第12話 宙に舞う、色の軌跡
里桜は放課後、お腹がすいていた。
1限2限と朝から体育で体力測定だといわんばかりにグラウンドをぐるぐる走らされ、何か食べる暇もなく移動教室で視聴覚室、化学室と自分の教室を行き来して、お昼。
やっとお弁当をと、思って机の横のフックをみたとき、学校指定の鞄だけがぶら下がっている恐怖体験をしたばかり。
最悪だった。お弁当をお家に忘れてきたのだった。
一瞬、倒れそうになる里桜をクラスメイトが介抱して、皆のお弁当から少しずつ、おかずなどのカンパを受けて、お昼は凌いだ。
でも、それでは里桜の欲求はみたされていなかった。
いちおう、売店ものぞいたけれど、すでに争奪戦のあと、めぼしいものは残っていなくて、パンも買いそびれた。
売店のおばさんが、それを不憫に思って、おまけでくれたラスク(食パンの耳で作ったサービス品)は、おいしくいただいけど。足りなかった。
5限、6限を数学などので頭を使い、もうふらふらだった。
放課後の今は本校舎にお使いに来ている、里桜だった。
用事を済ませたところで、ふと掲示板に目が止まった。
そこには、今にもおいしそうなスパイスの香りが立ち込めてきそうなくらいの、「美味しそうなカレーの絵」があった。正確には、家庭科部の勧誘ポスターだった。
吸い寄せられるように、ポスターに近づく里桜。止める者は誰もいなかった。
「このカレーは、すごい良い香りが『見え』ますぅ」
それは、空腹が見せた幻なのか。
香り立つカレーの絵がそこにあった。
静止画なのに、香りや湯気が揺らいで見えた。色彩の軌跡として。
ポスターの端に、「制作:美術部/1年 桐島 萌」の文字があることは、このときまだ、里桜は気づかなかった。
* * *
しばらく、カレーの香りに惑わされていた里桜だったが、ちょうど帰宅するクラスメイトに声をかけれれて、意識が戻ってきた。
軽く両頬を叩いて、リセットすると、部室への帰ろうと、また歩き出した。
3階に下り、4階と同じ階段前に設置されている掲示板へ近づくと、そこには肉汁がしたたる断面とそこから鼻孔を刺激する美味しそうな湯気が立ち込めていた、いや、ポスターがあった。
「これまた、肉汁がイイ感じで滴る、美味しそうなハンバーグですぅ」
これまたしばらく魅了されていた里桜は、ふたたび別のクラスメイトから「里桜ちゃん、またね!」と声をかけられて、ハッと意識が戻る。
これを1階に至るまで繰り返し、今また玄関フロアの掲示板に貼られた「豚汁」のポスターに囚われていた。
ふと、我に返って、しげしげとポスターをみていた里桜は、ポスターの端に、控えめに「制作:美術部」の文字を発見した。
そして続けて、「1年 桐島 萌」の名前も。
そういえば、今日の体育で、ひとりもくもくと走っていた子がいて、胸に「桐島」とあったことを思い出す。隣のクラスだった。
「この人の絵は、『見えないもの』を描くのが上手ですぅ」
それが、複数のポスターを見て、里桜が感じたことだった。
* * *
その頃。
部室では、なかなか戻ってこない里桜を、心配していた。
「里桜ちゃん、なかなか戻ってこないわね」
綺羅が、ストレッチをしながら、呟いた。
「また、どっかで寄り道してるんじゃ......」と颯汰。
「あり得る。里桜ちゃんは、寄り道してるつもりがなくても、結局、寄り道になっちゃう子だもんね」
「もう! 私、心配だから、迎えに行ってくる」
そう言って、綺羅は部室を飛び出して言った。
「あちゃあ、きーちゃん怒っちゃったかな」
「大丈夫だよ、気にしてないさ」
そうだよね。きーちゃんは、ただ心配だったんだよね。統風はそんな綺羅が好きだった。
* * *
綺羅が、玄関まで来た道すがら、いちおう里桜の姿を探してきたが、すれ違わなかった。
まだ校舎の中にいるのかと、玄関に入り、上履きに履き替えたところで、掲示板の前で1枚のポスターを見上げて固まっている、里桜を見つけた。
声をかけようとしたが、なぜか躊躇われた。
そっと近づいて様子を窺う。
里桜はこの前の油淋鶏のくだりのごとく、恍惚とした表情で、口の端からヨダレが落ちそうになっていた。
「里桜ちゃん?」
顔を覗き込むようにして、そっと声をかけた。
あれ? 反応がない。
もう一度、声をかけた。少し大きめに。
「り、里桜ちゃん?」
瞳の焦点が戻り、まばたきをぱちぱちとして、里桜が声の主を認識した。
「あれ? 綺羅せんぱい。どうしたんですか」
「どうしたんですか、じゃないわよ。なかなか戻ってこないから、心配してたの。ほら、口元を拭いて」
そう言いながら、ハンカチで里桜の口元を拭った。
「すみません。ご心配をおかけしました」
「無事ならよかった。帰りましょうか」
「はい! 今日も綺羅せんぱいはいい香りがしますぅ。大好きです」
里桜は、綺羅の腕にしがみつく。
「もう、ほら、くっつかないの」
「へへっ」
そう照れながら、自分の下駄箱へ駆けていく里桜。
外履きに履き替えて、二人は並んで部室へ向かう。
「さっきは、何をしていたの?」
綺羅は里桜にそう尋ねた。
「家庭科部の勧誘ポスターを見てました。すごく美味しそうなハンバーグの絵。焦げ茶色のデミグラスソースがたっぷりとかかっていて、深い光沢を放ってとろりとして、まるでいま溶け出したかのような質感で、肉の表面に絡みついているんですよぅ。そして何より、その断面。ナイフが入れられたその瞬間を捉えたかのような描写。その内側から、透明で黄金色の肉汁が、溢れんばかりに滴り落ちて、デミグラスソースの海へと流れ出た。その一滴が、今にも紙の上から......」
里桜は、部室に着くまで延々と、語っていた。
要約すると、「見えないもの」を描く力がすごい「絵」だったということらしい。
* * *
部室に戻ると、各々が練習メニューをこなしている中で、統風と颯汰が出迎えた。
「お、見つかったか。無事に」
颯汰が、里桜に飴玉を渡していた。どうやらお駄賃替わりらしい。
「おかえり、里桜ちゃん。一体、何をしていたの?」
統風は責める風ではなく、やさしく里桜の目線にあわせて屈み、頭をやさしくなでて、尋ねた。
「あ、あの。すごいポスターがあったんですぅ」
今度は、最初の「カレー」「豚汁」「肉じゃが」エトセトラ、そして「ハンバーグ」に至る長編の「里桜劇場」を聞かされた。
要するに、「見えないもの」を描くのが「上手な子」がいたということらしい。
空気を描く。
空中に描く。
見えない軌跡を、見える軌跡に。
統風はすごくその絵に興味を持った。
「ねぇ。ちょっと見に行ってみない? そのポスター」
そうして、練習組を残して、統風、綺羅とマネージャの二人は、校舎に向かった。
* * *
玄関ホールの掲示板で、「これですぅ!」と紹介されたポスターを、5人は眺めていた。
「確かに、今にも匂って来そうな、絵ね」
存在感が半端なく、今にも湯気が立ち、匂いがしてきそうなくらいの迫力を持っていた。
これと同じ感触を持つ絵が、あと4枚あることになる。
人一倍、食に対しての感受性が高い、里桜ちゃんが食いつくのも、理解できた。
そんな里桜でなくとも、この絵の持つ、独特の魅力、空気感を描くその力は本物だと思った。
湯気や匂い、その揺らぎや、見えないものを感じさせる画力。
一度会ってみたくなった。
* * *
桐島 萌は悩んでいた。
もうかれこれ、3ヶ月ほど、自身が納得の行く仕上がりで絵が描けていなかった。
作品としてキャンバスに向かおうとすると、筆が止まってしまい、描けなかった。
先輩や仲間たちは、一時のことだから、気にするなというけれど、私はこの状態が非常に怖かった。いつか描けなくなるんじゃないかという恐怖がじわじわと心を侵していた。
そんな折、部長が「気分転換になれば」と、ほかの部からの依頼を私のところに持ってきた。家庭科部の部員勧誘のためのポスターを5枚ほど書いてほしいとのことだった。
題材もある程度、要望としてあがっているものだった。1週間でというのは少々、時間がなかったが、やり切った。特に問題なく描けた、気がする。
出来も、そう悪くはなく、先方の感触もよかった。
「描けたじゃないか、大丈夫だよ。お前は」
部長がそう言っていた。
でも、やっぱり私は今日もキャンバスの前で、ひとつの線も描けずに固まっていた。
それが、一番悔しかった。
* * *
統風たちは、戻ると練習を再開した。
準備運動が終わった凛を、誘い、部室の前の広場で綺羅はフラッグを使ってカラーガードのデモを見せることになった。
「まずは、私が通しでやってみるね」
綺羅はそう言って、目を閉じて集中した。見ている凛もなんだかその緊張が伝わって背筋が伸びる。トラックでスタートラインに立った時のよう。
風を感じて、フラッグと会話するように舞う。
昔、先輩にそう教えてもらったことを思い出す。春の夕暮れ時の空気がピンと張り詰めた。
校舎に囲まれた四角い中庭のようなこの広場に、ふわりと心地よい4月の風が吹き抜ける。
演技が始まると同時に、綺羅のつま先から真っ直ぐに伸びた背筋が、日常の風景をドラマチックな舞台へと一変させた。
軽快なミディアムテンポの音楽に合わせて、鮮やかなロイヤルブルーのシルクが宙を舞う。空気を切り裂くような「シャッ、シャッ」という布の擦れる音が、夕暮れの広場にリズミカルに響きわたる。
くるくると手元で回転するフラッグは、夕陽を反射してきらきらと光の輪を描き、綺羅の指先から腕、そしてポールへと、まるで一つの生き物のように滑らかに力が伝わっていく。
2分が経過し、曲調が少しドラマチックなスローテンポへと移り変わる。青かったフラッグの軌跡は、ふわりと広がることで、夕陽に染まるオレンジ色と溶け合いながらグラデーションを描き出した。「ディープ・ドロップ」で膝を深く落とし、布地を地面スレスレで大きく広げるその刹那、広場を覆うようにふわりと舞うシルクの陰影が、夕暮れの斜光に照らされて地面に長い影を落とす。
見とれている凛の頬を、かすかに冷たくなった夕方の春風がなでていく。
3分を過ぎ、クライマックスへ向けて力強いブラスバンドの音が響き渡ると、綺羅のその動きは加速度的にさらにダイナミックになった。
空高く放り投げられるトス。くるくると回転しながら空中でピークに達した瞬間、フラッグの先端のゴールドのテープが、4月の青空の残滓に一瞬だけキラリと眩い閃光を放つ。
「ふっ!」という小さな、しかし”凛とした”息吹とともに、放たれたフラッグが綺羅の両手に図ったようにピタリと収まった。
その瞬間、校舎の窓ガラスが夕陽を反射し、まるで彼女の演技を祝福する無数のライトのように輝きを増した。
ラスト1分。
静寂と躍動が交差する中、ゆっくりと、しかし力強くステップを踏みながらポーズを決める。空に向かって真っ直ぐに突き立てられたフラッグが、夕闇が迫る紫色の空をバックに美しいシルエットを浮かび上がらせた。
残響音が広場に吸い込まれるのと同時に、演技を終えた綺羅は静かに、そして誇らしげに微笑んだ。
「……こんな感じ。最初はうまくできなくて当たり前だから。まずはこの春の風と一緒に、あの空に向かって大きく布を広げてみようか」
そう言って綺羅がふっと息を吐き出すと、春の夕暮れの匂いが鼻腔をくすぐった。
5分間の夢のような時間が終わり、凛の胸には「自分もあんな風に輝きたい」という憧れが、ポツリと小さな火を灯していた。
* * *
萌は今日も、美術室に足を運び、キャンバスに向かったが、放課後の数時間が無駄に流れただけだった。
ひと筆も先に進まない自分に嫌気がさす。
そんな自己嫌悪の気持ちが湧き上がることが、どうにもできなくて、気分転換に部室を飛び出し、気が付くと屋上に出ていた。
もう、かれこれ3ヶ月だ。
キャンバスに向かっても、なにも浮かばない。
なにも、思いつかない。
なにも、イメージできない。
なにも、描けない。
なにも。
なにも......。
描けない苦しさと、描きたい衝動が、胸の奥でせめぎあい、ぶつかり合っていた。
そんな折、小さいがリズムに乗った音楽と、何か布が宙を割くような音が聞こえてきた。
気になって、音の聞こえる、ちょうど校舎にコの字に囲まれた広場に、ふたりの女子生徒が体操着でいた。
一人の生徒がフラッグ? 柄の長い旗を、華麗に舞いながら、もう一人の生徒に見せているようだった。
その演技を見た途端、心がギュッと掴まれた気がした。
フラッグの描くその軌跡。そう、宙をキャンバスにみたてたとき、フラッグは筆。
宙にえがかれるその止まらない不規則な軌跡に、萌の気持ちは囚われ、目が離せなかった。
夕暮れが近づく斜陽の光の中で、一番の輝きを放つ空中の軌跡は、深く、より深層の意識に刻まれていった。
* * *
家に帰ってから、なぜだかそわそわして、いてもたってもいられずに、棚からクロッキー帳を引き出した。
濃い色の鉛筆を掴む。そして瞳を閉じて、深呼吸を繰り返す。
先ほど見た、あのフラッグの軌跡を思い返す。その軌跡を。
目を開いたとき、目の前にあるその白磁の面に、黒い軌跡が幾度となく重なって描かれていった。
今までのスランプが嘘のように、何本も、何枚も。
時間を忘れて描き続けた。
久々だった。
朝まで、それは続いた。
でも、萌は疲れよりも、達成感が上回り、ただ嬉しかった。
* * *
身支度を整え、襲ってくる眠気と闘いながら、萌は学校に行った。
でも、午前中から午後の授業は、却ってそわそわした気持ちに支配され、眠気よりもほかに意識が向いていた。
そう、昨日屋上で見た、あの演技。
宙を舞う、あの軌跡。
もっと近くで、見てみたい。
もっと、リアルで描いてみたい。
その誘惑に、今の萌は支配され、逃れられなかった。
放課後、教室を飛び出した萌は、美術室でスケッチに必要な最低限の道具を持って、あの広場に向かった。
* * *
広場では、昨日と同じ女子生徒が、フラッグの演技指導をもうひとりの女子生徒にしているところだった。
実演をしている姿がより近くで見え、萌の創作意欲をこれでもかと刺激した。
汚れるのも気にせず、制服のスカートのまま、地べたに体育座りして、スケッチブックを開く。
そこで、その華麗に舞う姿をしばし、スケッチの紙に描き続けた。
しばらくして、背後に気配があって、顔をスケッチブックから離したとき、真横に女子生徒が絵を覗き込んでいた。
「ひっ」
びっくりして声がでる。
「あ、この絵、ハンバーグの人ですぅ!」
そこには、里桜が立っていた。
「あの、家庭科部のポスター書いてた人ですよね? 紹介したい人がいるんですぅ。こっちに来てください」
「え? あの、ちょっと、待って......」
抵抗むなしく、こんな小さな体に、なんて力があるんだといわんばかりに、部室へと、萌は引きずられて連れていかれた。
* * *
「すみません、勝手に。すごくあのフラッグの演技が綺麗だったもので、つい」
申し訳なさそうに、部室で、マーチングバンド同好会の面々に囲まれて、萌は白状した。
「いいのよ、気にしないで。私は、副部長、2年の環奈崎です。で、こちらが......」と綺羅が、統風を呼ぶ。
「私が部長の音羽。音羽統風です。よろしくね」
「はい。私は1年の桐島萌です。あ、あの。私も環奈崎先輩みたいに、宙に軌跡を描いてみたいんです。私でもできますか?」
同好会の一同は、一瞬顔を見合わせて、そして萌に向かって笑顔を向ける。
「もちろん、できるよ。やってみたい?」
「あ、でも美術部も辞めたくないので、兼部でよければですけど」
「これから、よろしくね、萌ちゃん」と、里桜が手を握る。
春の日差しが心地よい4月の半ば。
そして部員は8名になった。




