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第六章:静かなる侵食

 ルナが歩き始め、舌足らずな言葉で私の名を呼ぶようになる頃、我が家の家計は破綻の瀬戸際に立たされていた。


 農奴という身分は、収穫の大部分を領主に納める義務がある。手元に残るのは、家族が飢えを凌ぐのが精一杯という、計算し尽くされた最低限の糧食のみだ。それなのに、父バルトは博打宿から借金を重ね、挙句にはその利子を払うために、冬を越すための大切な麦袋を一つ、また一つと持ち出していた。


「……また、減っている」


 薄暗い納屋の隅で、私は数を数えて溜息をついた。

 アリスはそれに気づいているはずだが、バルトを咎める気力さえ失っているようだった。彼女の頬は削げ、かつての美しさは過酷な労働と心労に塗り潰されようとしている。


 私は八歳になった。

 この数年、私は自分の身体に合うように魔力を練り直し、回路を拡張することに心血を注いできた。今の私なら、家を丸ごと吹き飛ばす程度の攻撃魔法や、欠損した肢体をも再生させる高度な治癒魔法を使う「知識」と「技術」はある。

 だが、圧倒的に「器」が足りない。

 今の幼い肉体で無茶な魔力を動かせば、魔法を発動する前に私の神経が焼き切れるだろう。私はじれったい思いを抱えながら、毎日少しずつ、身体を壊さない限界ギリギリの魔力を循環させ、じわじわと魔力許容量を底上げする訓練を続けていた。


「ねえ、ねーたま。これ、あげる」


 足元で、三歳になったルナが、道端で拾ったらしい歪な形の小石を差し出してきた。

 彼女は魔法が使えない。前世の知識で彼女の素質を視ても、魔力の回路はほぼ閉ざされている。この過酷な世界で「ただの人間」として生きることがどれほど険しいか、私は嫌というほど知っている。


「ありがとう、ルナ。綺麗な石ね」


 私はルナの頭を撫でながら、その小石にこっそりと「硬化」と「浄化」の魔力を付与した。

 万が一、彼女がこれを口に含んでも毒にならず、投げれば小石以上の硬度を持つ。大聖女が編み出す極小の護身魔法だ。ルナは嬉しそうに笑い、母から貰ったボロボロのぬいぐるみのポケットに、その石を大事そうに仕舞い込んだ。


 その日の夜。

 バルトがかつてないほど上機嫌で帰宅した。酒の臭いではなく、どこか気味の悪い、高揚した脂ぎった笑みを浮かべて。


「おい、アリス。朗報だぞ」


 彼は食卓に、重々しい音を立てて革の袋を置いた。中からこぼれ出たのは、農奴が一生拝むことのない金貨の輝きだった。

 アリスの顔が、恐怖で白く染まる。


「あなた……これ、どうしたんですか。まさか、また博打を……」

「馬鹿を言うな。これは『前金』だ。領主様のご知友であるヴォルザード卿が、この村に寄られる。そこでな……使い勝手のいい娘を探してらっしゃるとのことだ」


 心臓が、嫌な音を立てた。

 ヴォルザード。その名には聞き覚えがある。周辺の村々で「愛らしい少女」を買い集め、自らの屋敷で「観賞用」として飼い殺しているという、悪趣味な貴族だ。


「ルナはまだ小さいが、あの御方は幼いほど喜ぶ。この金で借金は帳消し、俺たちもこのボロ屋とおさらばして、町で暮らせるんだぞ!」


 バルトの言葉が、私の耳を素通りしていく。

 背後で、何も知らずにぬいぐるみを抱いて眠るルナの姿。

 アリスはガタガタと震え出し、金貨の袋を突き返そうとした。


「……狂ってるわ。ルナを売るなんて、絶対にさせない……!」

「うるせえ! 誰のおかげで今まで飯が食えてたと思ってやがる!」


 激しい衝突音が響き、アリスが床に倒れ込む。

 私は暗闇の中、拳を強く握りしめた。爪が手のひらに食い込み、血が滲む。


(……ああ、そうか)


 三百年経っても、世界は何も変わっていない。

 強い者が弱い者を踏みにじり、親が子を売り、権力者が欲望のままに命を弄ぶ。

 私が守ろうとした「普通の生活」とは、これほどまでに脆く、泥にまみれたものだったのか。


 私は、倒れた母の影に隠れながら、自らの内側に眠る「大聖女」を呼び起こした。

 まだ足りない。まだ器は完成していない。

 けれど、もしこの男が、あるいはその貴族がルナに指一本でも触れるというのなら。


 私はこの身が焼き切れることも厭わず、この地を神罰の雷で焼き尽くすだろう。

 銀の髪が、怒りに呼応してわずかに淡い光を帯び始めた。

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