第五話『銘柄釘を打ち込んで』-2-
自由は得難いが尊いものでもない。長く実質的な幽閉の中でしか生きていないアレイポラス王の自論だ。王は産まれてからククルスニアを出たことがなかった。一度もだ。産まれながらの王ゆえに、王はククルスニアを出てはいけないという契約を遵守した結果だ。
不自由はないが自由でもない。
だが、人間はもとより檻の中にいるものだ。
アレイポラス王は空を見上げる。いつもと変わらない、囲われた空が見えた。城壁に背中を預けているのでそこは少し切り取られた空だ。だが場所によっては、平原と変わらない、一面の満天を望める場所も知っている。ようは視座の違いでしかないのだ。自由の檻に囚われた奴隷と、自由意志の奴隷を同列の奴隷とは扱えないように、そこにあるのは限定的な枠組みでしかない。
であれば、とアレイポラス王は考える。
王家と言えども、市民の血として組み込まれればよい。王家の血筋はそこにあればよいのだ。野に降った血も多ければ、アレイポラス王の王家だけがその血筋ではないのだ。王権を奪われたというよりは、王権から解放されたと考えるとしよう。王は前向きだった。
調停に、城壁の外へ出る機会があるかもしれない。そんな打算もあった。寄る瀬には敵わない。落ちていく自らの肉の限界を感じながら、アレイポラス王は死期に相応しいものを探しつつある自分がいることに苦笑した。だが、アレイポラス王がその王座を明け渡し、血だけの人間になる日は遠くはない。
ノグ=ボーが少し羨ましいな、アレイポラス王はそんなことを考えた。何故、ノグ=ボーの名前が出たかと言えば、彼もまた王族だった人間だからだ。ノグ=ボーは市民に国家から追い出された、革命された王家の末裔だった。最後の一人だ。だからか、アレイポラス王も親しい。古い知り合いでもあるからだ。ノグ=ボーは共和国に流れ着いて、民衆議員となってから、いや共和国に入ってからはただの一度も、王族としての何かを決して見せはしなかったが。
あるいはそれが、ノグ=ボーの出した王家への答えなのかもしれない。
(ならば)
どう使われてやろうか。
ささやかな老後の楽しみだ。命があれば、未来があればという昨日までの夢であった。もう望めない夢ではあるが。アレイポラス王はもしもを考えた。他国に送られるか、戦場へ送られるか。無理難題を押し付けられるか。およそ悪夢であるだろうはずの老後にしかし、王は不敵に笑っていた。そうなっても良いだろうと、考えていたのだ。
そんな王を、市民の盾兵団の面々は見下ろしている。鎧で隠された肌、瞳の奥は、アレイポラス王には見えていた。咒で起き上がった兵士だ。元は死者、今は咒の肉人形。肉人形は戦場でもよく使われる。一般的な咒の文字だろう。ただ、一部の宗教からは凄まじく嫌悪を向けられる邪法でもある。宗教と倫理観次第だ。銃と槍を持ち戦列を並べる肉人形は、軍の主力に変わりつつあった。命と良心の痛まない綺麗な戦いが劇的に増えるのだ。死ぬのは死者だけだ。そして死者は死なないものだ。だがもし、とアレイポラス王は考えた。肉人形は破壊されるのだ。それはどれだけ咒を刻みなおし、修復しても二度と起き上がらない場合がある。つまり死だ。肉人形にも死がある。だが死者である肉人形の死とは何であろうか。
共和国が、死者と生者の世界を区別しきらないからこそ成り立っている異常なのかもしれない。異端、だが異端も生き残れば強者なのだ。異端が死ぬのではない、弱者が死ぬのだ。アレイポラス王は、そう思い込むことにした。勇者たちが死してなお勇者である。そう考えれば幾分気持ちが軽くなる。
「……」
アレイポラス王はおもむろに、チョークで小石に文字を書き込んだ。弁当はすでに完食済みだ。少し胃袋が油っぽい。咒とは、そうであろうとする意味を与えることにある。アレイポラス王は小石に、小石以外の意味を与えた。奇蹟が小石を『立ち上がらせ』手や足を作らせて、小さな石の人形として走り出させた。
それを最初に見つけたのは、目敏い子供だ。捕まえて、突っついて、話しかけて遊んでいる。元来、咒は呪いに使われてきた。呪いを打ち出して、傷つけたい相手に作用する為の文字が咒だ。楽をする為には、つまり農耕や漁などの狩り、楽しさを満たす為には使われない。楽をする為に咒を使うべきではないという考えがあったからだ。人間は人間としての負担を負うべきだという根底があった。だから、アレイポラス王がやっていることは本来ならば禁忌だが、時代は移るものだ。
「消せば消える命は変わらないか」
市民の盾兵団は、アレイポラス王の人形を止めはしなかった。また新しい人形を次々と書いていくアレイポラス王自身もだ。静謐を保ち、沈黙の護衛としての立場を守っている。
守っていた。
神殿勢力に不穏な動きだ。市民の盾兵団は民衆議会の戦力だが、供給元は神殿だ。神などまやかしだという人間が増えて、神の言葉として権威をもつ神官は忌々しく考えている。市民が賢くあっては困るのだ。逆に、アレイポラス王は真逆の方針で市民に教育を施して国力の底上げを狙った。知恵をつけて多少の不便よりも、無数の頭があるほうがより良い結果になると信じているからだ。愚かであることが望ましいなんてことはない。そう信じたかった。かつてアレイポラス王は、民衆議会の傀儡としてのみの立場を求められ、何も望まれない境遇を全て唾棄すべきものとしている。




