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第五章:擦り切れる日常

 ルナが生まれてから、農奴の家としての困窮はさらに加速していった。

 赤ん坊という存在は、それだけで希望であると同時に、抗いようのない「消費」の象徴でもある。アリスは産後の肥立ちが悪いにもかかわらず、ルナを背負って領主の農園へと働きに出た。休めばその分だけ、冬を越すための食糧が削られる。それがこの世界の、逃れようのない現実だった。


 私はといえば、五歳にして「家事」という名の労働の担い手になっていた。

 煤まみれのかまどで火を熾し、固い黒パンをふやかすための不味いスープを作る。冬になれば指先はあかぎれで裂け、感覚がなくなるほどの冷水で布を洗う。前世では、指先一つ動かせば最高級の聖水が溢れ出し、純白のローブは常に清潔を保たれていたというのに。


「……はぁ」


 私は小さな溜息をつき、ひび割れた自分の手を見つめた。

 だが、不思議と不快ではなかった。むしろ、この痛みこそが「生きている」証のように感じられた。守るべき母がいて、背後ではルナが小さな寝息を立てている。私が前世で一度も手に入れられなかった、泥にまみれた「生活」がここにある。


 しかし、その静かな幸せを土足で踏みにじる存在がいた。

 父、バルトだ。


 夕闇が迫る頃、乱暴に扉が開け放たれる。入ってきたバルトからは、安酒の鼻を突く臭いと、博打宿の湿った空気の臭いがした。彼はその日稼いだはずのわずかな銅貨を、家族の食費に回すことなく、ほとんど使い果たして帰ってきたのだ。


「おい、飯だ。さっさと出せ」


 バルトは泥のついた靴を脱ぐこともなく、ガタのきた椅子にどっしりと腰を下ろす。

 アリスが疲弊した身体を震わせながら、小さなパンの欠片を差し出した。


「あなた……今日はこれだけなんです。シエルとルナの分を削っても……」

「あぁ? なんだその面は。俺が外でどれだけ苦労してると思ってやがる」


 バルトの目が、濁った光を帯びてアリスを射抜く。

 理不尽。前世の私なら、一瞬の指先操作でこの男を消し炭にできただろう。だが、今の私はただの無力な子どもだ。迂闊に魔法を見せれば、この家族は別の意味で崩壊する。


 私はバルトの視界に入らないよう、静かに竈の火を見つめた。

 少しずつ、魔力を練る。

 前世の知識を総動員し、身体に負担をかけない程度の極小魔法を試行錯誤する日々。

 例えば、スープの塩気をわずかに増やす。例えば、隙間風の入る壁の隙間に、目に見えないほどの薄い魔力の膜を張って断熱する。

 それはかつて「奇跡」と呼ばれた魔法の、あまりに卑近で切実な使い方だった。


 そんなある日のこと。

 村に、見慣れぬ豪華な馬車が通りかかった。

 泥だらけの道を、農奴たちが這いつくばるようにして道を空ける。馬車の窓からは、肥え太った貴族が退屈そうに外を眺めていた。

 その目は、農民を同じ人間としてではなく、道端に転がる石ころか、あるいはただの「資源」として見ている。


 私はその時、冷たい予感に襲われた。

 前世で見てきた、腐敗した権力の臭い。それは三百年経っても、この大陸から消え去ってはいなかったのだ。むしろ、私が命を懸けて守った平和の成れの果てが、この格差の拡大なのだとしたら——。


「シエル、外を見てはダメよ」


 アリスが私の肩を抱き、家の中に引き戻した。

 彼女の震える手。母は知っているのだ。美しすぎる娘が、権力者の目に留まることがどれほど恐ろしいことかを。


「大丈夫よ、お母さん」


 私は、母の手に自分の小さな手を重ねた。

 銀髪を隠すための古い布切れを深く被り直し、私は心の中で誓う。

 もし、この理不尽な世界が再び私から「家族」を奪おうとするのなら。

 その時は、大聖女の慈悲ではなく、かつて魔王をも震え上がらせた「殲滅」の力を、この泥の中に呼び戻してやると。


 季節は巡り、ルナが少しずつ言葉を覚え始めた頃。

 私たちの平穏を根底から揺るがす、決定的な破滅の足音が聞こえ始めていた。

 それは父バルトが抱えた、農奴には一生かかっても返せないほどの「借金」という名の鎖だった。

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