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第二話『微睡む竜の半眼』-5-

 センパイは、普通の男だ、ちょっと変わっているけどーーというのが光莉の認識だった。悠太郎は、そう、『普通の男の子でなければいけない』のだ。


 光莉は今日の素晴らしい一歩に「いひひ」と人知れず純粋に笑った。それはどこまでも、どこまでも無垢な笑いだった。純粋すぎて、目が眩んでいるほどには。


『封鎖』が解除されて、仲間達はそれぞれの家に帰った。ゲットオンの閉店間近まで残っているのは、店員を除けば光莉一人だけのようだ。店内を掃除する店員が、彼女の視界の端にも引っ掛かっていた。店員の彼女は終始、『変わっていたがゆえに変わっていない』姿のままだった。


 光莉もまさか、ゲットオンの閉店後まで居座るつもりはない。ただもう少し、詰めておきたい、纏めておきたいことの区切りまで場所を借りているだけだ。それも終わった今、後片付けを始めていた。頭の中の小さなデータ領域には、今日の全てが収められている。


(咒、か……)


 テーブルの上には、もうほとんどの皿は片付けられてしまった。残っているのは、冷えた水滴をグラスに浮かべるオレンジジュースだけ。天然ものではない合成食材のオレンジの味は、昔と比べれば随分と美味しく感じられた。光莉はオレンジの苦味が苦手だ。


 光莉はグラスに浮いた雫を指に絡めて、テーブルに文字を書いた。咒だ。言葉は文字であり、文字は力学となる。だが彼女の書いた文字は、なんの力学も作用することもなく、ただテーブルの上の水滴を伸ばしただけだった。咒にはならなかった文字だ。


 何故なのかは、わからなかった。


「まっ、そりゃーそっか」


 “それ”を『知ること』が光莉の夢だ。心を焦がすほど冷たく燃え盛る情熱があった。光莉の中で、言語化できないが確かにそれが彼女のものとして嵌り、それを目指すことに一抹の不安を抱くこともなく進めるものを見つけたのだ。


 情報交換のコミュニティは日を追って拡大している。虎徹、榊、重秀の三人だけではなく、月球全体どころか星を跨いで情報が集まり、調査が並行しているのだ。始まりは単なるオカルトマニアの集会で、それは今でも変わりはない……世間的には。


 光莉は力場を生まない文字に溜め息を吐きながら、ゲットオンを後にした。ピノキアーー人型ロボットの総称だーーに「またのご来店をお待ちしております」と言われた。


(暗いな。夜は嫌いだ。何も見えなくて、怖い。センパイに送ってもらえばよかった。独りはーー寂しい)


 光莉はインプラントの端末を使ってメモを打ちながら歩いた。傍目には黙々と歩いているだけだが、彼女の頭の中にある端末には思いつきやが無造作に羅列された。


〈取り残されたNPC〉

〈男に詰められた赤子事件〉

〈御旗の落書き〉

〈死体が歩く〉

〈外出禁止の中で外にいるもの〉


 わからないな、光莉は街灯の明かりから影へ、明かりから影へとその光陰に肌を表しては消えた。家まではそう遠くないが、不気味な夜はいたるところに溜まりを作っていた。


 考えを変えよう。考えるから見えて怖いのだ。そう考えた光莉は夜に蓋をした考えるのは、今見ている『夢』だ。


 全ては、三番めの軍団旗に繋がる。光莉はそう信じていた。証拠なんて何も必要はないのだ。『彼女がそう確信している』のだ。咒もまたそれに至るための道ではあるが、もしかしたら全てかもしれない。だが、それはどちらでもよいことだ。


 文字があった。夏の凍える風でカタカタと揺れる看板、電柱に貼られた広告、道路に掛けられた書かれた標識。文字は意味のある力学に作用する。止まれとあれば、止まるようにだ。咒と同じだ。文字の形に働く力が、光莉には見えた。


 夜目を起動させれば明かりが無くてもそれを正確に見えた。現代の人間は人工的に多機能を埋め込んでいる。夜目もその一つであり、特別な能力では無くなって久しい。仮に何も見えなくても位置座標を確認できた。脳が拡張されているからだ。意味という意味では、光莉の頭の中には増量された新しい文字が無数にあり、それは産まれながらの文字ではなかった。普通の文字も『後から学ばなければ習得できない異能』だが、インプラントの言語はより特殊だ。


 特殊ではあるが、インプラントされた光莉が理解しなくても使えるということは文明の分業化とでもいうべき神秘だ。


 特殊が通常となった日、光莉は産まれた直後に脳にインプラントと埋め込む第一世代電脳だ。言葉と自意識がリンクしていた、もっとも始まりの世代だ。だからか、『言葉の違いには少しだけ気にしている』こともあった。


「……」


 ふと、光莉は電灯の点滅に気がついた。電波が乱れた映像のようにコマ送りに世界が切り刻まれていた。


 何か、来た。ーー来る。光莉の夜目が機能を切り替えて、微光増幅された視界が夜を透かし見た。


 ひょっとこ、ひょっとこ。


 引きずるような足音。小さい、それは猫だった。後ろ足が折れ、目玉を半ばまで飛び出させて、裂けた腹から今にもアスファルトと擦れそうな腸がダラリ垂れていた。生きているのが不思議で、まるで『この出会いを物語するためだけに醜く生かされたみたいだな』と光莉は考えてしまった。


 この猫は、車に撥ねられたのだろうか。


 光莉とその猫は、目を合わせることはなく擦れ違った。猫は光莉を見なかった。光莉も、視界に写った以上には追わなかった。


 死がーー光莉の側から過ぎ去った。光莉はそんな風に感じていた。触れるほどの距離で、死神を引きずった死だ。


 ふと、光莉は猫が歩いたあとに気がついた。


 アスファルトの上に一滴、恐らくは猫の流した血のようなものが垂れていた。死が、刻まれていた。

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