弟子入り
―――夕暮れの街道。
高原を抜ける風は、思っていたより冷たかった。つい数時間前まで命の奪い合いが行われていた場所を離れ、四人の少女は黒い外套の青年の後ろを歩いていた。
ラント。それが、彼の名前だった。それ以外のことを、彼女たちはほとんど知らない。年齢も。出身も。どれほどの冒険者なのかも。なぜ一人で戦場跡にいたのかも。
ただ一つ分かっていることがある。彼は、自分たちを助けた。あの瞬間、4人は本当に死ぬと思った。
目の前に迫った棍棒。動かない身体。逃げることも、防ぐこともできなかった。そして、頭の中に浮かんだのは、死にたくないという、とても単純な感情だった。
冒険者になって三日。夢見ていた冒険は、もっと華やかなものだった。未知の遺跡。強大な魔物。仲間たちと力を合わせて、それを乗り越える。食事をして笑いながら、その日の冒険を語る。そんな未来を想像していた。
まさか。こんなにも簡単に死が目の前まで来るなんて。アリサは無意識に肩へ手を当てた。布の下には傷がある。リゼットが応急処置をしてくれたおかげで血は止まっている。けれど、痛みは残っていた。それ以上に残っているものがある。
――恐怖。
目を閉じると、まだ思い出す。襲ってくるゴブリンたち。濁った叫び声。振り上げられた棍棒。そして、自分の身体が動かなかった瞬間。
アリサは小さく息を吐いた。忘れたい。できれば、全部忘れてしまいたい。けれど。忘れてはいけないような気もしていた。あの恐怖を忘れれば、きっとまた同じことになる。そう思うのに。
身体はまだ震えていた。
「……」
前を歩くラントを見る。彼は何も言わない。一定の速度で歩き続けている。まるで、今日あったことなど何でもなかったかのように。その背中を見ていると、不思議な感覚になる。羨ましい。そして、悔しい。自分たちはあれだけ必死だった。生きることに必死で、剣を振り、盾を構え、魔法を使った。それでも何もできなかった。
一方でラントは、一人で戦場に立っていた。怯えた様子も焦った様子もなかった。ただ淡々と、必要な動きを繰り返していた。まるで、自分たちとは立っている場所そのものが違うようだった。
――あんなふうになりたい。
そう思った。その直後、自分でも驚くほど強い感情が胸に湧いた。悔しい。どうしようもなく悔しかった。自分だって剣士なのだ。自分だって、仲間を守るつもりだった。なのに。
最後に仲間を守ったのは、自分ではなかった。助けてもらった。 何もできない自分を。その事実が、傷よりも痛かった。
◇
少し後ろでは、ミリアが歩いていた。脇腹には治癒魔法を受けた痕が残っている。痛みはかなり引いていた。それでも、身体を動かすたびに鈍い違和感がある。けれどミリアが気にしていたのは、怪我のことではなかった。
盾。手に持っていた盾を見る。表面には大きな傷が走っている。昨日までなら、傷がついたことを気にしていたかもしれない。だが今は違った。
盾を見るたびに思い出す。ゴブリンの棍棒。受け止めた瞬間に腕へ走った衝撃。何度も叩かれて、指先から力が抜けていった感覚。それでも前へ出ようとした。仲間を守らなければならない。その思いだけで。
けれど、結果はどうだった。盾は傷だらけになり、自分は倒れた。守れなかった。それどころか、アリサに助けられる始末だった。ミリアは唇を噛んだ。自分は、もっとできると思っていた。家では、何度も剣術や盾の扱いについて教わった。基本的な構えも知っている。防御の仕方も習った。
だから。少なくとも、仲間を守るくらいはできると思っていた。けれど現実は違った。訓練場と戦場は、まるで別物だった。目の前で魔物が殺意を持って襲ってくる。その恐怖に晒された瞬間、頭の中で覚えていたことがほとんど消えた。ただ必死に盾を構える。ただ殴られないようにする。ただ倒れないようにする。それだけだった。
――私は、盾役ですらなかったのかもしれない。そんな考えが浮かび、ミリアは慌てて打ち消した。そんなことはない。そう思いたい。でも。
自信を持って否定できなかった。前を歩くラントを見る。彼は自分たちより遥かに軽装だった。大きな盾もない。重い鎧もない。それなのに。あれほど多くの敵を相手にして、一度も動きを乱さなかった。盾とは何なのか。守るとは何なのか。ミリアは初めて、それを根本から考え始めていた。
◇
セラは三人から少し離れて歩いていた。杖を胸元に抱きしめる。指先にはまだ力が入りにくい。魔力を使い切ったせいだ。身体の中にあるものを、全部吐き出してしまったような感覚が残っている。魔法使いとして、それは恥ずかしいことだった。
魔力が尽きるまで戦った。そう言えば聞こえはいい。けれど実際には違う。ただ、魔力を無駄に使っただけだ。強い魔法を使えば敵を倒せる。そう考えていた。だから、できるだけ強い魔法を放った。
結果として、数匹のゴブリンを倒した。それだけなら成功だったのかもしれない。
しかし、その後に何もできなくなった。仲間が戦っているのに。自分だけ座り込んでいた。助けたい。そう思っていた。でも、身体は動かなかった。
魔力がない。その事実が、あまりにも怖かった。自分には魔法しかない。剣も使えない。盾も持てない。体力だってない。
だからこそ、魔法だけは誰にも負けないようにしたかった。なのに。その魔法がなくなった瞬間、自分には何も残らなかった。
セラは杖を見つめた。自分にとって、これは武器だ。同時に。自分自身そのものでもあった。これを失えば、自分には何が残るのだろう。そんな不安が胸の奥に沈んでいた。
◇
最後尾では、リゼットが歩いていた。三人よりも少し遅れている。足を痛めているせいだった。それでも、誰にも言わなかった。自分が遅れれば、みんなの足を引っ張る。その思いだけで歩いている。
リゼットは自分の手を見る。治癒魔法を使った手。今日、何度も祈った。けれど。治せたのは一人だけだった。
もし、もっと力があれば。もし、自分がもっと優秀な治癒術師だったら。アリサの傷も。セラの疲労も。ミリアの怪我も。全部治せたかもしれない。そう考えると、胸が苦しくなる。
教会では、癒しの力を持つことを祝福だと教えられてきた。誰かを救える力。苦しんでいる人を助けられる力。それが自分に与えられた使命だと思っていた。なのに。
現実の戦場では、一人しか救えなかった。残りの三人を見ながら、ただ祈ることしかできなかった。――もし、あの人が来なかったら。考えた瞬間、背筋が冷たくなった。
ラントが来なければ。自分たちは。リゼットは慌ててその考えを止めた。これ以上考えたくない。けれど、同時に思う。
このままでいいのか。今度は。誰かに救われるのではなく。自分が誰かを救えるように。
◇
夕日が山の向こうへ沈み始めた。街道の先に、小さな町が見えてくる。四人の少女は、それを見てようやく少しだけ安心した。今日一日が終わる。そう思った瞬間。アリサの張りつめていた糸が切れた。
「……っ」
膝が崩れる。ミリアが咄嗟に支えた。
「大丈夫?」
「うん……」
アリサは笑おうとした。けれど、うまく笑えなかった。
「ちょっと……疲れただけ」
ミリアは何も言わなかった。アリサの顔を見る。その目の奥には、まだ恐怖が残っている。自分も同じだった。四人とも。きっと同じなのだ。
強がっているだけ。怖かった、死ぬのが。仲間が死ぬののが。そして。
自分が何もできないことが。
その時。
「俺はここまでだ」
前を歩いていたラントが言った。四人が顔を上げる。
「じゃあな」
それだけ言うと、ラントは再び歩き出した。アリサはラントの背中を見つめる。見えなくなるまで。
ふと思った。次に魔物に襲われた時。ラントがいなかったら。その時、自分たちはどうするのか。アリサはゆっくりと拳を握った。
◇
宿に着いた後も、四人はなかなか眠れなかった。ベッドに横になっても、目を閉じれば高原の光景が浮かぶ。アリサは何度も寝返りを打った。
眠れない。身体は疲れ切っている。それなのに、頭だけが妙に冴えている。
――死ぬ。
あの時感じた恐怖が蘇る。アリサは目を開けた。暗い天井が見える。
「……」
胸に手を当てる。心臓がまだ早い。こんなことでどうする。冒険者になると決めたのは自分だ。
自ら剣を取った。自分からこの道を選んだ。
だったら。逃げるわけにはいかない。アリサはベッドから起き上がった。窓を開ける。冷たい夜風が入ってきた。その時。宿の外から、かすかな音が聞こえた。
――ヒュッ。
何かを振る音。アリサは窓から身を乗り出した。宿の前。月明かりの下にラントがいた。剣を振っている。一人で。昼間の戦いで疲れているはずなのに。何度も。同じ動きを繰り返している。
アリサはしばらく、その姿を見つめていた。不思議だった。強い人でも、鍛えるのだ。自分たちよりずっと強い。それでも、立ち止まらない。剣を振り続ける。そこに、特別な才能があるからではない。
きっと。積み重ねてきたものがある。アリサは窓を閉めた。そして、自分の剣を見る。
昼間の戦いで傷ついた剣。握る。重い。けれど。もう一度だけ。剣を握ってみたいと思った。
◇
翌朝。まだ太陽が昇りきっていない時間。宿の外に、四人の少女が並んでいた。
アリサ。ミリア。セラ。リゼット。
全員、眠そうな顔をしている。それでも誰一人として帰ろうとはしなかった。やがて、宿からラントが出てくる。四人を見る。
「……何をしている」
「待ってた」
アリサが答えた。
「何を?」
アリサは一瞬だけ迷った。昨日までなら、勢いだけで答えていたかもしれない。でも今は違う。自分が何を望んでいるのか。少しだけ分かっている。
「強くなりたい」
ラントは黙っている。
「昨日、助けてもらった時……」
アリサは言葉を探した。
「怖かった」
自分から言うのは、少し恥ずかしかった。けれど。
「死ぬのが怖かった」
正直に言った。
「仲間が死ぬのも怖かった」
ミリアが静かに目を伏せる。
「でも、一番嫌だったのは……」
アリサは剣を握った。
「何もできなかったこと」
その言葉は、四人全員の胸に同じように響いた。
「だから、強くなりたい」
ラントはしばらく何も言わなかった。
「だから、私たちのことを鍛えてほしい。もうあんな思いをしなくていいように。仲間が殺されるなんて絶対嫌だから」
アリサはラントの目を、まっすぐ見据える。
琥珀色の瞳が、ラントをじっと見つめている。
その隣で、ミリアも静かに口を開いた。
「私も……お願いします」
ミリアは自分の盾へ視線を落とした。
昨日、何度も打ち付けられた盾には、今も大きな傷が残っている。
「私は、みんなを守るために盾を持っています。でも……昨日は何もできなかった。あんなふうに、ただ耐えるだけなのは嫌です」
悔しさを噛み殺すように、ミリアは盾を強く握りしめる。
「今度は、ちゃんとみんなを守れるようになりたいです」
続いて、セラが小さく手を挙げた。
「あ、あの……私も……」
声は弱い。
けれど、途中で引っ込めることはしなかった。
「私は魔法が使えるから、それだけで役に立てると思ってました。でも……魔力がなくなったら、何もできなかった」
セラは杖を胸元で抱きしめる。
「もっと上手に魔力を使えるようになりたいです。強い魔法を撃つだけじゃなくて……最後まで、みんなと一緒に戦えるように」
最後に、リゼットが一歩前へ出た。
「私もお願いします」
彼女は胸元の教会の紋章にそっと触れる。
「私は、みんなを癒すためにこの力を授かりました。でも……昨日は一人しか治せませんでした」
その声には、ほんの少し震えが混じっていた。
「もしラントさんが来てくれなかったら……きっと、私は誰も救えなかった」
一度、俯く。
それから、顔を上げた。
「もう、そんな思いはしたくありません。今度は……誰かが傷ついた時に、ちゃんと手を差し伸べられる人になりたいです」
四人の言葉を聞き終えても、ラントはすぐには答えなかった。
ただ、黙って彼女たちを見ていた。
四人とも、昨日とは少しだけ違っている。
恐怖が消えたわけではない。
傷が癒えたわけでもない。
それでも、その目には昨日までになかったものがあった。
覚悟。
そして、自分の弱さを認めた者だけが持つ、僅かな強さ。
数秒の沈黙の末、
「……理由は分かった」
ラントが静かに口を開いた。
「一度首を突っ込んだんだ。最後までやらねえとな」
四人の表情が明るくなった。
「鍛えてくれる?」
「ああ。ただし、楽だとは思うな」
アリサは少しだけ笑った。一度、仲間を見る。ミリアも。セラも。リゼットも。それぞれ不安そうな顔をしながら、それでも頷いていた。
「四人で頑張る」
ラントは目を細めた。
「そうか」
そして、彼女たちの前に立った。
「なら、最初の訓練だ」
四人が身構える。ラントは淡々と告げた。
「町の外周を5周」
「……」
沈黙。
「……5周?」
アリサの声が震える。四人の顔が明らかに引きつった。
「ああ。まずは体力からだ。一周七キロ程度だろうが、音を上げるなよ?」
「七キロ……」
セラの顔から、さらに血の気が引いていく。
「それを……5周?」
「そうだ」
「……35キロ?」
「計算できるじゃないか」
「そこ褒めるところじゃないです!」
セラが珍しく声を張り上げた。ミリアは額に手を当て、深いため息をつく。
「いきなり35キロは、訓練というより拷問なのでは……?」
「盾を持って走れば、もっと鍛えられるぞ」
「普通の状態でお願いします!」
ミリアが即座に返す。ラントは少しだけ口元を緩めた。
「冗談だ。最初は何も持たなくていい」
「最初は……?」
ミリアの表情が固まった。
「今のは聞かなかったことにします」
その横で、リゼットはすでに両手を組んでいた。
「女神様……どうか私たちに力を……」
「祈っても距離は縮まらないぞ」
「分かっています……!」
リゼットは涙目になりながらも、手を離した。アリサも頭を抱える。三人から小さな笑い声が漏れた。
ほんの少しだけ不安だ。修行をやり切れるだろうか。それでも。四人で頑張ると決めた。なら、これからも四人で進めばいい。
アリサは大きく息を吸った。ミリアは足首を回している。セラは杖を宿に置き、両手を軽く握った。リゼットは修道服の裾を整える。
誰一人として逃げ出さなかった。ラントはそんな四人を見て、静かに頷く。
「行ってこい」
「……はい!」
四人が走り出す。最初は、まだ余裕があった。
だが――
彼女たちはまだ知らない。この5周が。これから始まる厳しい訓練の日々の、ほんの入り口に過ぎないことを。




