第九話『魚と黄金手の軍団旗と』
帰ってきた。震える手先が、凍りついた、腐った足の感覚が悠太郎には残っていた。第Ⅲの軍団旗がどこにあるのか、そして何が外を歩いているのかを知ってしまった。あれは私達そのものなのだ、と悠太郎は確信できてしまった。恐怖があった。だが確かめなければいけない、と悠太郎は確信していた。
「……」
クソッ。悠太郎は悪い言葉を内心で吐いていた。気分が落ち込んでいて、考えが悪いほうに引っ張られる。目に見える全てが忌々しいと錯覚する。
「大丈夫か?」
立ち眩む悠太郎に、光莉が心配そうに声をかけた。優しいな、悠太郎は心の底からそう思いはした。だが彼女の手を振り払った。
まだ残っている心臓が激しく脈打つ。あれほど恐れていた外の世界、それを隠す遮光カーテンに手をかけていた。僅かな迷いが、止めた。
「悠太郎」
急かされたわけではない。だが悠太郎は、悠太郎と呼んだ光莉の声に押された。悠太郎でなければ、いけないのだ。
カーテンが開け放たれた。
外の世界が見えた。
見えたのは夜だ。
夜……だが何か、巨大なものが歩いていた。悠太郎は『彼ら』を知っている。知っているのだ。今まで見てきた、『そして一度としてそんな姿は見てはいない』。だが、彼らがそこにいた。どうしてそうなったのかはわからない。だが、不細工に色付きの紙粘土を混ぜられたように、混ざり、形を崩され、ただ、そこにさまよい続けていた。
「なんでそんなところに、いるのですか!」
醜い巨人が、幾つもの腕を使い、腹を擦りながら歩いている。這っている。それは……彼女は……彼は……『皆』だった。悠太郎が見てきた全てだ。だが、一つではなかった。今、悠太郎が見ているそれは、ただの一つに成り果てている。個人や自我などと言うものが否定されたとは訳が違う。全てが還元されている、あるいは、されてしまっている。悠太郎はそう思わざるをえなかった。
悠太郎はうつむいた。しかし一瞬だ。そしてまばたきした。ほんの刹那だ。だが、それは窓に張り付いていた。手の皮と肉が透明な硝子に押されて白くなった。霧雨のような雨か霧が、夜の闇に重なっている。気がつけば、不気味な青白い手が、悠太郎の白くなった手を鏡越しに合わさっていた。
ギョッと驚く悠太郎だが、その得体の知れない腕は彼らから伸ばされていた。死ぬかも知れない、悠太郎の直感だ。だが、亡者のような手は不気味に腕を伸ばして来たとは言え、それだけだ。
「……」
窓越しに奇妙に重なり合う掌だ。悠太郎は、その腕でしかないものに見覚えがある気がした。だが、何かはわからない。わからないまま、それは元の場所へと帰っていく。何かを確かめたように、そして『それが何か理解したように感じた』のだ。
「光莉」
これは誰だ。誰だった?『全員』だ。悠太郎には確信があった。これは、あの、全員なのだと。そして悠太郎の悠太郎もその中にはいるのだと確信した。
「第三の軍団旗だよ」と光莉は言った。
つまりそれは、光莉が探していたものだ。第三の軍団旗、魚と黄金手。旗とは言えない巨人だった。悠太郎は見た。巨人を見た。旗では、なかった。
「あれは……」
いや、悠太郎にはわかった。わかったのだ。だがーー『だからこそ』言葉として確定させはしなかった。
「誰かはわかりました。ですが……」
「あれは、何か?」
「はい。ついでに、繋がったこの感覚についても説明があるとありがたいと思いますね」
「そりゃそうだよね。うっかりしてた、ごめん、ごめん」
悠太郎の手は、初夏の暖かい夜であるのに、雪山にでもいたかのように冷たくなっていた。いや、事実、悠太郎の感覚はあのサリサスの雪原に確実に立っていて、そして死んだのだ。
光莉は少し考える素振りと時間を空けて言った。
「記憶は個人の絶対性によらないとでも言えばいいのかな。記憶はどこにあるって言えば、だいたいの人間は」
光莉は頭を指差し、
「ここにあると考える。だけどそうじゃないんだ。電気信号をどれだけ解読しても、記憶というものは脳に格納されていなかった。いや、あるいは解く為の式が違うだけなのかもしれない。でも中にはこういう考えを持った人間もいたんだ。記憶とは総体として、阿頼耶のような記憶や意識の連合から引き出しているものなのではないかって。昔からある考えだけど、実験で総合的な意識を調べる、阿頼耶の解明を目指すのは珍しくあるんだ」
光莉の長い説明は全て聞き流された。悠太郎の頭に今入れるべき情報ではなかったし、すぐに必要とするものではない。光莉の言葉は、悠太郎の深い場所の引き出しへと送られた。それは答えではなく問題だ。悠太郎が求めるものではなかった。答えを知りたいと言葉にすることを悠太郎は躊躇った。躊躇ったのではあるが、できることなら感覚の認識を共有しておきたかった誘惑に負けた。正しさを保証したい、そう思った。
「結局、何なんですか、第三の軍団旗てのは。まったく、全然、旗じゃない」
軍団旗とはおよそ呼べないような代物が、外を歩いている。しかも、それと接触しないように街のシステムが平然と機能している。悠太郎は、「そういえばどうして」と考えた。『あんなものの存在自体を疑っていない』のだ。何故……悠太郎はひとまず、『それ』は棚上げした。
「旗ーーまあ、予想外なのは確か」
「光莉でもそうなんだ」
「うん。でも、石版の雰囲気から文字通りの旗そのものだろうとは、思っていなかった」
「どう言うこと、光莉?まるでーー」
「ーー慌てなさんな、悠太郎くん。夜明けまでは長いんだ」
光莉は、悠太郎の疑問の並みを軽やかに制しながら、
「咒は書かれた文字力学だと、何度も追及されている。水とあれば流体として振る舞おうとする力が発生するみたいな。そしてそれは形のないものにも影響するんだ。エクランドスの兄、イフィニアスは自分の精神を整形している」
「肉人形も、仮とはいえ人格を持っていますし、不思議ですね。死んだ体の記憶や感性とも違う何かのようですし」
「そうだ。ここで、『文字の人格』を仮定するぞ。文字そのものに意思があり、それが肉人形の自我として発言可能なレベルに達しえるというものだ」
「文字に自我。それならば、風にも水にもありそうなものです」
「万物に思考するものがあると考えると収集がつかなくなるぞ?ここでは文字限定仕様」
「しかし、意思のある文字ですか」
「言葉や記憶を持つものの総合意識、阿頼耶の根源を絡めて考えている」
「突飛すぎません?仏教の一門だ」
「集合無意識と同じ程度の認識で充分だよ。なんとなく引用して名前を当てはめているだけだし」
割と適当だな、と悠太郎は感じた。
「感情とか行動の更に前に、不活性状態とでも言うべきか、量子的に観測することが既に影響になる繊細な自我の種子が敷き詰めてあるということだね」
「無意識の奥底で根源ですか」
難しい話に悠太郎は頭をかいた。それを見た光莉は、いたずらっぽく笑っていた。
「自我というのはね、根源では案外単純な状態なんだと思うんだ。時間と空間の概念を外されるけど。第三の軍団旗は根源の種子が反転した特異点の状態を維持している、とっても不思議で満ちているんだ」
やはり、悠太郎には難しい話であった。彼らが感じたのは「やっぱり旗じゃないじゃん」というものだ。だが、それで充分だ。
光莉は重大なことを隠した。『実験は成功していた』ということだ。つまり総体としての意識に辿り着き、個人とは、少なくとも意識とは単独でしかなかった。
リコメンド1……『夜を徘徊するアレ』へのアプローチに偶然とは言え成功したことは特筆に値する。重大な一歩だ。光莉は、あくまでも仮にではあるが、アレを人工神、神のような存在だと位置付けている。思索の中の、実在してはいけない神とは違うので、敬う気持ちや信仰はともかく、シン足る存在とまでは流石に、光莉も考えてはいない。
だが、神に近似する存在へと人類を再補完可能な、可能性だ。
争いとはある種の共喰いであったという、事実があった。自我領域の根源は単一の意思だ。個人個性は錯覚の感覚の可能性が高まっている。だがそんなことよりも、集合できる意識の外にいる『個人』の存在を仮設できる、何か表せないものが発生した。こちらは、光莉の想定外だ。
それは、光莉は黙っておいた。最高の資料を失わせるには代替が無さすぎる。認識はあまりにも淡いものだ。もし悠太郎が、自我の境界を崩してしまうようなことがあれば、彼は彼としての存在を完全に失うだろう。光莉としてそれは、とても悲しいと思える程度には大切にしていた。
「体に違和感とかないか?」
「特にはありません。ただ……なんだかフワフワしています」
「トランス状態だったからな。記憶の混濁というか、酔っていたようなものだから」
嘘は、初めてではない。
「あー……ちょっと頭が痛いかもです」
「甘いものか何か食べる?」
「なぜ、甘いものなのでしょうか?」
「糖分不足で痛くなることがある」
「糖分の取りすぎの間違いでは?」
「残念!両方あるんだなぁ、これが」
「そうですか……」
「待ってて。砂糖水でも淹れてくるから」
「あの、申し訳ないのですがそれは勘弁してください」
「冗談」
光莉は一階へと駆け下りた。台所で水を少しだけ沸騰させる。電熱コンロに火はないが、水の入った鍋が急速に湯気を立てた。アルパカのシールが貼られた冷蔵庫から牛乳を用意して、窓際に置いてある、不透明なジップロックからココアパウダーをカップに入れた。すぐに沸騰した熱水を注ぎ、ココアパウダーを溶かす。手作りのマドラーから熱が伝わった。充分に練れたことを確認して牛乳を注いだ。ココアミルクだ。湯気を立てていた練られた粉末は、沢山のミルクで急激に冷まされていく。美しい、ココア色がマーブルを作る。
「……甘いものがいいんだ」
ココアパウダーを掬った銀のスプーンが、カチャカチャと音を立てた。カップを切るように、素早く。冷たい牛乳が熱を吸い取りきれず、まだほのかにカップが温かい。
「ん」
スプーンについたココアミルクを味見する。光莉好みの味だ。たぶん、悠太郎にも合うだろうと、彼女はスプーンを流し台に投げた。
「おっと」
ちょっとした用事だ。光莉は片手にマグカップを持ちながら、空いた手でポケットからケーテルを取り出す。多機能端末だ。電話やパソコンの機能が使える。
今はメールに使った。
片手の指が素早くタッチパネルを叩き文字を打つ。宛先は、悠太郎も知っている、とあるファミリーレストランであったグループだ。
〈レコンキスタ計画の始動を確認〉
またポケットに押し込まれたケーテルだが、返信は鳴らなかった。
光莉の足は軽やかだ。
階段を廊下をリズムよくかけた。
光莉が用意してくれた心地の良い味のココアを飲みながら悠太郎は、
「でもまさかアレイポラス王とか、咒が本当に実在していたなんて思わなかったですよ」
それを言えば、外にいる何かの正体を知った気がしたほうが重大だ。だが不思議と悠太郎の中では、それは除外された。
「え?信じてなかったの?あんなに物証があったのに」
「絶対、創作物だと思っていました」
「悠太郎てけっこう、あれだね」
「あれて何ですか、光莉」
「長芋に巻かれたトロロだ」
「……考えても意味がよくわからないです」
信じられない、とでも言わんばかりな光莉の顔を悠太郎は見た。口を尖らせて少し頰を膨らませている。
「だろうねー。でもこれで、『アイツら』に見返せる。アレイポラス王には悪いけど、腕よりも遥かに大切なことなんだよ」
「『アイツら』、ですか?」
「うん。なかなか認めてくれない頭の硬い連中のことだよ」
光莉は、個人的な趣味で調査していたのではなかったか?悠太郎は、光莉が淹れてくれた『ミルクココア』を飲みながら、少し引っ掛かる。だが、今回も悠太郎は全て伝えた。見た、感じた、混じったその全てをだ。それに対して光莉は「そう」とだけ答えた。淡白な返事だった。だが、悠太郎にはそもそも『どんな感情を光莉が抱いたのかまったくわからない』。
「なんだか、何と言葉にすれば良いのかわかりませんが、変な感じです」
悠太郎は、エクランドスが言うところの文字である咒の歪みを見ていたのだろうか。少なくとも、『見ていた』ことは間違いないのだ。
だがーー本当に?
第Ⅰ軍団の肉人形との銃撃戦で、エクランドスは何度も四肢が吹き飛び、内臓をぶちまけていた。その度に、咒が彼を生かした。あの瞬間、悠太郎とエクランドスの何かが重なり合った。文字が重なるほどに、その繋がりは強くなった。だが、強くなりすぎてーー悠太郎とエクランドスが一人に重なったと仮定してーー悠太郎はとても激痛に耐えられる気がしない。
やはりどこかで、夢のような他人事だ。痛み、寒さ、見た景色、全てが揃っていても疑いが残る。そもそも、何故、エクランドスと悠太郎が重なった。他の人間にも部分的に重なり合うこともあった。だが比較的深くとなるとエクランドスだ。どちらの意味でも理解は難しい。何故、エクランドスとの重ねが多いのか、何故、見ず知らずのその他大勢と同時に繋がったのか。大前提を克服しても、悠太郎には答えが与えられず、ただ疑問の獣の、そこの見えない腹が顎門を見せていただけだ。
「むぅ」
光莉が唸った。マジマジと悠太郎を観察した。悠太郎も気がついている。視線を知っているからこそ、見えない冷や汗を流した。居心地はあまり良くない。悠太郎は見つめられると緊張してしまう。
「なんでしょ?」
「お話しをしよう!」
「……意味がわかりません。光莉はいつも、そうではありますけど」
光莉は少しだけ「うーん」と唸り、
「エクランドスの死に様て、どんな感じだった?」
「旗は持っていませんでしたよ。テレパチオンに預けていたので、サリサス人ケツァル族の手の中だと思います。エクランドスが死んだのは孤独だ」
「肉人形もなく?」
「いえ、確かに……」
悠太郎は思い出す。光景は、凍りついた世界で肉人形の中にエクランドスがいた。体の数という意味では、一人ではないだろう、と悠太郎は考えた。
「いました」
「では、孤独ではない」
「咒を刻んだだけの死体ですよ?死んだ人間に……」
「なんだ、悠太郎はまだ、あれだけ経験していてもそんな認識なんだ。予想外だ」
「むっ……」
悠太郎は、むっとした。顔にもでていた。
「失礼」
光莉は謝罪しながら、いつものニヒルな笑いを浮かべた。見慣れた表情だ。同時に、悠太郎が自分を子供扱いされていると思う顔だ。
「エクランドスは一人では死ななかった。沢山の人間とともに、第Ⅲ軍団といた」
「どうでしょうか。第Ⅲ軍団はーー」
「ーーエクランドス自身が切り離した?違うぞ、悠太郎。エクランドスは第Ⅲ軍団を再建しているじゃないか。サリサスの雪原で、第Ⅰ軍団の兵員を取り込んでね」
まさか、と悠太郎は思った。咒を刻み直していたエクランドスの姿は、見た。肉人形は彼に従った。咒の文字を書き換えたのだから、当然だ。しかし、と悠太郎はもう一度反芻した。どうして一度は解散させたのに、もう一度、戦力を作ったのか。テレパチオンに第Ⅲ軍団を預けて、解散させた。死ぬ覚悟ができたから巻き込まない為に……
(だからこそ肉人形なら良かったのか?つまりエクランドスは肉人形を人間だと見てはいない。だが、死ぬ間際だから心情が変わったのではなく、初めから心を感じていたエクランドスにそんな非人間を肉人形に、本当に感じていたのか?)
悠太郎は、エクランドスを見た。しかしその内面を知っているわけではない。わからない。第Ⅲ軍団とは何だ。エクランドスは一度は解散した。だがもう一度、実質的に編成した。エクランドスにとって……いや、考えていた第Ⅲ軍団とは何だったのだろうか。テレパチオンら老兵や猟犬とは違う……違うのだろうか?悠太郎は、違うと感じた。勘だ。『それらも含んだ何か』が第Ⅲ軍団な気がした。
答えは、わからないが。
「光莉、第Ⅲ軍団て何なんですか」
「そんなの知らないよ」
「……」
光莉の断言だ。悠太郎は、まぶたをおろした。とても、ゆっくりとだ。今、悠太郎の中では複雑な感情が渦巻き、穏やかな言葉へと整える準備が必要だった。
深く息を吸い込んで、吐く。
少しだけ悠太郎の気分が落ち着く。
「そうですか」
このことは忘れよう。悠太郎はそう決意した。真面目に考えているだけだと、あまりにも疲れすぎる。
「ただ何事も、『答えを求めない楽しさ』というものは……あると思わないかい?」
光莉は、やっぱりニヒルにクールに笑ってみせた。人によっては、癪に触ると感じるだろう。だが悠太郎にはどうしても、不快な感情を湧かせることができない。そういうものなのだ、と、それが光莉である、だからこそ光莉なのだと思った。
「あっ」
「おっ」
ーー!
電源の落ちていたテレビ、それに携帯端末が嫌に震えた。脳に刺さるような音を立てた。緊急情報の案内だ。悠太郎、光莉の端末、それと部屋にあるテレビから流れた。外出制限が解除されたとのことだ。
「早かったね」
「そうですね。朝まではかかるものだと思っていました」
「ギリ、帰れるけどどうする?」
「万が一の野宿は嫌なので、予定通りということで。全速力で走って、一度も信号に引っ掛からなければ終電には間に合いそうですけど、今晩はお邪魔させてください」
「いい答えだ!それでは、寝食をこの光莉さんと共にできる許可を、もう一度出してやろうではないか」
本当に、解除が早かった。悠太郎は、気分が流行る光莉のパジャマ姿を横目に、もう一度、ケーテルのタッチパネルモニターに目を落とした。変わりなく、無機質に、そこには『外出制限の解除』とだけ情報されていた。
つまりそれは、第Ⅲ軍団が消えたということだ。
ポツリ、ポツリと降り始めた雨が窓を打ち、外の世界を白く隠している。冷たい蛍光灯の下で、ぼんやりと虎徹は見ていた。
「解除されたな」
光莉からの連絡から少しして、『予想通り』外出制限は解除された。
〈虎徹、光莉さんからのメール、何だって?〉
〈ん、レコンキスタ計画にゴーサインだ〉
〈そっか。お上の魔女様に良い知らせができそうだ〉
〈良い知らせかはわからないが〉
虎徹は古ぼけたブラウン管のモニターに流れる文字を追う。チャットだ。キーボードを滑らかに澱みなくリズムよく叩く。日焼けした壁紙に、蛍光灯の本数をケチって少し暗い部屋、背もたれがどこかに消えた椅子に座りながら、ギシリと回す。
〈重秀。本当に取り戻すべき記憶というのはあるのだろうか。今を無くすかもしれないと、ずっと考えている〉
〈不安なのか?第Ⅲ軍団は、失っていた人類を取り戻す鍵になるかもしれない〉
〈エクランドスやアレイポラス王だけの問題じゃないんだ。記憶の、あの部屋を開こうというんだぞ。一度は破壊されて失われたものだ〉
〈だから、取り返すんだろ、虎徹〉
〈わかってる。わかってはいるが……少し怖いな。魔女を信じていいのか。魔女なんだぞ〉
〈はぁ。榊、や光莉も賛同している。お前もそうだったじゃないか〉
〈そうだ。だからこそ、もう一度考え直そう。危険性、何があるか、何をさせられようとしているか〉
〈心配性め。わかった。懸念は一緒に消していこう。光莉は今、無理だが、待ってろ。榊くらいなら暇しているだろ〉
次々とコメントが降っていたチャット欄に唐突な静寂だ。静かだな、虎徹は口にしながら煙草を探した。潰れた、くしゃくしゃの箱は見つけた。中には、折れた紙巻が一本だけ。ライターはと探せば、マッチ箱と頭が煤けた耐水マッチを見つけた。幸い火は点いたが、不幸なことにもマッチは折れて火は床へ落ちた。火は消えた。
「……うむ」
くたびれた煙草を口から外す。今日は呑む日ではないのだ。虎徹は自分に言い聞かせて、ただ一つ残した煙草を箱に戻した。
今日は、変な日だ。
窓から見る光景からは、街が息を吹き替えしていく。次々と光りが灯り、降ろされていた装甲シャッターが消えた。解除されたのだから当然だ。
「自然は、資本主義者の考えるような最適化可能な資源ではない」
何もかもが効率化と最適化の中で発展したと信じている社会への反骨心ゆえだろうか。虎徹は、今の社会が見ようとしなくなった、最適化できないと見做して捨てた自然の一端を考えた。過去の亡霊だ。ありえない、そう信じることで目を閉じ封殺しようとしたら遺物が、また歩き出している。認めていないものを見ることはできない。それはあっても、無いとしているのだから。
第Ⅲ軍団の旗は、御伽噺から起き上がってきた影だ。同時に、人間や全ての自我あるいは魂を持つものが、それを与えられた何かへの道を示してもいる。ーーと、言うのが虎徹の考えだ。
「レコンキスタ計画だ。私達は失った記憶を取り戻す。例えそれが……地獄の釜であったとしても」
悠太郎は、のんびりとしたものだ。歯は磨いた。風呂も入った、髪を乾かしたし、パジャマにも着替えた。後は精々、寝る前にお話しするくらいの時間だ。
第三の軍団旗のお話は、また明日のお楽しみとして持ち越しだ。ワクワクに興奮して徹夜をやるほど、情熱的な忙しさは光莉にはなかったし、悠太郎は言わずもがな。ぐっすり眠れるだろう。
「ねー、悠太郎」
「どうかしましたか、光莉」
光莉は丸めた布団を腕と足で挟み込み、ゴロゴロとしながら訊いてきた。
「アレイポラス王の腕、どこにやったー?」
「え!?無くしたのですか!」
悠太郎の、のんびりした空気が一転して冷や汗が噴きかけた。映画の腕みたいに、勝手に動き始めたなどありえない話ではないのだ。だがどうやら、悠太郎の杞憂のようだ。光莉はケラケラと、口を隠しながら笑っている。
「普通に、『彼』は書架にいるよ。そう驚いて蒼褪めてくれるな」
光莉の長い人差し指が、書架の一角を示す。スカスカの書架にはアレイポラス王の腕の入った箱だ。悠太郎は複雑な視線だ。間抜けな顔になっていた。
「扱いが、ちょっと酷すぎるのではと思うのです」
仮にも、『貴重らしい』代物だ。
「というより、あの腕て勝手に動きだしませんよね」
「動かないという保証はない」
「怖くないですか。夜中に歩き出しそうで」
「腕に脚は無いねぇ」
「確かに……光莉の言う通りです」
アレイポラス王、アレイポラスⅧ世の片腕。箱に入っていて今は見えないが、咒が事細かく、骨を黒くするほどに刻まれている。
不気味だ。
箱を挟んで、かつて生きていた腕、あるいは何かがすぐ近くにあるのだ。それは同時に、かつて動き、人間であったものの一部なのだ。人間の腕。だからこそ悠太郎は不気味に感じた。人間の腕であっただけならば、こうまで嫌な感じはなかっただろう。問題は、人間の腕であったはずのものが、まったく『人間を感じられない』ことだ。
「アレイポラス王は何をそんなに急いだのでしょうか」
悠太郎は、腕に語りかけるように訊いてみた。答えたのはアレイポラス王の腕ではない。光莉だ。
「なんでだろうねー」
「第Ⅲ軍団を作らなければ、エクランドスはわかりませんが、少なくとも王族の全てを失うようなことはなかった気がします。民衆議員も、均衡が崩れると喧伝して仲間作りに奔走した結果であって、最初から反感なんてなかったし、まさか王族を根絶やしなんて予想外だったのではないでしょうか」
「今の時代からだとまだ、何もわからないことだけど、それもまあ時間が解決してくれる。……と、思ってる。もしかしたら、アレイポラス王自身が王族の血を王家から剥がそうとしたのかもしれない」
「一族の大半を殺してでもですか」
「さぁ?それは、アレイポラス王でなければわからないことだろうさ」
それはそうだけど、という言葉を悠太郎は呑み込んだ。光莉は冷たく突き放しているようだ。だが、そのことに関して悠太郎は抗議できない。質問すれば、隠さず全部を教えてくれるなんて考えてはいないからだ。自分で考えなければいけない。とても、当たり前のことだ。
悠太郎は、断片的には見たーーと言うことになる。だが、だからこその混乱もある。知っているが、だからこそわからないということだ。
何故、何故、何故。
ぐるぐると悠太郎の頭の中を、生産性のない言葉ばかりが回っていく。答えは永遠にわからないかもしれない。だが、悠太郎は考えることを止めるつもりはなかった。
今は、わからない。
だがきっと『その日』は来るだろう。
悠太郎はなんとなく、そう確信していた。
「もう電気消すぞ」
「はい」
悠太郎は布団に入る。少し高い目線から、ベッドの上の光莉が蛍光灯のスイッチである紐に手をかけている。
「じゃ、おやすみ」
「はい、おやすみなさい、です」
「電気消しても、もう少し興奮して絶対に寝られないけど」
「寝てくださいよ」
光が落とされた。暗い、ゴソゴソと、あるいは、モゾモゾと擦れる音が聞こえた。
夜が帰ってきた。
やがて明日が来るだろう。
悠太郎はもう一度「おやすみ」と言うと、まぶたを閉じた。
今日の『人』に、サヨナラ。




