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第四話『文字の力学的作用』-2-

 軍団旗を神と奉じよ。


 神であり、父であり、それは母である。軍団を家族とするもの、行く末を示すもの、新月の夜の道標であり、バベルの後に我らが示した我らである。全ての軍団旗に忠誠を誓い、軍団長はこれの最初の僕であれとの誓いだ。共和国では普通のそれは、しかし数百年先、また別の世界でもまったく同じであるがない。


 兄弟姉妹たちよ、どうしてお前たちが、翼がある程度で、エラがある程度で、土の中で森の中で暮らしている程度で、兄弟姉妹たちよ、君たちを遠ざける理由に足りてしまう、いかなる理由があるというのか。


 その夜ーー猟犬らが唸っていた声に、エクランドスは起こされたようだ。篝火の中で獣らの唸りがひしめいている。兵に動揺はない。だが、怒りと威嚇の声を震わせる猟犬が荒れていることは間違いない。


 見知らぬ犬がいた。


 猟犬が怒りを向ける侵入者だ。


 群れから逸れた狼が、彼我を考えずに近づいているせいだった。それがいまだ噛み殺されていないのは、そう命じられているからに他ならない。老兵の一人が、名乗る。鎧を捨て、幾度も負った傷を白く刻み、膨れあがった筋肉で皮がはちきれようとしていた。


 猟犬の牙を借りずに、上位者が『挑戦者』に応えるのは当然の責任と言えることだ。老兵はこの挑戦者を打ち負かすつもりであるし、そうあるべきだ。


「うおぉぉぉっ!」


 獣の死闘に、まさか、人間が狼がの区別などない。痩せた狼の痩せた足が跳び上がり、華奢な体格に変わりはてた体でありながらなお鋭い牙と顎門を開く。


 だがーーだが、老兵がまさか勝てない喧嘩などしないのだ。痩せた狼は空中で顎をしたたかに殴られる。鎧さえも殴り割ることがある文字通りの鉄拳だ。顎が砕けるか否か微妙なところだ。軽く痩せたとは言え狼の巨体だ。容易いものではない、はずだ。しかしそれは殴られた程度で吹き飛んだ。殴られ、他の軍団兵が持つ盾の壁にぶつかり伸びた。


 毛と筋肉の塊が、だらりと盾から滑り落ちる。


「おい!喧嘩で俺たちを巻き込むんじゃねーぞ下手くそ!」


 第Ⅲ軍団の兵から野次が飛ぶ。老人とは思えない下品な……と思うだろうが、一定の歳を重ねれば精神は逆行することもあるのだ。心は若いのだ。体がついていくかはわからないが。


 狼も犬も同じ、肉だ。


 食い殺すか。


 狼と言っても犬は犬だ。群れからはぐれて食われて死ぬこともあるのだ。犬のスープになる。犬肉を煮込むのかと、しかしそれは違った。犬は、猟犬らに一任されているのだ。人間が関わることは避けていた。群れに組み込まれたとき、『言葉が通じないが通じる』猟犬が群れを叩き込むからだ。


「……」


 痩せた狼は、まだ息があった、酷い傷だが、斧で割られて皮は剥がれてはいない。せいぜい、殴られた、それだけだ。だが次は違った。この痩せた狼の前には、頑強な猟犬の一頭が立つ。幾度もの戦場で矢も弾も潜り抜けてきた歴戦の犬だ。だがそれでも人間には勝てない。正確には群れの長を人間と定めた筆頭である。だが猟犬ーー犬ならば対等と考えたのだろうか。


 そんなことはない。


 狼には甘えがあった。


 猟犬には決して許せない甘えの類が、その痩せた狼にはあったのだ。


 痩せた狼は肉が薄くなったとはいえ、深い毛皮を貫通する牙に首と頰を、強力に裂かれた。毛がハラリというには多すぎるほどに舞い、多くの血が流された。


「王子エクランドス。あの狼は殺されるのか?」


 可哀想だ、とは『言わない』ピッラムのある種では非情とも言える感情ののった言葉だった。弱者は死ね。そう言いかねないものがピッラムにはあった。だからこそ、エクランドスはピッらみを否定しないように、しかし逆の言葉を発していた。


「ピッラム、それはない。儀式だ。絶対の力関係をあの痩せた狼は今、刻まれた。新しい家族だ」

「群れに、あれを迎えるということか」


 ピッラムの整った眉は疑いに形を乱した。信じられないと、その顔は語っていた。


 エクランドスは少しだけ表情を崩した。かつて、父から初めて『それ』を教わったときには、彼もまったく同じ顔をしていたのだ。


「第Ⅲ軍団の猟犬も、そして人も、そうして集まった連中だ。誰かに捨てられたのであれば、拾うこともあるんだ。その気があればだが」


 痩せた狼は猟犬たちに引きずられ、夜へと消えていった。猟犬は人間に遠慮して食うことはない。例え同族であろうともだ。食わない、殺さない、ならばきっと生かすつもりなのだろう。


「よく飼い慣らせているものだ。忠実な猟犬は、狼よりも恐ろしいと今思ったよ、エクランドス」

「安心してほしい、ピッラム。私もその一人だ。そして彼らは私の家族であり、第Ⅲ軍団なんだ」


 サリサス人も共和国に、平和とともに共存できるのだとエクランドスは信じていた。


「変な考えをもつ人間なんだな。ずっと観察していても、まったくお前のことがわからない」

「……随分と砕けた言葉つかいになったな、ピッラム」

「怒ったか。ならば臣従の形を尽くそう。言葉が望みであれば、この舌はいくらでも動かそう」

「まさか。私はいつだって決して望めないものを求めている。真の友を」


 ピッラムは大いに笑った。驚きの表情もなく、ただ純粋に笑った。エクランドスはそれが何故なのかわからなかったようだ。

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