第三章:泥濘のゆりかご
肺に流れ込む空気は冷たく、そして酷く煤けていた。
視界がゆっくりと焦点を結ぶ。そこにあるのは、前世の記憶にある豪奢な王城の寝室ではなく、今にも崩れそうな丸太の梁と、隙間風が鳴く土壁の家だった。
「……シエル、私の可愛いシエル。……神様、ありがとうございます……」
私を抱きしめる女性——アリスの肌は荒れ、着ている服は継ぎ接ぎだらけだ。だが、その瞳に宿る愛情だけは、前世の私が一度も受け取ることのなかった本物の温もりを持っていた。
私は彼女の胸の中で、静かに周囲を観察した。
三百年後の世界。
術式は成功した。私はエルフェリーゼとしての人生を終え、この「シエル」という赤子として新生したのだ。
しかし、漂う空気から察するに、この家庭の状況は極めて厳しい。部屋の隅には腐りかけた麦の袋があり、窓の外からは他の農奴たちの罵声や、家畜の鳴き声が聞こえてくる。
(……農奴、か。望んだ『普通』とは、少し勝手が違うようね)
私は自らの内に意識を向けた。
前世で海のように溢れていた魔力は、露ほども感じられない。身体は重く、指先一つ動かすのにも苦労する。魂が定着するまでは、魔法の行使はおろか、まともに思考を維持することすら難しいだろう。
数ヶ月が過ぎ、私は少しずつこの家の実情を知ることとなった。
父、バルト。
彼は日の出と共に領主の畑へ駆り出され、夜遅くに泥にまみれて帰ってくる。だが、その手には家族への土産ではなく、しばしば安酒の瓶が握られていた。
「ちっ、今日もこれだけか。領主様の取り立ては年々厳しくなりやがる」
食卓に放り出されたのは、わずかばかりの黒パンの欠片。
バルトは不機嫌そうに酒を煽り、アリスを冷たい目で見やる。彼の心は、過酷な労働と貧困によって既に摩耗し、ひび割れているようだった。
「あなた、そんなに飲んだら体に毒ですわ。シエルも見ていますし……」
「うるせえ! 俺が稼いだ金で何をしようが勝手だろうが!」
怒号が響き、私は反射的に身を竦めた。
前世で数万の軍勢を前にしても動じなかった私の魂が、たった一人の男の罵声に震えている。赤子の身体とは、これほどまでに脆弱で、無力なものなのか。
アリスは悲しげに瞳を伏せ、私を強く抱きしめた。
彼女の細い腕から伝わる鼓動が、私の唯一の救いだった。
(……ああ、お母さん。あなたはこんな地獄のような日々の中で、どうしてそんなに優しくいられるの?)
私は決意した。
まだ魔力は戻らない。言葉も話せない。
けれど、この母だけは守らなければならない。いつかこの身体が成長し、再び理を操る力を取り戻すその日まで、私はこの泥濘の中で息を潜め、牙を研ぐ。
季節が巡り、私が三歳になろうとする頃。
家の中に、もう一つの小さな命が宿ろうとしていた。
後に私の全てを懸けて守ることになる妹、ルナとの出会いは、そう遠くない未来に迫っていた。
そして同時に、私の「力」が再び産声を上げる瞬間も。




