第15話 取り戻す旋律(メロディ)
時間は少し遡る。
少し残暑が残る9月の日曜日の昼下がり。
綺羅は渋谷にひとり、出かけていた。
商業施設直結の地上4階にある小さな改札を抜けると、レストラン街にでる。
そこには休憩スペースのある広場があって、壁際に1台のアップライトピアノが設置されていた。
最近、弾いてないなと綺羅は遠目にその弾き手のないピアノを見て思う。
綺羅の家は両親も音楽畑で、父はピアノ、母はヴァイオリン、一番上の兄もピアノで海外へ行ってしまい、姉は大学で声楽を学んでいる。弟もピアノに夢中だった。
そんな環境の中で、物心ついたころから、ピアノやヴァイオリンを習い続けていて、趣味で祖父に習いサックスも吹いていた。一通り演奏自体はこなせるレベルにはなったけれど、今はどれも辞めてしまった。
元々、楽器を演奏することより、外で身体を動かしている方が性に合っていた。
だから、高校に進学するときに日課でしていた練習も止めてしまった。
ちょうどそのタイミングで親友の統風がマーチングバンドをやると聞いて、自然と一緒にはじめて、9ヶ月がたっていた。
今日は久々に部活動が休みになり、特に用事もなかったが、家に居ると楽器の音が嫌でも耳に入ってくるので――別に、音楽が嫌いなわけではない。たぶん、演奏よりも、演奏に合わせて身体を動かす方が『好き』なんだと思う。マーチングバンドはまさにその具現化に他ならない。
ふと、喉の渇きを覚え、広場の前にあるカフェでラテをテイクアウトした。
店を出て、先ほどのストリートピアノに視線を向けると、ひとりの少女がまさに、演奏を始めるところだった。
邪魔にならない程度にピアノに近づき、その少女――たぶん同い年か、いや中学生くらいか――の横顔がちらりと見えたとき、綺羅は奇妙な胸騒ぎを感じ、立ち止まる。
少女の指がそっと鍵盤の上に添えられ、演奏が始まる。
静かな音の連なり、低音の冷たい響きに加えて、三連符の細かく繰り返される伴奏のしらべ。指が鍵盤の上を滑るように動くとともに、その切なくて、そして聴く者に優しく寄り添うように音が広がって包んでいく。
ベートーヴェンの月光ソナタ、第1楽章。
低音が静謐な夜、深い暗闇や心理的内面を描き、右手の旋律が静かな湖面を揺らすさざ波のように広がっていく。細かく繰り出す音がポツリ、ポツリと遠くを見つめるように置かれる。悲しみを含みつつも、その音はどこか穏やかで祈りのごとく流れる。
テンポは静かにゆっくりと、引き締まった静けさを表現し、音の余韻が消えないうちに
次の音がそっと重なって響く。聴いている者もふっと息を潜めて、月を眺めているかのように感じている。そんな雰囲気が広場を占めていた。
演奏が終わり一瞬の間とともに、パチパチとまばらな拍手。
それでも少女の演奏には、幾人かの歩みを止めるだけの魅力があったのだ。
綺羅もその中のひとり。
でも、綺羅は演奏の素晴らしさに感動したというよりも、別の方に意識が向いていた。確かに曲の性質がそうだったとしても、少女のあの横顔が、気になってしようがなかった。まるで弾いていることが苦しくて堪らない顔だったのだ。
* * *
(どうして、あんな思いまでして、まだ人前で弾きたいと思うのだろう……)
渋谷のストリートピアノの演奏順を待つ待機列の最後尾で、その少女、天音詩乃は思う。 家でピアノを弾くのが怖かった。
ひとり、ピアノに向かうのが嫌で、休日の渋谷の街に飛び出してきたのに。
気がつくと、ピアノの音色に吸い寄せられるように、ここに居た。
弾くのが怖いのに、でも誰かに聴いて欲しい。
チグハグな感情が彼女を支配していた。
並んで3、40分経ったろうか。
自分の前の男性が弾き終わって、立ち上がるところ。
いよいよ詩乃の番だ。
ピアノは物心つく頃から初めて、一日も休まずに続けてきた。
最初のきっかけは、親に勧められて始めたに過ぎなかったが、すぐに自分の前の鍵盤という自由なキャンバスに、自らの指で奏でる音の足跡が弾むように転がり、広がる様が嬉しくて、そして楽しくて。やめられなくなった。夢中になった。
どんなに難しい課題でも、ピアノに向かって座れるだけで幸せだったし、少しも辛くなかった。
椅子の高さ合わせ、席に着く。
今日は何を弾こうか。
いや、ここに来るまでに決めていたじゃないか。月光ソナタ。
スッと鍵盤の上に手を置いて、静かに目を閉じて深く息を吸い、ゆっくりと吐く。
左手は低音を親指と小指のオクターブ。
右手は伴奏と主旋律を同時に弾き分ける。三連符とメロディを力を掛けず、流れる水のごとく、手首を柔らかに右回りの小さな円を描くよう、ローテーションさせて次の音へと重ねていく。
鍵盤を滑る手は、繰り返す音が途切れず連なり、静謐なレガート(滑らかさ)を生む。
左手の和音が切り替わる瞬間、右足がダンパーペダルがスッと一瞬上がり、また沈む。
手と足の動きがシンクロして続いていく。
静謐な音の連続、音が掠れてしまわないよう、消えないように極限の集中力が頭を支配する。楽譜通りのテンポでじゃなく、主旋律の切ない音の直前、ほんのわずかな溜め、時間を止める。その間の取り方は成熟した演奏家の風格があった。
複雑な音の重なりと余韻をピアノから響く残響音を耳で掴み、ミリ単位のペダルコントロールをかける。
演奏は、特に問題なく終わりを迎えた。
次の章に移ろうとしたとき、また身体が言うことをきかなくなった。
今まで滑らかに踊っていた手が、臆病に竦む。
今日はここまでか。詩音は深く息を吐いて、立ち上がると、振り向いて一礼した。
まばらな拍手が彼女へ向けられていた。
* * *
演奏を終え、席を立って振り返る。
まばらな拍手が彼女を迎える。
演奏後の静かな広場、ストリートピアノを背後に立って、詩乃の胸にあの日の音が蘇ってくる。
――あの日も、同じだった。突然に音が溶けて消えた。
詩乃の視界が淡く揺らぎ、一瞬であの日に戻る。
そう。あのコンクールの日に。
全日本学生音楽コンクールの会場は、静かな熱気に満ちていた。
夏の深い青空のような、紺碧のドレスを纏い、ステージ上のグランドピアノに向かう。
課題曲は問題なく演奏を終えた。
次の自由曲で詩乃が選択したのは、ショパンのノクターンでも最難関の「第13番 ハ短調 Op.48ー1」だった。
圧倒的な実力をアピールするには最適な勝負曲。
日々積み重ねた成果をこの日のために。
この夜想曲は、ショパンの中でも、バラードやエチュードに匹敵する、極めて高難度のテクニックが求められる曲。
弾き始めから順調に音を連ね、小気味よく音が跳ねる。
中間部の第37~38小節。
ハ長調の静かな賛美歌の様相を表す美しい和音の調べが限界までに盛り上がるそのとき。美しい和音が「ドドドド……」と地鳴りのごとく続く三連符のオクターブが鳴り響く。恐ろしいほどの熱量でクレッシェンドしていく。
詩乃の心身が悲鳴を上げそうになるが、大変な難所をひとつ、乗り越えた。
第一の難関を超えた先。
第二の関門が待ち構えていた。
第49~50小節。これから演奏速度が一気に上がり、立ち上がる瞬間。
直前の嵐の中にいるような連符の中間部を終え、いよいよ最難関のポイント。
ここはいつも念入りに、練習を重ねていたところ。
テンポが2倍に跳ねるその瞬間。
右手が主旋律と同時に、激しく和音の連打を刻む。
そして、左手が広大な跳躍を始めたその瞬間――楽譜を見つめる視線が揺らぎ、今まで鍵盤の波を乗り越えていた手が止まった。
今日一番のプレッシャーが詩乃を襲ったそのタイミング。
さわりの2小節まで耐えたところで、手のコントロールを失うとともに、頭が一瞬で真っ白になった。暗譜が完全に飛んでしまった。
ステージの上に、孤独なひとりの少女。
会場が残酷なくらいに静まり返った。
詩乃は、何もできなかった。
* * *
時は流れて、翌年の4月。
徐々に同好会部室としての体裁が整ってきたプレハブ小屋。
綺羅が入ると、統風と颯汰が顔を突き合わせて相談をしていた。
「何してるの?」
近づいて声をかける。
「あ、きーちゃん。あのね、ふーちゃんにバンドの編成と役割を説明してたの。メンバー揃ったら、ふーちゃんにもコンテ考えてもらおうと思って」
ホワイトボードに、バンドに必要な編成名と、各セクションが箇条書きになっていた。
「そうなんだ。私も聞いてていい?」
「きーちゃんは知ってるじゃない。いまさら私の説明聞いても……」
「ほら、いいからいいから。続けて」
「もうっ、強引なんだから。ま、いいけど――」と統風は綺羅の説得を早々にあきらめて、メモをしている颯汰に続きを話す。
「じゃあ、ざっと説明したところでおさらいね。マーチングバンドの先頭で指揮を担当するのが、ドラムメジャー。バトンやホイッスルでメンバーに隊形の変化の合図をするの。いちおう私の役目」
統風は、ホワイトボード上の隊形を模して配置した赤いマグネットをトントンと指で軽く叩く。
「そして、その後ろ。この青いマグネットは、カラーガード。このポジションは楽器の演奏はしない。その代わり、フラッグ(旗)や、ライフル(模擬銃)、場合によってセーバーっていう模擬刀を持ち移動しながら、空中へトスしたり、スピンさせたりしながら演技するの。演者の注目が一番集まる役割かもね。バンドの世界観はカラーガードが描く担当なの。きーちゃんや、萌ちゃん、茉莉ちゃんがこのポジションだよ」
続いて、青いマグネットをトン、トン、トンと3箇所示していく。
「続いて、ホーンズ。細かく言うと、千景ちゃんのトランペットや奏くんのユーフォの金管楽器と――」
黄色いマグネットを二つ、続けてタップする。
「木管楽器を合わせるから、管楽器隊ね」
「木管楽器?」と不思議そうに尋ねる颯汰。
それについては、綺羅が答えた。
「ふーちゃん、あのね? 木管楽器というのは、そう、フルートやクラリネット、サクソフォン……サックスと言ったほうがわかるかな。ほかにもあるけど、マーチングにはこのあたりかな」
「フルートやサックスは金属なのに、木管楽器なの?」
「あ、それ私も不思議に思ってた。なんで?」
矢継ぎ早に二人に質問で迫られる。
「だよね。例えばフルートだけど、現代は銀や金などの金属でできているんだけど、昔は木でできていたんだって。だから木管楽器。サックスは元から金属だけど……音の出し方がトランペットなどの金管楽器と違うんだよ。竹や葦などの植物でできたリードをマウスピースにつけて、それを息で震わせて音を出すの。同じ木管楽器のクラリネットと同じだね。見た目は金属でできているから、金管楽器ぽいのにね」
そうだ。今の同好会の編成には、木管楽器がいない。
金管楽器は千景ちゃんと、奏くんがいる。
でも、ホーンズはそれだとまだ足りない。そう足りない。
中音域を支える音が、ない。
里桜ちゃんはクラリネット奏者だけど、たぶん無理。
彼女は支える側になりたいと言っていた。
そういえば、最近は吹いていないなと綺羅は思い返す。
祖父がサックス奏者としてジャズを演じていたからか、綺羅もよく祖父に倣ってアルトサックスを習っていた。ピアノ、ヴァイオリンに次いで、身についていた。
実は、サックスが自分では一番好きな楽器かもしれない。吹いているときが一番楽しかった。
そう、楽しかったのだ。音楽を奏でることが、辛くなかったのだ。
木管パート、探さないといけないなと、綺羅は思った。
果たして、見つかるだろうか。
カラーガードのポジションでなければ、私でも……。
いや、きっと適任者がみつかるだろう。見つけないと。
「へぇ。わかったけど、なんだかもやもやする。金属でできているのに、木管……楽器……」
颯汰がぼそっとつぶやく。
「そうなんだ。きーちゃん、わかりやすい! じゃあ、次ね――」と、統風は説明を再開する。
「次は、打楽器のバッテリー。フィールド(隊列)の中を歩き、動きながら打楽器を演奏するの。スネアドラム、マルチドラム、バスドラム、シンバルとか。リズムの骨組み、ビートを刻み、隊列内で躍動するマーチングの心臓部だよ。バッテリーが打つリズムとテンポが、隊列のステップをあわせる基準になる大切なポジションなの」
緑色のマグネットをタップして示す。
「凛ちゃん、ひよりちゃんがバッテリー候補だね」
そして、 隊列の最後方。
黒いマグネットを指で差し、統風は続けた。
「最後に、バッテリーと同じ打楽器セクションだけど、隊列の中で動かず、マーチングの楽曲にて、大事な役割になるフロントピット。管楽器だけでは足りないメロディラインをつくる大切なポジション。マリンバなどの鍵盤打楽器や、ティンパニがこのポジションだよ」
それを聞いて、メモに書かれたポジションを確認してから、颯汰が尋ねる。
「あれ? 今のメンバーでフロントピット担当いなくない?」
「そうなんだよね。誰かいないかなぁ」
少し困ったように表情を曇らせ、統風は言った。
綺羅はそのとき、ふと渋谷で見かけた、少女を思い浮かべていた。
* * *
次の土曜日の昼下がり。
統風が颯汰にマーチングのポジションを説明していたあの日から、気になっていたこと。それを確かめに来た。
渋谷のストリートピアノ。
テイクアウトのコーヒーカップを片手に、広場に佇む。
思い出してから胸のざわめきが収まらず、またこの場に訪れていた。
それはあの日に感じたささやかな期待と、言い知れぬ予感。
確か、去年の9月。
演奏はすごく美しい調べなのに、その調べを編む本人はひどく辛そうな様子だった。
男性の演奏が終わり、ひとりの少女が席についた。
あのときの少女だった。
演奏が始まる。
聞き覚えのある、月光ソナタ。
以前聞いた時と同じ曲目。
テンポは四分音符が四つではない、二分の二拍子。
一音一音を遅く弾きすぎないよう二拍子の大きな流れ、歩むようなリズムで。
極めて静かに遅い音。
ペダルによる残響音の緻密なコントロール。
コードの変動を丁寧に連ね、濁らせないよう深い響きを作っている。
次の章に移ろうとしたとき、また身体が言うことをきかなくなったかのように、演奏の手が臆病に竦む。
鍵盤から手を引いて、少女は立ち上がり振り向いて一礼をした。その表情は辛そうに少し歪み、悔しそうに影が差していた気がした。
綺羅は、はっきりとわかった。
その様子に、去年感じた違和感が。
気のせいではないと感じることができた。
* * *
翌週。
綺羅が校内を移動しているとき、ふとピアノの旋律が聞こえてきた。
ベートーヴェンの月光ソナタ。
しかも、この弾き方の癖のある聞き覚えのある月光ソナタ。
もしかして、あの少女だろうか。
探しに行こうかと悩んでいるうちに、その調べは途絶えて消えてしまった。
用事を済ませたのち、演奏者捜索はあきらめざるをえず、部室に向かった。
* * *
部室のプレハブ小屋に入ると、統風と千景が話をしていた。
「……千景ちゃんたちのホーンズや、バッテリーはメンバーが揃ってきたんだけど、フロントピットの候補がなかなか見つからなくて……」
「……フロントピットって、鍵盤打楽器ですよね?」
「そうそう。誰か知り合いいない?」
「打楽器なら、ブラバンやオケにも経験者はいるにはいるんですけど、元々成り手が少ない方なので、兼任とかでも難しいかなと思います」
「だよねぇ……。そんな都合よくいないよねぇ」
統風はそう言って、逆向きに座っていた椅子の背もたれに突っ伏した。
「どこかに、ピアノでもいいから出来る子いないかなぁ……」
ピアノ。
そうだ、ピアノ。
綺羅は、そのタイミングで話に割って入った。
「あのね、トモちゃん。最近ちょっと気になることがあって。ピアノなんだけど……」
ピアノ、という言葉に反応して、がばっと上半身を起こす統風。
「ピアノ⁈ きーちゃん、誰か知ってるの?」
期待に満ちてキラキラした目線を向けられて、少し怯んでしまう。
「誰、ってわけじゃないんだけど、渋谷のストリートピアノを聞く機会があって、たぶん中学生か高校生くらいの子で、綺麗で繊細な拍子で月光ソナタを弾く子を見たことがあるのよ――特徴のある弾き方でね、それがさっき校舎のどこかからか、同じ旋律が聞こえたような気がするの。すぐ鳴りやんでしまったから、気のせいかもしれないのだけれど……うちに来てくれないかしら」
先ほど聞こえたピアノの旋律が忘れられず、ただ聞いてほしくて綺羅は言ったつもりだったが、意外なところから答えが返ってきた。
「あの、綺羅先輩……たぶん、そのピアノに心当たりがあるんですけど……」
千景がそう言った。
「月光ソナタですよね? 演奏していたのはきっと、同じクラスの天音さんだと思います」
聞いていた二人の視線が千景に集中する。
「天音詩乃さん。部活は入っていませんが、その界隈では有名な子です。ピアノコンクールでは常連だと聞いたことがあります。ただ……」
なぜかその瞬間、千景も苦しそうな表情を浮かべたことを、綺羅は見逃さなかった。でも、敢えてそこは指摘せずに次の促す。
「昨年出場したコンクールで、突然弾けなくなったって。それから表舞台にはでなくなったと噂で。でも、ときどき学校では弾いてるみたいなんです。月光ソナタ。静かで綺麗な旋律なんですけど、すごく悲しそうな音なんです」
そこまで言ったあと、千景の中でも、あのときの光景が湧き出すように思い出された。
コンクールという表舞台において音が出なくなる。出せなくなる――演奏者としては恐怖でしかないその経験。
その痛みは経験したものでしかわからないだろう。
そう、私もそれがわかる側だった。
「コンクールで弾けなくなっても、学校で弾いているってことは、ピアノ自体は嫌いじゃないんだよね、たぶん……」
統風は静かにつぶやく。
「そうね。ストリートピアノを弾きに来ている時点で、人前で弾くことに抵抗はないわよね……」
綺羅もそう答える。
「はい。彼女、ピアノを弾くことに抵抗はないんだと思います。ただ、コンクールの記憶が邪魔をしているだけだと思います。私も経験があるので」
「千景ちゃん?」
心配そうに見つめる綺羅に、頭を振って千景は続けた。
「綺羅先輩、もう私は大丈夫です。乗り越えましたから。でも、天音さんはまだ、そこまではたどり着いていないだけだと思います――あの、この件、少し私に時間をいただけませんか。彼女と、天音さんと少し話してみたいんです」
綺羅と、統風は目を合わせ、頷く。
「千景ちゃん……天音さんの件、任せるわ。お願いできる?」
千景は、力強く頷いた。
その瞳には、微塵も悲しみの色はなかった。
* * *
あくる日の放課後。
いくつかある音楽室のひとつ。
詩乃はグランドピアノの鍵盤蓋をゆっくりと両手で、奥へと押し上げ開ける。
グランドピアノの前に座り、そっと蓋を開ける。譜面台を起こし、手前に引いて角度を整えた。
一瞬の躊躇いののち、今日は大屋根を少し開けることに決めた。右側に回り込んで大屋根を持ち上げ開き、短い方の突上棒を大屋根のくぼみにしっかりと差し込む。
これでいつもより、音が響くが、今日はその方が都合がいい。
椅子の位置と、高さを調整して、浅めに腰掛ける。
ペダルの位置を足で確認し、鍵盤の上に手を置く。
詩乃は今日、ひとつの覚悟を決めてこの場に臨んでいた。
それは、あのコンクールで弾けなくなった曲を、久々に弾いてみること。
いつも、渋谷のストリートピアノや、ここ学校の音楽室や練習室を借りて弾いていた、月光ソナタではなく。
あれから、半年以上が経とうとしているが、今まで意識して避けてきたあの曲。
今日は、確かめてみたかったのだ。
弾けるのか、あの小節の先を弾けるのかを。
* * *
千景は、昨日の部室でのやり取りを受け、詩乃へ話かけるタイミングを図っていたのだが、なかなか時間をとれず放課後になってしまっていた。
実は、自分にまかせてほしいと言ってしまったが、何か千景に策があったわけではない。ただ、同じ境遇を持ったひとりの人間として、何かできるのではという、ひどくあいまいなふわふわした予感と期待があっただけ。
午後のHRが終わり、三々五々クラスメイトは、部活や帰宅のために教室を後にしていく。
ふと詩乃へ視線を向けると、彼女も帰り支度をして、立ち上がろうというところ。
急いで自分も帰り支度を整え、気づかれないよう距離をとりつつ、詩乃のあとをついていく。たぶん、今日もピアノを弾くという期待があったからだった。
* * *
詩乃はピアノに向かい、目を閉じて深く息を吐いた。
そして、ひとりの観客を前にして、そのことに気づかずに。
ショパンのノクターン。「第13番 ハ短調 Op.48ー1」。
久々だったがまだ体が、指がその旋律を覚えていた。
弾き始めから、中間部へのハ長調の讃美歌は、問題なく調べを連ね、指は鍵盤を上を舞っていた。
徐々に緊張が高まってくる。
迎えた第一関門。中間部、第37~38小節の調べ。
最高潮に高まる讃美歌の美しい地鳴りのごく続く三連符の和音の高まり。
その調べは無事に弾きこなし、次へと続く。
その直後に届く、第二関門へ。
緊張も最高潮に跳ね上がる。心音も高まり、息があがりそうになる。
そして問題の小節。
第49~50小節。演奏速度が加速していく。
いける。私は弾けている。
そのあとは、もう勢いのまま、最後まで。
しかし、その時は突然訪れた。
流れるように踊っていた手がぴたりと止まる。
最後の和音だけが、悲しく残り溶けていく。
暗譜が消えたわけではない。
指の置く場所を忘れたわけではない。
弾けないわけではない。
でも、弾けなかった。
その先を、詩乃は弾けなかった。
まだ、弾けなかった。
* * *
千景は扉の前で詩乃の演奏を聴いていた。
ショパンのノクターン。
その中でも最難関曲のひとつ。
これは、きっとコンクール向けに、いや実際に演じた曲そのものだろうと直感でわかった。
彼女はまだ戦っているんだ。弾けない、弾けなくなった自分と。私と同じだ。
ひとつ違いがあるとすれば……私は吹けない自分を乗り越えた。でも、彼女はどうだろうか。
予想に反してか、いや予想通りなのか。
突然にそれは起きた。
演奏は、悲しい音の響きを残し、終わりを告げた。
* * *
音が宙に溶けて、いくばくかの時間が経った。
千景は、いよいよ覚悟を決めて、目の前の壁を取り払う。
静かに扉を横に引いて開けた。
ちょうど、詩乃は鍵盤から手を下ろし、膝に乗せたところ。目を閉じ、口を固く閉じて俯いていた。
だから、静かに開いた扉が滑る音に、敏感に反応した。
音のする出入口へ視線を向けた。
開いた扉には、見覚えのある少女が立っていた。
確か、クラスメイトの……
「……瀬尾さん⁈」
「ごめんなさい。盗み聞きするつもりはなかったのよ。少しお話できるかな」
詩乃は、一度千景に背を向けて、勝手に頬を伝っていた涙を、手で拭った。そして振り向いて深呼吸をしてから、それに答えた。
「おかしいでしょ? いつも同じところで弾けなくなるの。あんなに練習したのに、一度弾けなくなってから、いつもそう。ほかの曲は……問題ないのにね」
自嘲気味に詩乃は言った。
視線は床のどこかを見ている。いや視点は揺れている。
「わかるわ」
静かに言った千景のその言葉に、顔を起こした千景は猛然と食って掛かる。
「何がわかるの⁈ 軽々しく言わないで! 何を――」と言い掛け、ふと自分の怒りの矛先が千景に向いたことに驚いたのか、急に黙ってしまう。
「いや、わかるのよ。私も同じだから」
そう告げた千景の表情は、まるで自分を鏡で映したようだった。詩乃はその先の言葉を飲み込んだ。
「私もコンクールの演奏で、突然吹けなくなったことがあるのよ。あなたはピアノ、私はトランペットだけどね。」
「あ、あなたも?」
驚く詩乃を尻目に、千景は一言こう告げた。
「天音さん、あなたリハビリを兼ねて、少し気分を変えてみる気はない?」
それは詩乃にとって、少なくとも聞くに値する魅力的な提案に思えた。
* * *
今日は、いろいろあって疲れた。
詩乃は自宅に戻り着替えると、今日一日を振り返る。
提案された内容は、まったく予想外の話だった。
しかも、てっきり「吹奏楽部」に在籍していると思っていたクラスメイトがいつの間にか、存在すら知らなかった「マーチングバンド同好会」に入っていたなんて。
私がピアノを弾くことに対して、いくら足搔こうともコントロールできない部分があることは、今までの経験上、頭では理解しているつもりだった。でも、それでもあきらめきれない自分が別にいて、早く弾け、すぐに弾けとせかしてくる。
だから、頭ではまだ不十分だとわかっていても、試したくなってしまう。学校の音楽室で、渋谷のストリートピアノで。
そして、コンクールで弾いた曲に限っては、最後まで弾けない。条件を変えても同じ。
別の曲でも、1章分は弾けても、その次の章へは無理。長時間の演奏には耐えられない状態だった。
それでも、私は弾きたいんだ。
音楽は嫌いなんてなれない。
だって、好きなんだもの。
演奏することに、私は……。
でも、少しピアノ自体から離れることも、必要なのかもしれない。それでも、ピアノや音楽から、体感的に離れない方法としては、瀬尾さんの提案は願ってもない提案なのかもしれなかった。
私は、絶対ピアノをあきらめたくないのだ。
それだけは、譲れない願いだった。
明日、話そう。
私は、そう決めた。
* * *
翌日。
帰りのHRを終えたとき、詩乃は帰り支度をしていた千景の席に駆け寄った。
「瀬尾さん! このあと、ちょっと時間もらえないかしら」
顔を上げた千景は、もう詩乃の行動がわかっているかのような、そんな表情をしていた。
「ええ。もちろん。場所を変えましょう」
二人は連れ立って、同好会の部室へ。
歩いている間、不思議とお互い言葉はなかった。
でも、それで十分だった。
* * *
「部長、それに綺羅先輩! 今、お時間いいでしょうか?」
部室に入ってすぐに、部屋を見回した千景は、ふたりをみつけると声をかけた。
「天音さんをお連れしたんですけど……」
統風が手招きして、綺羅が椅子を用意する。
2対2で向かい合うように。
「ようこそ。私が部長の音羽統風です。それでこちらが――」
「副部長の環奈崎綺羅です。よろしく」
「瀬尾さんと同じクラスの、天音詩乃です……よろしくお願いします」
自己紹介が済むと、座るように促す。
綺羅がまず、話を振った。
「天音さん、私あなたが渋谷のストリートピアノを弾いているところを何度か見かけたことがあるの。私、あなたの弾く、月光ソナタ、好きよ」
いきなり嬉しい声を聴かせてきた綺羅に、驚きつつも少し気持ちが和らいだ。
「あ、ありがとうございます」
少し照れもあって、礼を言うのが精いっぱい。
続けて、統風がつなぐ。
「天音さん。私たちのマーチングバンド同好会は、今、マリンバの演奏者を探しているの。ピアノ経験のあるあなたなら、かなり高いレベルでできる楽器じゃないかと思っているの。どうかしら? 挑戦してみる気はある?」
統風は焦らないよう、ゆっくりと聞いた。
少しの逡巡ののち、詩乃は言った。
「やってみたいと思っています。でも、私……以前、コンクールで弾けなくなってから、演奏中に弾けなくなることがあるんです。そんな私でもいいのでしょうか」
それを聞いた統風は、やさしく微笑んで、答えた。
「事情はわかったわ。でも、あなたは音楽をやりたい。続けたい、でしょ?」
その言葉に、詩乃は大きく頷く。
「もちろん、続けたい。やめたくないんです」
「じゃあ、問題ないわ。マリンバはピアノと違って慣れるまで練習が必要なところもあるけど……あなたにやってもらうポジション、『フロントピット』っていうんだけど、演奏する楽曲に、ハーモニーと、管楽器とともに豊かな旋律を作り上げる大事な役目なの。あなたが華やかに、そしてあ美しく、メロディラインに色をつけるのよ? 楽しそうでしょ?」
詩乃は、あの舞台から止まっていた自分が、再び動き出そうとしていることが嬉しかった。
一歩、また一歩。
その先へ向かうことにもう、恐れがなくなっていた。
——私の音が動かすんだ。
このマーチを。
この世界を。
「はい。よろしくお願いします。先輩!」
そして部員は11名になった。




