第三話『神の不在』-1-
財を尽くされた神殿の一角は、清められた水が張られ、あられもない乙女が神官と服を濡らす。神の口……神の代行と信じられていた王家とは権威を二分する者たちの居城だ。
神殿とは神の家ではない。神の声を聞く場所でもない。権威による権力で支配する中枢だ。神の絶対の言葉を代行するものは揺るぎない。
揺るがしてはいけないのだ。
(アレイポラスⅧ世の小僧、イフィニアスが大学を広めておるせいで、神官らも戦々恐々ではあろうな)
聖なる儀式が執り行われる。
ノグ=ボーは一人の取り巻きを連れることもなく、老人というにはあまりにも膨れた筋肉を纏う巨大な骨格で絢爛な正装を押し上げている。最近では奇蹟の儀式、その回数が明らかに増えていた。神殿勢力も、今のままでは遠からず地位を落とされる危機感があるらしい、とノグ=ボーは考えている。
神殿な言葉が、神官らの口から紡がれている。
言葉が満ちる中で、ノグ=ボーは水槽に浮かべられる『死体』を見つめていた。飛び出していた目玉は戻され、こぼれていた腸は戻され丁寧に縫合されている。張った乳はなく生殖器が生えていることから、死体は男だ。男はかつて戦士だった、その亡骸だ。
神官らが香油で亡骸を清め、その体へ文字を刻んだ。『咒』だ。固い死体から僅かに血が滲み、水へと溶けていく。
(おぞましいものだ)
ノグ=ボーは咒を見ながらそう思った。死者を起こす咒を神官どもは刻んでいるのだ。果たして、死体は無垢に起き上がり、清らかな水面にさざなみを立てた。胡乱な瞳が、ノグ=ボーを見つめ、周囲を見つめていた。生き返ったわけではない。寧ろそれは、再誕のほうが近いだろう。この死者だったものには、生前の記憶などないのだから。
彼はあくまでも、文字の力学で生きる人形だ。神官がマスケットを持っている。それを人形に渡した。マスケットは彼の生涯を捧げるものだ。時代は騎兵の突撃と、人形のマスケットが揃えた鉛の斉射が『最新とされている時代』だった。
儀式を囲うように立つ武装神官に視線を寄せれば、彼らが『かつて生きていたもの』だと、生きた人間ではないということは簡単に見分けることができるだろう。芳香に隠れた、微かな死臭が風の揺らぎに乗っていた。神官の肉人形どもだ。頑健な肉体を頑強な咒式コートで隠し、王家とは対照的であるために剣ではなく槌を持っている。
(咒を独占したがる神官らしいといえばそうだが、少し、数が増えたか)
ノグ=ボーは神殿も神官も嫌いだ。神は信じているが、それは神官が『祷らせる』教典の姿とはどうしても思えないのだ。歴史の中で教典は、時流に沿った形に添削され続け、もはや原典としての価値さえわからない有様に成り果てていた。それでも、神殿の一派をないがしろにはできない。ノグ=ボーが儀式にいるのは、それだけが理由だ。
「最高神官長殿」
「おぉ、これは、これは、民衆議会議長殿」
長ったらしい呼び名だ、ノグ=ボーは思った。
最高神官長、つまりは神殿の最高権威であるイーリは肥えただけの男だ。もっとも美しい絹だけで織り上げた服を着て、両の手の範疇には豊満な乳と尻の神殿娼婦を三人側に置いている。
イーリの情欲で側にいるのではない。その点だけでもないが、彼は聖職としては純度が高いのだ。ノグ=ボーとイーリは気が合わない、それどころか暗闘を繰り返し血を流す仲だが、この場でも涼しい顔でいられる程度には、お互いを尊敬していた。
ふと、目が気がつく。
ノグ=ボーは内心で、この三人の神殿娼婦に後ずさっていた。見えない部位に、しかし衣服で微かに透ける肌には確かに、咒の文字が刻まれている。彼女らが本気を出せば、奇蹟を起こすまでもなく鎧を引き千切り、竜の首さえも落としてみせることだろう。彼は正面から戦えば圧倒はないと自負するが、なにせ今は腰が軽かった。
イーリはほがらかに笑い、酷評を下すようにノグ=ボーを見つめながら言った。
「アレイポラス王の三男が、辺境をめぐる行楽に出たそうですね」
「流石は神官長、耳が早い」
「黙りなさない。神への奉職をなすべき、愚かな民衆を賢い民衆にする貴方が、ならばここで何をしているのでしょうか。三つめの三本めを揃えるわけにはいかない。そしてそれを民衆ごときに託した。ノグ=ボー、外から着たもの、貴方は共和国の未来を破滅させた」
「しかし王の庭での処理も、王領から出れば準備もやり直す必要がありましょう。事業には資金と人が必要であり、それは入念な調査にもとづいた」
「黙りなさい、と、言いましたよね?」
神殿娼婦の一人、月の瞳と白さの髪のしなやかな筋肉が、内側からざわめいたのをーーノグ=ボーは見逃すほどもうろくはしていなかった。それは鞭のようにしなった腕であり、見た目の長さよりも遥かに伸びて迫る!
だがノグ=ボーの頭蓋を脳と脊髄ともに割ろうと迫る神殿娼婦の腕は、止められた。止める人間は一人しかいない。ノグ=ボー本人だけだ。かつては竜爪とまで言われたが、今は分厚い皮と深い皺の手が受け止めた。
柔らかさを瞬間的に失った彼の掌が、裂けた。だが流れた血は少なく、ノグ=ボーにとってはかすり傷だ。
「むっ」
イーリが眉間に嫌悪を寄せた。殺したのだから、死んでなければ、死ななければいけないだろうとでも言いたげな顔だ。
その時だ。
静謐な神殿には似つかわしくない、荒らしい足音が轟いた。
「我が友、ノグ=ボー!こんなところで何をしている。神殿娼婦に儀式を受けるのか?」
アレイポラス王だ。ノグ=ボーと比較して勝るとも劣らない巨体の男が現れた。それに気がついたイーリは『殺しを失敗した神殿娼婦』を捨て、神殿深くへと消えて行った。
「何用か、アレイポラス王」
「……本当に神殿娼婦を賜っていたのか」
「王、これは……いや、なんでもありませぬ」
ノグ=ボーは、アレイポラス王を見た。若さは日を追うごとに失われているが、ノグ=ボーほどではない。若いと言えた。末王子のエクランドスはさらに若い。それが少しだけ、憎らしかった。かつては恐れられた肉体が、衰え、とるに足らなくなるそれは……酷く、彼を傷つけるものなのだ。




