第10話 音楽準備室の隅と屋上で
翌日、ふたたび部室の引っ越しの準備をしていたときに、ふと綺羅が気になることを言っていた。
最近、屋上からトランペットの音が聞こえるそうだ。
最初は吹奏楽部のパート練習だろうと思っていたのだけれど、離れたところから別の音、それもある程度まとまった音で聞こえるところを見ると、どうもソロ練のようだった。
でも、昼過ぎから小雨が降っているし、今日は練習は休みだねって言っていた矢先、迫力のある通る音が聞こえてきた。まさに噂のトランペッター登場だった。
統風と綺羅は、まさかねと顔を見合わせつつも、ちょっと気になった。
「屋上、覗いてみる?」と綺羅が言うと、統風は二つ返事で屋上行きが決まった。
里桜と颯汰にちょっと席を外すと言い残し、ふたりは屋上に向かった。
* * *
灰色の雲が低く垂れ込める放課後、遮るもののない校舎の屋上は、容赦のない小雨に濡れていた。
フェンスの向こうに広がる街並みは煙るように霞んでいる。錆びついた扉の脇に、濡れるのも構わず立てかけられた黒いハードケース。その傍らで、少女はただ一人、灰色の世界に向かって銀色のトランペットを突き出していた。
制服の襟元から、冷たい雫が背中へと伝う。けれど彼女は身震いひとつせず、ただ冷え切ったマウスピースを、小さく震える唇に押し当てた。
放たれた一音は、小雨の障壁を鋭く切り裂き、どこまでも真っ直ぐに伸びていく。
淀みのない跳躍、寸分の狂いもない正確なピッチ、そして霧を払うような圧倒的な音圧。曇天の空へ吸い込まれていくその音色は、彼女が積み上げてきた圧倒的な技術と、他の者を寄せ付けない、遥か洗練された「上級者」としての誇りに満ちていた。
でも、その磨き抜かれた音が、今の彼女から居場所を奪った。
『お願いだから、もうすこし周りと音色を揃えて。あなたの音、一人だけ目立ちすぎて浮いてるの。パートのバランスを壊さないで』
放課後の音楽室で、パートリーダーから向けられた拒絶の視線と、低く抑えられた非難の声。
周囲の未熟さに合わせて、自分の音を濁らせ、殺すことが「調和」だというのなら、そんなものに何の意味があるのだろう。妥協を許さない彼女の正論は、いつしか部内での孤立を生み、気づけばあの息苦しい部屋には一歩もいられなくなっていた。
* * *
統風と、綺羅は、そっと音を立てないように屋上への扉の前に歩いていく。
「ね? トランペットの音、聞こえるでしょ?」と綺羅。
「でもさ、今日、小雨だけど雨降ってるのよ? なんで室内で練習しないのかなぁ」
統風の疑問も当然だった。
晴れやくもりの日であれば、吹奏楽部や合唱部は、いろんな場所に分かれて、パート練習をしている姿をよくみかける。
でも、さすがに小雨だとは言え、雨の降りしきる中で楽器を鳴らすというのは、少し気になった。いや、すごく気になった。
「なにか、事情があるのかな……」という綺羅のつぶやきに、統風は頷く。
「そうね。ちょっと様子をみましょう」
ふたりは、屋上を後にして、引っ越しの作業に戻った。
背後では、相変わらず、トランペットの音色が悲しく響いていた。
* * *
明くる日は、昨日と打って変わって春らしいすっきりとした空だった。
今日、明日で旧部室とはお別れ。
あのプレハブ小屋の倉庫が、新部室にとって代わる。ちょっと寂しさもあるけれど、ちょっとしたワクワク感もあって、複雑な思いを統風は抱えていた。
あらかた大きな荷物は運び終え、掃き掃除をしていたとき、また屋上の方から、トランペットの音が聞こえてきた。
また、綺羅とふたり、屋上に様子をみに行ってみると、昨日と同じ子が、またソロ練をしていた。
響き渡る音の圧はいままでふたりが聞いたことのある音とは一線を画し、強い印象が残る。
でも、その音色はちょっとだけ、寂しそうだった。
* * *
翌日、音楽準備室の前を荷物を運びながら通ったとき、部屋の中から、トランペットの音が聞こえてきた。
綺羅は、荷物を廊下の端にそっと置いて、静かに扉のそばに近づいた。
採光用の細い窓から、中の様子を窺う。そこにいたのは、昨日屋上で見かけたあの子だった。
夕方の音楽準備室に、傾いた西日が差し込んでいた。
* * *
机と楽器機材を端に寄せただけの狭い空間で、瀬尾千景は愛用のトランペットを構えた。
何年も共にしてきた真鍮の肌は、私の手のひらにすっかり馴染んでいる。初心者だった頃の、楽器の重さに振り回されていた私はもういない。今の私は、この管にどう息を吹き込めばどんな音が出るか、そのすべてを知っている――はずだった。
「よし、始めよう」小さく呟き、壁のメトロノームのスイッチを入れる。
テンポ60。規則正しい電子音が刻まれ始める。
まずは、すべての土台となるブレスコントロール。
楽器を置き、背筋を伸ばして深く息を吸い込む。4拍かけてお腹の底まで空気を満たし、4拍かけてまっすぐ吐き出す。肺が広がり、体の中の余計な力みが抜けていく。
次にマウスピースを抜き、唇に当てた。バズィングだ。「――プー――」ピアノの音量で、真ん中のソの音を鳴らす。そこから滑らかに音程を上下させる。唇の振動が直接指先に伝わり、今日のコンディションが測られていく。よし、悪くない。
マウスピースを楽器に戻し、いよいよ本番のロングトーンに移る。チューニングのB♭(ド)の指を押し、そっと息を吹き込んだ。「―――ド―――――」メゾフォルテの音量が、音楽室の壁に反射して心地よく響く。音の出だしから終わりまで、一本の細い糸を引くように均一に、まっすぐに。半音ずつ下がり、また上がっていく。地味で、退屈で、けれど絶対に欠かせない、経験者だからこそ知っている一番大切な時間だ。
唇が温まってきたところで、リップスラーへと移行する。ピストンは押さえたまま。息のスピードと唇の絶妙な締め具合だけで、音を跳ね上げる。「ド、ソ、ド、ミ、ソ――」滑らかに、けれど確実に階段を駆け上がるように。アンブシュアがじわりと熱くなる。
仕上げは、スケールとタンギングだ。指板の上で指を正確に走らせながら、舌先で息を鋭く区切る。「トゥ、トゥ、トゥ、トゥ……」シングルから、徐々にスピードを上げてダブルタンギングへ。メトロノームのテンポに寸分の狂いもなく、クリアな粒立ちの音が部屋を満たしていく。
時計を見ると、ちょうど40分が経過していた。額の汗を拭い、トランペットを優しく見つめる。唇には心地よい疲労感。体は完全に目覚めた。基礎という名の牙は、今日も鋭く研ぎ澄まされている。
「……よし」
* * *
一部始終を見つめて、気が付くと綺羅も彼女の吹く音色に引き込まれていた。
急に我に返り、時計をみると30分以上経っていた。
「いけない」たぶん、トモちゃんたちは戻ってこない綺羅を心配しているだろう。
急いで、廊下の端においていた荷物を抱えて、プレハブ小屋へ走って向かっていった。
でも、その足取りは妙に軽く、楽し気だった。
* * *
さらに翌日の月曜日。
旧部室を明け渡し、最後の荷物を運び終えた、統風と綺羅は、屋上でひといきついていた。
屋上への出入り口から、逆方向に進んだところに、いくつかベンチがあって、ちょっとした日よけがかかっている。
「引っ越し終わっちゃったね」
「そうね。でも、新しい部室があるから、いいじゃない」
「でも、プレハブ小屋だけどね」
といって、二人はあははと笑っていた。
その時、屋上への出入り口の付近で、言い争う声が聞こえてきた。
その声から1対複数のやりとりと思われた。複数の声が重なるような、刺々しい言い争い。
統風と綺羅は、同時に顔を上げ、声が聞こえた方をみた。
「……なんか、揉めてる?」と、綺羅が小声で言う。
「うん……しかも、あれ……」
言い争うその様子を見て、統風は眉をひそめた。
それは、聞き覚えのある声が混じっていたからだった。
ここ数日、屋上で聞いた、あの強い音の主——“屋上のトランペットの子” の声だった。
ふたりはそっと立ち上がり、
屋上の出入り口の影に身を寄せて耳を澄ます。
「だから言ってるでしょ! 何度言ったらわかるのよ。あなたの音、強すぎるのよ!」
「パート全体のバランスを考えてって、何度言えば……!」
「合わせる気がないなら、もう来なくていい!」
複数の女子の声が、一方的に、ひとりの子を責め立てていた。
統風たちの胸がざわつく。
(……やっぱり、あの子だ)
綺羅が不安そうに統風の袖をつまむ。
「トモちゃん……どうしよう」
統風はその問いかけにはすぐに答えず、そっと出入り口の影から覗き込んだ。
そこには、やはり、ここ数日見かけた、同じ銀色のトランペットを抱えた少女がいた。
彼女は俯き、唇を噛みしめてジッとその責めに耐えている。
その周りを、吹奏楽部と思われるの数人の面々がとり囲んでいた。
「あなたの音、ひとりだけ浮いてるの。どうして分からないの?」
「強ければいいってもんじゃないのよ」
「ほんと迷惑なんだけど」
「自分は上手だからって、周りを見下してるんでしょ」
少女は何も言わなかった。ただ、拳をぎゅっと握りしめていた。
次の瞬間——
「……もういい」
少女は短くそう言うと、トランペットケースを掴み、屋上から階下へ走り出していった。
吹奏楽部の子たちが驚く間もなく、少女は屋上の反対側へ駆けていく。
「……っ!」と、綺羅が息を呑む。
統風は一瞬だけ目を閉じて、そして——
「きーちゃん、私、ほっとけないよ」
迷いのない声でそう言った。
綺羅が驚くより早く、統風は少女の後を追って走り出していた。
「トモちゃんは、本当にまっすぐだなぁ」と、その背中に綺羅はつぶやいた。
* * *
統風は、階段を数段飛ばしで駆け下りていった。
もう、後ろ姿が見えないから、もしかしたら見失ったかもしれない。ちょっと不安になる。でも、あの子は放っておけない。
そう思いながら、3階から2階への踊り場にさしかかろうとしたとき、そこに、”彼女”はいた。
さきほどの気丈さとは裏腹に、大粒の涙を浮かべ、悔しそうに佇んでいた。
そんな彼女は、統風の存在に気づくと、制服の袖で涙を拭い、恥ずかしそうに視線を逸らす。
「ねぇ。さっき、屋上で揉めてたでしょ? 私、二年の音羽統風。あなたは?」
相手が先輩だと気づいて、少し躊躇いがちに答える。
「あの、一年の 瀬尾 千景です。」
「千景ちゃんか。あのね。よかったら、お話聞かせてくれないかな。部外者の私でよければだけど。それに、そんな顔のまま、出歩けないでしょ?」と言って、「よければうちの部室で、一息ついてからでも、いいと思うし、どう?」
その提案に一瞬ためらいを見せるも、泣き腫らした顔のこともあり、その提案を受け入れ、コクりと頷いた。
「じゃあ、行きましょうか」
統風は、そっと千景の背中に手を添えて、歩き出した。ゆっくりと歩く千景の歩幅に合わせて。
そして、もう片手でスマホのメッセンジャーで、綺羅に「会えたよ。部室で待つ!」とだけ打ち、送っておいた。
* * *
気を利かせた綺羅は、部室への道すがら、飲み物を買ってきてくれていた。
温かいココア。
それを千景に渡し、気持ちが落ち着くのを待った。
数十分は無言の時間が流れたが、千景が少しずつ、ぽつりぽつりと話をしてくれた。それをふたりは変に相槌を打ったりして邪魔をせず、静かに聞いていた。
彼女も中等部からのエスカレーター組で、吹奏楽部は中学から続けていたそうだ。
中学ではパートリーダーを務め、ソロもこなすほど、秀でていたが、高校にあがったときに問題がおきた。
高校メンバーの編成に入る段になり、上級生からいろいろと言われたらしい。それは先ほどのやり取りからも察しがつく。
でも、統風は綺羅から音楽準備室での千景の練習風景をきいていたので、その楽器や演奏に向き合う姿勢は間違えようもなく本物であると信じていた。
千景は、胸の内のもやもやを、吐き出して、落ち着いたのか、すこし表情に余裕がでてきた。
「ちょっと、千景ちゃんにみてもらいたいものがあるの」
「なんですか?」
「あのね。もしあなたが、我慢しないで、今のまま演奏ができる場所があるなら、どうする?」
「私の、いまのまま?」
戸惑いながらも、淡い期待のような光が、瞳に宿る。
「ちょっと、これ見てほしいんだ」と言って、スマホを取り出すと、例のダイジェスト映像を見せた。
「私たち、マーチングバンドをやっているの。そこにあなたのトランペットが加わると、すごく素敵かなって」
「ちょっと、考えさせてくれますか」
千景はそういうと、今日はありがとうございましたと告げ、部室を後にした。
* * *
翌日、綺羅、颯汰や里桜、それに新しく加わった元陸上部の凛の初顔合わせ。
新しく部室となった、ちょっとだけヤレたプレハブ小屋に5人は集まっていた。
軽く自己紹介を終えて、じゃあ、これからどうして行こうかというとき、部室の扉をノックする音が聞こえた。
里桜が、入り口に向かって、扉をあけた。
「先輩、お客様です」
お客様? 誰だろうと、入り口に視線を向けると、そこに立っていたのは、千景だった。
「あの、ほんとうに、ここでなら、私は、私のままでいていいんでしょうか」
そう、告げた千景の声はほんの少し震えていて、トランペットのケースの取っ手を掴む手には、必要以上に力が入っている気がした。
一瞬の間があり、パッと統風と綺羅の顔が明るく輝く。
「もちろん、いいよね。トモちゃん」
「うん。千景ちゃんは千景ちゃんらしくしてくれていいのよ」
千景は思う。
統風の自分らしくしていいというその言葉——それは、今までずっと心の中で、待ち望んでいた言葉だった。
私は、私自身の音を嫌いになりたくなかった。
誰かに合わせるために、濁る音、死んだ音。
正しい筈の音が崩れ、壊れ、残骸のように転がる音。
そんな音を奏でるたび、胸の奥が軋んで苦しくなった。
私は、自分の音楽を否定したくない。
否定されるのが怖かった。
それが苦しくて、すごく、すごく怖かった。
音楽室のパート練習で、私の音は主張が強いと否定された。
でも——ただ、私は、気持ちをまっすぐに届くよう、吹いていたいだけ。
自分の音で、世界に伝わる想いを描きたかっただけ。
今までは、その音は「間違い」だと言われ続けた。
でも……ここなら……それが許されるのだろうか。
まだ、少し怖い。
でも——
これから、ここでなら……私は……私らしく、私の音で世界と向き合えるかもしれない。
先輩たちは、私のありのままを見て、聴いて、それでも受け止めてくれる。
その事実が胸の奥底に、希望の灯として静かに、そしてあたたかく灯りはじめていた。
心の中で、自分が一歩踏み出すことを告げるファンファーレが控えめに、静かに鳴る。
そう、だからもう一度。
もう一度だけ、信じてみようと思う。
自分の音が、空中へ放たれ、広がる世界を。
「私、マーチングバンドは初めてですが、頑張りますので、よろしくお願いします!」
「ようこそ、私たちのマーチングバンド同好会へ! こっちに来て、みんなに紹介するね」と綺羅は嬉しそうに、千景を招きいれた。
「あらためまして、1年A組の瀬尾 千景です。トランペットやってます。よろしくお願いします」
そんな彼女の顔は、控えめだけれど、微笑んでいた。楽しそうに。
これで部員は6人になった。




