第13話 救われたステップが、心を開いた日
凛は、今日も部活に向かう。
でもそれはグラウンドのトラックではない、新しい居場所。
綺羅に教わって数日。
まだまだ覚えることや、やらなきゃいけないことばかりだけれど、毎日が楽しくなった。
放課後、部室へ向かう道すがら、校舎の脇で数人の女子が、ダンスステップの練習をしているのを見かけた。
最初はそのまま通り過ぎようとしたのだけれど、急に聞こえた声に立ち止まる。
どうやら、何かもめている、いや、一方的に言われている少女が気になった。
* * *
4月半ばの東京、放課後の校舎裏。
空は春特有の薄い群青色に染まり始め、高い場所から吹き下ろす風が、校舎の隙間を抜けてひんやりと肌を撫でていく。
アスファルトの上には、どこから飛んできたのか、枯れた桜の花びらが数枚、春の残骸のように散らばっていた。
部室代わりの校舎の脇で、ダンス同好会の8人が思い思いに身体を動かしていた。
持ち込まれたポータブルスピーカーからは低音の効いたビートが鳴り響き、その振動がコンクリートの壁を伝って地面を小刻みに揺らしていた。
そんな中で、同好会のメンバーたちは春の陽気に浮き立つように、わざとリズムを崩したり、楽しげに笑いながら肩を揺らしたりして、音楽そのものに身を委ねている。
その中に混ざるひとりの少女の動きだけが、明らかに異質だった。彼女のステップは、まるで精密な振り子のように整っている。
膝の柔らかなクッション、
上半身の静かな固定、
そして何より、地面を捉える足裏の重心がびくりとも揺れない。
他のメンバーが音楽という「海」を自由に泳いでいるのに対し、茉莉は音楽という断片を拾い集め、完璧な位置に配置する作業を繰り返しているように見えた。
「茉莉、また動きが固いよ。もっと崩して、もっと音を感じて、自由に遊んでいいんだってば」
3年生の先輩が、前髪をかき上げながら苦笑い混じりに声をかける。
茉莉と呼ばれた少女は動きを止め、「すみません」と小さく頭を下げた。
彼女の視線は無意識のうちに周囲の動きを追いかけている。誰かが右手を挙げれば、その肘の角度をミリ単位で脳内でコピーし、自分の身体をそこへ当てはめる。
彼女にとってのダンスは、空間の中に完成図を正しく描き出すことだった。しかし、今のチームにそんな基準はなく、あるのは個々が勝手に膨らませる熱気と、リズムの断片だけだった。
「もっとさ、自分を出すっていうか。茉莉のダンスって真面目すぎて、逆に浮いてるんだよね」
先輩の何気ない言葉が、春の冷たい風に乗って茉莉の胸に棘のように突き刺さる。
彼女は自分の靴底を見つめる。つま先が擦り切れた靴で、自分なりに誰よりも正確にステップを踏んでいるはずなのに、その「正確さ」がここでは異物として扱われていた。
再びビートが強まると、彼女は唇を噛み締め、意図的に膝の力を抜いて重心を数センチだけ傾けてみる。けれど、彼女の身体は拒絶するように、すぐに本来の「正しい」位置へと戻ってしまう。
校舎の影が、アスファルトの上に長く、黒い絨毯のように伸びていく。
西日が彼女の輪郭を鋭く切り取り、周囲のメンバーの影が自由に揺れる中で、茉莉の影だけが、誰よりも正しく、そして誰よりもひっそりとアスファルトを蹴り続けている。
「どうし;て、みんなみたいに踊れないんだろう」。
そう自問しても、彼女の足裏は音の拍子を正確に刻むことをやめられない。
その狂いのない正確さが、夕暮れの光の中で、誰よりも美しく、そして切なく浮かび上がっていた。
私は、どうしたらいいのだろう。
* * *
凛には、ダンスの良し悪しはわからない。
でも、茉莉と呼ばれていたその少女のステップは、長距離ランナーだった自分の視点から見ても、正確で重心がブレずに安定して見えた。
それだと、ダメだと言われているところをみると、ダンス向きではないのだろうか。よくわからない。
数分で、休憩に入ってしまったので、動きが見えたのはほんのわずかだったが。
ちょっと気になったので、あとで綺羅に聞いてみようと思い、部室へ向かう足取りを再開した。
もしかしたら、正確なステップって、マーチング向きなのかも、とも考えながら。
* * *
凛が部室に入ると、各々が準備に余念がなかった。
綺羅がストレッチ、統風がスネアのストラップを調整をしているところだった。
「きーちゃん、ちょっと聞いてもいい?」
凛の声に、綺羅が顔を上げる。
「どうしたの、凛ちゃん」
「さっき、校舎の脇でダンス同好会の子たちが練習しててさ、その中に気になる子がいたの」
「気になる子?」
「うん。みんな自由に振り付けしてステップ踏んでるんだけどさ、その子だけ、機械みたいにテンポが一定なの。重心も全然ブレなくて」
ストラップを掴んでいた、統風の手が止まる。
「テンポが一定で、重心がブレてない動き?」
「うん。なんか、きーちゃんやトモちゃんたちの動きに近い感じがしたの」
綺羅と統風が、同時に視線を交わす。
「気になるでしょ?」と凛がとどめをさす。「練習始める前に、ちょっと見に行ってみようよ」
ふたりは頷いて、凛と三人でダンス同好会の様子を見に行くことにした。
* * *
放課後の校舎裏、コンクリートの照り返しが弱まり、地面に長い影が伸びる。
春の冷たい空気が、ダンス同好会の8人の熱気に混じり合っていた。
いつもなら思い思いに身体を揺らし、音楽という海を漂うように踊るメンバーたち。しかし今は、茉莉を中心に、その空気が張り詰めた糸のように引き締まっていた。
「いくよ、せーの」
リーダーの子が小さく合図を出すと、8人の靴底が同時にアスファルトを噛んだ。
「イチ、ニ、イチ、ニ」
先ほどまでの個々が楽しむだけのステップが、嘘のように一斉に重なる。コンクリートを叩く音がバラバラに散らばることなく、ひとつの巨大な拍動となって校舎の壁を震わせた。ジャッ、という鋭い摩擦音。
茉莉の重心は寸分の狂いもなく中央に据えられ、彼女が地面を蹴る一歩一歩が、全員にとっての絶対的な「メトロノーム」として機能していた。
これまでの練習では、茉莉の正確さは「真面目すぎる」「遊びがない」と疎まれる対象でしかなかった。
けれど、全員が同じ軌道で腕を振り、同じ拍で静止するこの瞬間、その「正確さ」は圧倒的な美しさに変わっていた。個々の個性がぶつかり合うのではなく、茉莉が差し出した完璧な軸の上で、8人の身体が波紋のように連動する。
静止した瞬間、空気が一瞬だけ凍りつくような緊張が走る。その直後、次のビートが鳴ると同時に、8人が一斉に逆方向へと重心を移動させる。その運動の爆発力は、ただの「揃える練習」を超え、ひとつの意志を持った巨大な生き物のように見える。
「……すごい」
誰かが息を呑む声が、重なる足音の中に溶けていく。バラバラだったリズムが、茉莉という確かな核を得て、力強いひとつの流れとなって校舎の脇を駆け抜けていく。夕闇が濃くなる中、アスファルトの上に重なる8つの影が、まるで一本の太い線のように重なり、そしてまた離れる。
茉莉の額には薄っすらと汗が滲み、呼吸は少し荒い。けれど、彼女の表情はこれまでになく晴れやかだった。自分の持っていた「正確さ」という武器が、周囲の動きを殺すのではなく、全員をより高く跳ねさせるための「土台」になっていたからだ。彼女のステップは、もう迷いなく、明日への軌道を描き出していた。
* * *
「凛ちゃんが気になった子って、どの子?」と、遠目にダンス同好会の練習を見つめながら、綺羅が尋ねた。
「えっと、白いTシャツに、黒いパンツ、横に白いラインが入っている、真ん中で踊っている子」
遠目からみても、ステップを踏む彼女は、テンポが乱れずに、上体もブレない。綺麗なダンスをしていた。
気が付くと、結構近づいて、彼女の舞う姿をみつめていた。
「......すごい」と、統風の口から感想が漏れる。
「確かに。正確にでも綺麗にステップ踏んでるね」と綺羅。
「でしょ? なんとなく、マーチングに向いてそうだなって」
確かに、凛の言う通りかもしれない。あのステップは、向いているかも。
統風と綺羅もそのとき、そう感じていた。
* * *
茉莉は、今日も放課後の同好会の練習のあと、自主練に励んでいた。
最寄り駅の近くの商業施設は、1階の通りに面した壁面がミラーコーティングされていて、ダンスの振付やステップを確認するのに重宝した。
一度家に帰ってから、そっと抜け出しての練習。
それでも、最近は自信がなくなっていた。
毎日、どれだけ練習しても、仲間が求める動きができていないんじゃないか。
練習すればするほど、不安でしょうがなかった。
考え事をしながら、踊っていたせいで、集中が途切れ、あっと気づいた時には、地面に倒れていた。
ぶつけた膝が痛む。
その時、一気に抑えていた感情が、あふれ出た。
そんな不安を断ち切ろうと、焦っても、何も変わらなかった。
本当に苦しくて、切なくて、悲しかった。
膝を抱えて、涙を流した。
涙が溢れて、止まらなかった。
* * *
凜は陸上部にいた頃より、放課後に練習に費やす時間が圧倒的に増えていた。
今日も、綺羅に実演をしてもらいながら遅くまで、自分のポジションに見合う動きができるよう、できることをやっていた。
今日は特に遅くなって、すっかり周りは暗くなっていた。
最寄り駅で降りて、とある商業施設の近くを通ろうとしたとき、すすり泣く声が聞こえた。街灯が照らすなか、建物の壁に背を向け、膝を抱えて泣いている女の子が目に入る。
驚かさないよう、そっと近づいて声を掛けた。
「大丈夫? どこか具合でも悪いの?」
なるべく優しい声で話しかけた。
声をかけられたそう少女は、そこでピタっと泣き止んで、顔を上げる。
どこかでみたことがある、そんな感じがした。
「ごめんね、びっくりしたよね......あ、ケガしてるじゃない!」
凛は少女の膝が擦り剝けているのを見つけて、声をあげた。
「だ、大丈夫です」と、少女が言いかけたが、凛はそれを遮るように、声をかける。
「だめよ。ちゃんと傷口を手当しないと、たしか近くに公園があったよね。立てる?」
「はい、なんとか」
そのあたりにおいてあった彼女の荷物もまとめて、肩を貸しながら公園まで連れていく。
「す、すみません......通りすがりにこんなことまで」
「いいわよ、気にしないで」
そう言って、公園の水飲み場に連れていき、傷口を洗った。
「しみるけど、我慢してね」
傷口をすすいでから、近くのベンチに座らせると、膝にそっとハンカチをあてて、テーピングした。陸上部のときの備品が役に立った。
「よし。これで応急処置は終わったわよ」
「ありがとうございます。あの......」
ちょうどそのタイミングで、凛は彼女を見た時の違和感の原因に思い当たった。
「あなた、うちの学校のダンス同好会の人よね? 私は、朝霧 凛。あなたは?」
「久我 茉莉です」
「今日もね、あなたが踊っているところを見かけたの。すごくステップが綺麗な人だなって。私はダンスじゃなくて、マーチングバンドを始めたんだけど、まだまだステップがね。うまくできなくて羨ましいわ」
「私、そんなに上手じゃないですよ......」
茉莉は、いつも自分が抱えている悩みを打ち明けた。
凛も、自分が陸上競技を続ける上で抱えていた悩みと重なって、茉莉の境遇がよくわかる気がした。
「じゃあ、どうかな。明日、うちの同好会、見に来ない? うちの部長と副部長にあなたのダンス、見てもらえばきっとわかるわ」
「でも、私なんか......」
「一度でいいから、ね?」
凛の強引な誘いに、今日の顛末からも断り切れず、茉莉は明日の放課後、マーチングバンド同好会に顔を出す約束をしてしまった。
遅くならないうちにと、その場で約束を交わし、二人は別れた。
茉莉は、なぜだかさきほどまでの辛さが少し、和らいだ気がしていた。
けがをした左足をかばいながら、家路についた。
* * *
翌日の放課後、指定された場所に茉莉が向かうと、一人の女子が、大きな旗を振りながら舞っていた。綺羅だった。
ある意味、自分の動きの理想形がそこにあったのだ。しばらく、声をかけるのも忘れて、見惚れて、立ち尽くしていた。
「すごいでしょ? 彼女の演技」
急に後ろから話しかけれて、茉莉は現実世界に引き戻されたような感覚を持った。まさに綺羅の演技に吞まれていたようだった。
「びっくりした......ええ。確かに。すごいわ」
「じゃあ、あなたも一緒にやってみる?」
そう言って、フラッグを持って統風が続く。
「ねぇ、きーちゃん、ちょっとこっちに来て」
綺羅は慣れた手つきでフラッグを手に取ると、「いくよ」と茉莉に目配せをした。
スピーカーから流れる音、ドラムのビートが刻まれると同時に、綺羅の身体がしなやかに沈み込む。
重心を低く保ったまま、まるで空間を滑るようなジャズランで加速。次の瞬間、彼女の手から放たれたフラッグが、黄金色の空を切り裂いて巨大な弧を描いた。その流麗な動きに、茉莉は一瞬目を奪われる。
「次はあなたの番よ!」
綺羅の掛け声に、茉莉は意を決してフラッグを握った。マーチングは未経験だが、彼女には長年培ったダンスの「軸」があった。
綺羅の動きを脳裏に浮かべコピーし、動きをトレースしていく。
茉莉は地面を力強く蹴り出した。
安定した重心から繰り出されるジャズランは、驚くほど滑らかで力強い。
空中へと放たれたフラッグは、綺羅のような優雅さには欠け控えめだったが、初めてとは思えないほどの軌道を描いて舞っていた。
春の和らかな日差しの中で、二人のフラッグが美しく交差する。茉莉は、自分の身体が奏でる新しいリズムに、心臓が高鳴るのを感じていた。
しばらく二人でフラッグを振りながら、体を動かしていた茉莉は、途中で声を出して笑っていた。楽しくてしょうがなかった。やめられなかった。
数分があっという間に過ぎ去り、示し合わせたわけではないが、演技が終わる。
初めてやったこの動作が、とても、忘れられない記憶となって刻まれた。
深く息を吐く。こんなに清々しい気持ちになったのはいつ以来だろう。
「あなた、本当に初めて? とてもそんな感じじゃない」
綺羅は正直な感想を言った。
「実際やってみてどうだった?」と続けて統風が尋ねる。
茉莉は空を一瞬見上げて、まぶしそうに眼を細めてから、統風に視線を戻す。
「私、マーチングやってみたい。やってみてわかった。こんなに楽しいのは久しぶり」
「歓迎するわ、私は部長の音羽、音羽 統風。一緒に演技したのは、同じく2年で副部長の環奈崎 綺羅ね」
綺羅がこくりと頷く。
「私は、2年の久我 茉莉です。よろしく」
「ほら、言ったでしょ。大丈夫だって」
凛のその言葉に、満面の笑みで茉莉は応えた。
そして、部員は9名になった。




