とは思えずに、そこに立っていた。
新しい雪玉……雪虫を見つけた。エクランドスはそこで夢を振り払った。夢を見るのは、やめるべきだと考えた。
「世界は美しく、そしてなんと寂しいのだろう」
我が足取りを振り返ったエクランドスが見たものは、木々の森を沈める白い海だ。雪が積もるそれは、エクランドスの小さな体で泳ぐにはあまりにも深すぎた。今日はよく晴れていた。雪原が太陽を反射してエクランドスの肌を焼いた。極寒であるというのに、灼熱の光が肌を焦がすのだ。エクランドスはどこか不思議な世界に迷い込んだような、不思議を感じた。
肉人形が増えていく。倒して、再利用できる肉人形は文字を書き換えた。そうしてエクランドス一人で、ジワジワと肉人形の兵士を増やした。エクランドスでさえ今まで考えたことがなかった強い弱点だった。撃破した、破壊した肉人形は再利用できる場合が高いのだ。それは重装備であるほどに再利用できるだけの肉体が残るわけで、勝利の数だけ一方的に戦力の増加を招いていく。一度負けが続くと、雪達磨のように勝者の戦力は増え続けるのだ。エクランドスが書き換えた肉人形の数は増えた。刻んだ文字の力学もその数だけ増えた。つまりそれは、局地的な文字の力学が『増えすぎている』ということを意味していた。
「お前たちは何なんだ」
エクランドスの問いに肉人形は首を傾げた。喋れないわけではない。言葉をかわすことができるし、そうしないようにもできる。だがエクランドスは答えるように訊き、答える手段も与えていた。凍える風がエクランドスの肉を食い千切り、骨まで手をかけようとしている中、肉人形の壁だけが、死者だけが彼を守る。そうあるように銘じているからだが、エクランドスには疑問を投げかけた。考えることができる。であるのに、何故、どうしてだろう。『忠実に文字に従うことをよそおってそれに殉じるのか』をだ。肉人形は、本当の意味での人形ではない。考えることができるというのに、それに背き続けて考えているということを決断できないでいる。それが、エクランドスの感じた肉人形への疑問だ。
「私が言葉を紡げば、それは力となるのだろうか。咒は文字の力ーーならば言葉にも力がのって然るべきのはず」
人形……プラスチックやホワイトメタルの、とエクランドスの記憶は混濁した情報を引き寄せた。それは情報渦の先にあるものだ。未来が反転して隙間から知覚させた何かだ。積層された咒が、根を歪めて整流されたそれを僅かに乱した結果だ。
「そうか」
認知する。それだけでエクランドスには充分だ。彼から恐怖を消させた。
神官が『答え』に対して、不思議そうに首を傾げている。
「生きている、考えている」
「そんなことがありえるのか?肉人形なのだぞ」
わからない奴だな、とイフィニアスは侮蔑していた。エクランドスなら……そう考えたイフィニアスは思考を追い払った。そう銘じた。
正規軍に大規模な肉人形が採用された。正規軍、常備軍だ。本来こんなものはあまりにも膨大な予算を食い潰し、共和国を両手両足の指だけではたらず歯と全身の骨を足した数だけの国家破綻を招くものだ。だがそれは、生きて、食い、数多くの訓練が必要ならばだ。肉人形の多くは、生きた人間よりも遥かに必要な金が少ない。常備軍という共和国には不可能だった武力を生み出せる裏技だ。
ーーだが。
死者が都を歩き、それを見ていれば今まで考えてこなかった市民も考えるようになる。咒を刻まれて起き上がった肉人形は、対外的には意志を持っているようにも見える。それはつまり、絶対の忠誠は沈黙の中の幻ではないかという想像を駆り立てた。
「そも、自我とは何か」
魂と結びつけられたそれを、定義できる人間はいない。いや、やるだろうが、絶対の指標ではなかった。
屋敷の中でイフィニアスは孤独だ。銘を刻まれた人形こそ数多くいるが、その他の人間はいなかった。第Ⅰ軍団も随分と古くから肉人形と入れ替えていた。アレイポラスⅧ世が在命中の話だ。常設費の削減が目的だった。イフィニアスが咒に特別に精通した、咒使いだからこそ全て自分の手で施すことができた。
肉人形とはーー道具だ。
生きよ。
そして歩け。
そして動け。
そして……。
肉人形の第Ⅰ軍団と何度かの衝突があった。エクランドスの知らない軍団だ。イフィニアスの軍団の筈のそれが亡霊に見えた。だが確かに第Ⅰ軍団だ。戦うべき敵として立ち塞がった。サリサスの土地勘は、生き延びてきたエクランドスのほうが上だ。そしてサリサス人の土地はあまりにも広い。子育てに適した土地は小さくても、そんl総面積だけは広大そのものだ。何もない、飢えと乾きだけが満ちた世界だとしてもだ。
何故、どうして、そんな軟弱なことは考えない。敵がくる。打ち倒せ。単純だ。単純にしよう、エクランドスは考えを切り替えた。王子は死んだのだ。
自然がエクランドスを殺しに来た。それは彼から言葉を奪わんと襲った。凍え、痛み、腐らせようと骨まで穢そうとしてきた。どんなに分厚い鎧でも防ぐことのできない刃が、エクランドスの四肢を削ぎ落とそうと群れた。
「先へ」
凍え腐ろうとした脚に新たな文字を刻むエクランドス。血が滲み、腐りを否定する文字が追い立てた。また、歩けるようにと文字をこめた。
特別な繋がりは、血でありそうではない。音楽を奏でられ、しかし聞くことで浮かぶ言葉が必ずしも同じではないように、それは万変に富んだ変化を生んでしまい、それが望まれる。だが、根源という意味であればやはり同じものなのだ。
「神官がその実、神に仕えていないというのは文字の矛盾だろうか」
神への職でなければ、神を伝えることでは泣き自分自身を伝えることにのみ腐心する神官という存在にも等しく文字の物語はある。力学に沿った流れに彼らもいるのだろう、とイフィニアスは考えていた。
(肉人形は何に仕えている?文字か、あるいは……)
イフィニアスは思案した。だが残されている時間というものは、いつだって無限にあるわけではない。
針からは墨が垂れていた。毒ではないが、大きな力となりえる色だ。文字ではなかった。だが文字にできるものだ。体に文字を刻めば、墨は文字の力を作る。墨に意味はない。文字に意味がある。これは共和国の最新の研究から再発見された事実だ。墨から文字へ質が変わった瞬間、動かないものを動かした。神秘であり、いつかは剥がせるそれはまだ謎としか言いようがない。逆に言えば、『そうでしかない』のだ。
(私もまた囚われた一人か)
争うことができず、流された。定められて、決断したが寄せられた。イフィニアスは自嘲した。愚かな男だ、と。
「お前たちはどうなのだろう」
イフィニアスは屋敷の肉人形に聞いた。肉人形は考え、そして、
「我々は総体としてここにいるのではないかと……思う」
口を開いた。問いかけに答えた。だがイフィニアスに驚きはない。そうだろうと、予測と仮説はたてていた。咒を究明する無能の一人だからだ。咒は『何もわからない』と言うことしかわかってはいない。だが、どうわからないかは個々人に差がある。イフィニアスは咒の神秘をわからないことに詳しい。
「長年、解き明かされない神秘がある。肉人形を動かす、いや、咒となる文字は何の力を生み出しているのか。我々には何もわからない。文字の意味をだ。遥か未来ならば変わるだろうが、今では手掛かりさえもわからない。実物はどこにでもいるのに」
まさしく無能だ。あるものを理解できないのだ。水が流れ、火が燃えることを学問できても、咒を解明する糸口がどうしても、誰にもわからない。だからこそ、イフィニアスは訊いた。
「お前らを動かすものは何だ」
「我々はーー我々という」
「集合的な意識なのか」
「わからない。だが我々は同時に私でもある」
「……神秘は隠されているくらいが良いか」
共通の意識ならば、人の中から神が発生した前例があるのだ。だがそれは直接の力を持ってはいない……筈だった。イフィニアスは可能性の一つに、肉人形は『神の端末』というものがある。神とは字ではないかと。しかし文字の存在以前、言葉よりも先に神が存在した証拠もあってこの説は低級だ。
椅子が軋む。
定められた文字に従う運命が何か、それはいまだ解けない謎だ。だが未来であれば、運命さえも解ける。イフィニアスの目は、今よりも未来を見つめていた。だがその足は、今に縛られている。
神官達が神を讃えている。だが、と考えてしまうのは何故だろうか。神を信じていないからだと、神殿の最高権威は考えた。名前のいらない、そうあろうとした男は考えた。二人いたが、今は一人の護衛が「大丈夫ですか?」と権威に訊いた。権威は「大丈夫だ」と返した。
イースだ。
神殿、神官の最高位の男は知っている。
数多くの遺体が再生される。理由は様々だが、肉人形として起き上がれば全ては平等だ。王国では、あまりにもおぞましい文化であるがゆえに、決して相容れない関係性になった原因の一つでもある。共和国では、死者は死者ではないのだ。
護衛が聞いた。「イース様、死者は空っぽなのでしょうか。魂や精神というものは抜け落ち、死者は生前とは別の器としてしか残らないと、それはもはや別の物になったと」肉体はそこにあるのに、変わらずしかし異質となったそれを受け入れられない人間は多い。そこにいるのだ、それが全てであると感じる人間がほとんどだ。
だからこそ、イースは強く希望を断つ。
「死んでいる」
死とは終端であり、先はありえないのだ。記憶もまた同じであり、根源は常に神秘で隠されているべきなのだ。イースはそう信じていた。
神官の聖戦士は、皆分厚い服で肌を隠し、口男隠している。肌には咒が刻まれていて、目の中にまでそれはあるのだ。呪いを受けない呪い封じの意味もあるが、その肉片一つに至るまで奉仕に殉じようという狂気に近い。恐ろしいものだ、とイースは冗談が半分で思う。献身とは尊いものだ。だが同時に、あまりにも恐ろしいものだ。献身によって自己犠牲を刻む。言うには容易い。長年の蓄積が初めて、決断を実行できる。だが咒の文字は『容易い事ではないことを容易くする』のだ。
人間性を捨てた献身。だがそれを動かす神官は、酷く人間的すぎる人間でしかない。
「哀れか」
神官戦士の献身が報われることはないだろう。あるいは愚かである。純真さが盲目に変えた。だからこそ咒を刻まれ過ぎても、耐えられてしまう。哀れで愛おしい、『我が子』なのだ。イースは神に捧げるいじょうに、同じ兄弟姉妹、家族である子供たちにこそその献身を向けた。神というものに奉仕はするものではない。神という形の認識の違いだ。イースの考えは、多くの神官にとっては『赦せない』ズレだ。いずれは解釈と派閥争いで、大きな断裂となるだろうとも、イースは予測していた。だがそれを今日にしないことが、イースの神職の権威の意味だと信じた。
「イース様。ククルスニアの騒動は急速に落ち着きを取り戻しています。神の声はやはり、正解だったのではないかと」
「神の声に頼ってしまった。それが既に我らの敗北なのですよ」
「……どう言うことでしょうか?」
「神を頼るべきではなかった、という意味です」
神は、頼るべきものではない。信じるものだ。イースがそれを神官に伝えることはなかった。ククルスニアの騒動は終息している。それで良いのだろう、とイースは考えていた。長い夜か夜明けかなどは、今論ずる時期ではないのだ。
イースには信じているものがあった。それは、恐らくは神官と同じ言葉をもつものだ。文字と言葉は同じではあるが、しかし中身はあまりにも違う。言葉は、文字は、それだけで形にはできない。万変に豊かであり、厄介であり、だ。イースはそのジレンマに悩んでいた。同じ言葉、共通の認識という前提の中に絡め取られてだがイースは致命的なまでにズレたものを抱えている。打ち明けることは、してはならない言葉を持っている。
「イース様。神官連の匂いは全て消えました。立ち聞きも含めて」
「これで少しは肩や口の気も減りますか」
イースは横目で周囲を素早く探る。
「同じ仲間と近づく輩は、面倒なものです」
「消しますか」
「短絡的すぎますよ」
「申し訳ありません」
死角から心臓の鼓動を聞いた。踊るように跳ねている音だ。偶然そこに立っているわけではないことは、息を殺していることから明白だ。イースの弱みを探ろうとする輩だろう。イースは音を消して柱の前から、手だけでその人物の顎を掴み、二本の指で眼球を押し潰し、後頭部を柱に打ち付け砕いて殺した。沁みのように広がる血と肉片には少し、髪の毛が残った。ドロリとした目玉の中身が指先から抜けた。
「お見事」
イースは指先の肉片をぬぐい、死体を放置した。
幽体としてさまよう感覚が近いだろうか。夢を見ているようだった。あるいは夢なのだろうか。名前を考えなければいけないほどには、意識がはっきりしているわけではない。だが、何も考えられず動けずではないのだ。夢の何かに従う行動に引っ張られた。夢なのだ、そうだろう。
市民の盾兵団の肉人形。エクランドスの刻み直した肉人形。どちらも同じ、咒で動くものだ。銃を構え、凶悪な鏃を互いに撒き散らした。原材料が死者でも、いや死者だからこそ散らばる肉片は凄惨を極めた。白い雪が、赤く染まった。
命の無い戦い。
だがそうあるべきだと、文字に紡がれた物語を演じる為に肉人形達は知らないフリを演じていた。決して知られることなく。全てを知った。全てを見た。だがと今があった。サリサスの土地だ。世界に数多くいた竜のそれが眠る土地だ。眠る竜の冷たくなった体で大地は冷え、風さえも変えてしまった。竜の微睡みに干渉された咒は不安定になった。竜の夢と咒は本質的には同じものなのだ。
咒が飛び交った。殺しだけを刻まれた呪いがだ。エクランドスは見ていた。その瞳は酷く微睡んでいて、重なる現実をもっとも純真に、過去でも未来でも『今でさえなく』見ていた。重なった現実だ。咒の力学が何かを引き寄せ、何かを産もうとしていた。エクランドスにはそれが何かわからない。多くの文字が飽和し、刻んだ力場が歪む。
エクランドスは痛みに呻いた。肌がさざなみを打つ鱗のように見えた。
肉人形が銃を構えて、呪いを吐き出した。乱れることはない、感情が欠落した機巧だ。だが本当に自我がないのか。人間性を引き裂かれかけている肌を見つめてエクランドスは考えた。すでに勝敗は決まりつつある。圧倒し、踏み潰していた。
(私、俺の目を使っている)
エクランドスには二人の母、人と牛、犠牲にした兄もいた。竜は見ている。微睡みの中で垣間見られた。だが、だからと何かを感じるわけではないと言うことをエクランドスは察する。
死体が残された戦場で咒を刻んだ。血濡れた指先で、死者を刻む。いつしか慣れたその行為でも、エクランドスにはただの作業とは思いこむことができないでいた。
「……痛くない」
ふと、エクランドスが脚を見れば銃弾が膝から下を引き裂いていた。惨たらしく筋繊維が弾け飛んでいて、削れた骨が溢れる血の泡の中から露出している。痛くはなかった。肉片には隙間がないほど文字が刻まれていた。
エクランドスは見た。あるいは、『誰かである自覚』を境界を崩していた。遥かな境界の先に微睡んでいる。血を流しすぎたわけでも、寒さで朦朧としているわけでもない。それは、確かにエクランドスを見ていた。二人の男女だ。見慣れないもので囲まれた部屋の中にいる。鉄で覆われた窓、木枠の本棚に隙間なく詰められた本の群れ、天井に太陽でも火でもないものが淡く光している。
「悠太郎。酷く疲れている、か?」
「いや……いえ、ちょっと怠いです」
「布団を使っていいよ」
「それは」
悠太郎は迷ってしかし、体を起こしてはいられないほどの気怠さに倒された。喋ることも考えることも、力が入っている状態そのものが苦痛になっている。意識の濃淡に乱れがある。自他の壁の形成が不十分で、重なり合っている。悠太郎という男が、悠太郎で無くなろうと崩壊しかけている。
彼は酷く憔悴していた。
「白昼夢を見ていました」
「珍しいね」
ユカタチに似ている光莉は、面白そうに笑いながら、
「どんな夢だった?」と聞きたがった。そういうものかと悠太郎は特に隠すこともなく、
「アレイポラス王の、咒の腕に当てられたからかもしれません。その場所にいたような感じがしたんです。『よくあるんです、現実に妄想がかぶさる』のは。昔は口にするたびに病院に連れて行かれましたが、今では『何も伝えないから健康だ』と思われていますけどね」
悠太郎は、異常を当たり前のように言った。つまり何も解決していないが、解決したことになっているのだ。おかしいことだとは思わないのだろうか?誰かはそう考えていた。
「具体的にはどんな感じだった」
光莉の言葉先はーー真剣だ。
「……細切れの映像を見ているような感じです。本当に夢を見ているような、繋がりが曖昧で飛んで、でも見ている視点としては何も違和感なくそれを見ている……で、伝わりますかね?」
一拍、二拍、間が開き、
「どうしたの?続けて」
光莉は先を促した。悠太郎に口を閉じるという選択肢は無さそうだ。彼は洗いざらい全てを話していた。ただそれだけだ。
煤まみれの足だが、靴が無いから擦り切れるほど皮は薄くない。ユカタチは王家の庭の崩壊から外に放り出されても、たくましく生きていた。どこでも生きられる。楽観していた。だが、エクランドスのことだけは酷く気にかけていた。
「ユカタチ!」
すまない、とユカタチは遅れていた足を早めた。ウォーターシスターが、今のユカタチの仕事だ。肉体労働だが、力と強さがあれば尊敬と賃金と高い『保証』のある仕事だ。共和国は、水に恵まれてはいない。雪を直接飲めば腹を腐らせ、温暖な都市部でも遥か地下の水脈を機械で組み上げるまで腐ったカビ混じりの水で死がなければ枯れ死ぬ日が日常だ。多くの市民がそれでも喉を乾かせ苦しまないのは、人間側が咒で渇きを乗り越えているからだ。全ての市民が咒を刻んでいるわけではない。ユカタチたちウォーターシスターが水を運ぶのは、そういう需要だ。
「ユカタチ!のんびりしすぎ!」
「ごめん」
ウォーターシスターの先輩に叱られてしまった。
「水はこぼしてない?」
「それは大丈夫」
「よかった。もし、そんなことがあったら一大事だ。水は黄金よりも遥かに価値があるんだからね」
「うん、気をつけるよ」
全身に水の入った瓶や袋を付けて歩く。荷馬車もあるが人間が乗る余裕はない。荷台にはめいっぱい水瓶だ。馬だけではとても足りないから、ウォーターシスターが運ぶことは珍しいことではない。荷馬車が使えないときも歩きだ。
「何か考えてた?」
「別に何も」
「ははーん」
自分の体重よりも遥かに重い水を運ぶ先輩が、気がついたと言わんばかりに笑って見せ、
「男だね」
「先輩、そればっかりだ」
ユカタチはうんざりした声で言った。暇さえあれば、同じことを先輩は繰り返していた。常習犯と同じだ。犯罪と言えば、先輩は元殺人未遂の犯人で、懲役でウォーターシスターをやっていたが今では板について仕事にしていると話していたことをユカタチは思い出した。
「うーん」
ユカタチは何かまたどうせ、くだらないことを考えているだろう先輩を無視していると、
「遠い場所に想い人がいても心は繋がっているて言ったら、夢見すぎて思う口かな、ユカタチは」
「貧乏窟の三文小説で聞いた台詞なら」
「夢を見なさいよ、もっと見なさいよ」
「生きるので精一杯です」
あと、もう一人ぶんの想いの空間があるが、ユカタチの『その場所』はすでに埋まっている。
「皆、その心は究極に一つにすぎないんだって考えがあるんだよ、ユカタチ」
「馬鹿な……ユカタチはユカタチです。他の誰でもない」
「固い固い、アルブの石頭よりも遥かにずっと固いユカタチ。では、そう思い込んでいるユカタチは、何をもってユカタチだと自我を持っている?ユカタチでない人間に、そっくりそのままな人間に『これがユカタチだ!』と紹介すれば、当の違うと言うユカタチ以外にはわからないというのに。つまりそれは、極めて主観的な思い込みでしかないのさ」
ふふん、とウォーターシスターの先輩は鼻で笑った。ユカタチの苦手な話題だ。乾いた砂が足裏に焦げたように張り付いた。ユカタチの分厚い砂塗れの皮が、少し焼けた。
「そも自我とはなんぞや」
水瓶を頭だけで平衡を保つ器用なウォーターシスターの先輩は訊いた。ユカタチは少し考えて「私がそう思っているから私だ」と言いかけた。言葉には出さなかった。あまりにもありきたりであり、先輩はそれこそを待っていると思ったからだ。ユカタチは考えて、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「考えるうえで基準とする人生て感じかな」
「なにそれ」
先輩は素っ頓狂な声をあげて、振り返る。間抜けな表情だった。この女張り倒してやろうかと、ユカタチは物騒なことを思考の端でよぎらせていたが、水瓶を持っているのだと自分に言い聞かせた。
「だから、考えるてのは思い込みとか何かそんな感じの問題に対して、自分や他人の物差しを基準に練るわけだけど、その自分を基準にする考えの考えが自我なんじゃない」
「お姉さんのお馬鹿な脳味噌だと難解すぎて爆発しそうだ。もっとわかりやすく教えてくれるかな、ユカタチ」
「白々しい。知ってるんだから、先輩が学校を出ているって!」
「まあ学校に居たから皆賢いわけでもないよね?……それで?」
ユカタチは溜息を一つ吐いて、
「生涯の記憶!」
やけっぱちに言い切った。少し、ユカタチの頰が熱を帯びた。
「自我て自分で考えていると『思い込んでいる』ことでしょ。だからそう思うに足るだけのもの、自分が生きてきて、自分が感じてきて、自分が噛み砕いて自分が解釈した。そういう経験の解釈が自我なんじゃないのかな」
笑えよ、とユカタチは言う。だがウォーターシスターの先輩は真剣な顔を正面に戻しはしたが、歩きながら、
「笑いもんかい」
ウォーターシスターの先輩は「面白いなぁ」とか「やはりこの手の人間じゃないと」と独り言を繰り返した。ユカタチはそんな先輩にわざわざ話しかける気もなく、水瓶を運ぶ為に足を動かす。先は、随分と長そうだ。




