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第七章:崩れゆく家族

 その夜、我が家の空気は死を待つ病室よりも重苦しかった。

 卓上に置かれた金貨の袋。それが放つ鈍い輝きは、救いなどではなく、家族を引き裂く断頭台の刃に見えた。


「……ねーたま、こわい」


 私の服の裾をぎゅっと握りしめ、ルナが震える声で囁く。三歳の彼女には、父が口にした「ヴォルザード卿」という言葉の意味までは分からないだろう。けれど、家の中を支配する絶望的な気配だけは、本能的に察しているようだった。

 私は無言でルナの小さな身体を引き寄せ、その耳を塞ぐように抱きしめた。


「あなた、正気なの!? ルナはまだ、こんなに小さいのよ。あんな噂の絶えない貴族に売るなんて、親のすることじゃないわ!」


 アリスが、掠れた声で叫ぶ。倒れた拍子に土がついた頬を拭いもせず、必死に食ってかかる。農奴として虐げられ、夫の暴力に耐え忍んできた彼女が、これほどまでに激しい意志を見せたのは初めてだった。

 しかし、その必死の拒絶も、酒と金に目がくらんだバルトには届かない。


「親のすることだァ? 親だからこそ、家族全員が野垂れ死ぬのを防ごうとしてるんだろうが! 借金取りが来たらどうする? お前も、シエルも、まとめて身売りか、それとも殺されるかだぞ!」

「それでも、こんな道は間違っているわ……! 借金なら私がもっと働く。夜通しだって働くから、だから……!」

「黙れッ!」


 バルトが再び手を上げようとした瞬間、私はアリスの前に音もなく立った。

 感情を殺した私の瞳が、バルトを正面から射抜く。


「……父さん。そのお金を返してきてください」


 極めて冷静な、けれど背筋を凍らせるような冷徹な響き。

 八歳の子供が発するはずのない声音に、バルトは一瞬、気圧されたように動きを止めた。だが、すぐに顔を真っ赤にして怒鳴り返す。


「シエル、お前まで……! 誰に口を利いてやがる!」

「今の言葉は忠告です。ルナを売れば、この家は終わります。あなたが望む『町での暮らし』も、未来も、すべて消えてなくなる」


 私は一歩、彼に近づいた。

 掌の中で、極小の魔力を練る。まだバルトを殺すわけにはいかない。母を「殺人者の親」にするわけにはいかないし、今の私の器では、派手な魔法を使えばその後の逃走に支障が出る。

 私は、彼の足元の床板に、ほんのわずかな「熱」を流し込んだ。


「あ……あちっ!? なんだ、なんだこの床は!」


 バルトが飛び上がって後退する。焦げ臭い匂いが立ち込め、彼が立っていた場所の板が黒く変色していた。

 偶然だと思ったのか、彼は怯えを隠すように舌打ちをして、金貨の袋を掴み取った。


「……狂ってやがる。どいつもこいつも……。いいか、話はもうついているんだ。明後日の朝、ヴォルザード卿の使いが来る。それまでにルナに綺麗な服を着せておけ。いいな!」


 彼は吐き捨てるようにそう言うと、逃げるように家を飛び出していった。恐らく、また博打宿へ向かったのだろう。


 嵐が去った後のような静寂。

 アリスは力なく床に崩れ落ち、声を押し殺して泣き始めた。

 ルナはぬいぐるみを持ったまま、母の背中にしがみついて震えている。


「……シエル、ごめんなさい。お母さんが、弱くて……」

「いいえ、お母さんは何も悪くない」


 私は窓の外、遠くに見える領主の館の方角を見つめた。

 三百年後の世界。かつて私が守り抜いたはずの法も、正義も、ここには欠片も残っていない。

 それなら、聖女エルフェリーゼとしての慈悲など、この泥の中に捨ててしまおう。


(明後日の朝、ね)


 私は心の中で、転生後初めて、本格的な魔法行使の準備を始めた。

 残された時間は一日。

 この幼い器を、一度限りの「破壊」のために最適化する。

 たとえこの銀髪が呪われようとも、ルナの未来を金貨一枚に変えさせるつもりは毛頭なかった。

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