11 あなたにキスを
十一月の半ばも過ぎた。
少し考えさせてくれないか――と言ったギデオンから、連絡がないまま半月以上が過ぎている。
約束していた十二夜まで、あとひと月ほどだ。いったいどうするつもりなのだろう。
そんな不安を抱えながらも、ジェラルディーンはいつものようにブレットのオフィスを訪れていた。
「それで、新作の進捗は?」
マダム・アニスの相談室の原稿の確認と最終的な手直しを終えたあと、ここのところ恒例となっている長編作品への確認の言葉を投げかけられる。
年内に連載を終える予定になっていたボゥ氏だが、本人たっての希望で、回収しきれていなかった伏線と謎の解決の為に三話延長することになったのだが、連載の終了は既定路線だ。新作の連載が必要になる。
「まだなにも……」
「えーっ!?」
申し訳なくて縮こまって答えると、ブレットは悲鳴を上げて頭を掻き毟った。癖の強い茶髪があっという間にもじゃもじゃと鳥の巣を形成する。
「どうしたの、ディーン!? きみらしくないじゃない。湧き出る泉の如く溢れる発想力がきみの持ち味でしょう!」
「潤沢な泉もいつかは涸れるのよ」
「勝手に涸れるなよ! 涸らすなよ! 水源掘ってみようよ!」
そういう指摘がポンポンとテンポよく出てくるブレットの方が、余程発想力豊かだと思う。小説なんか自分で書けばいいのに。
「ねえ、ディーン……?」
下の方から伺うように見上げてくる。おねだりの表情だ。
「三ヶ月くらいの短期連載なら、なんとかなると思うの」
ジェラルディーンが得意としているのは、日常の一部を切り取ったような掌編から短編程度の長さの物語だ。一冊の書籍に出来てしまうような文量でひとつの物語を書くのは、今までにやったこともない。
「恋愛物で?」
「……可能な限り善処するわ」
「それならいいや。構想はいくつかあったりするの?」
「特には。やっぱり騎士道物語的なものがいいのかしら」
そんなに恋愛物を好んではいないジェラルディーンだが、王道の『円卓の騎士』や『シャルルマーニュ伝説』あたりは読んだことがある。もちろん『ニーベルンゲンの歌』も読んだし、主要なものは抑えていると思うので、そういう系統の話を書こうと思えば出来そうな気がする。
ただ、あれほど重厚な物語は、あまり女性受けはしないような気がする。もっと軽めで、若い騎士と姫の恋に焦点を当てたものの方が、ブレットの雑誌の読者層にも合うのではないだろうか。
「あーそうだねぇ。確かに主題は騎士と姫の恋愛に寄せた方が好まれそう。今の連載もそんな雰囲気だしね」
「でもでも。いくら好まれると言っても、同じような話を続けるのは、ちょっとお腹いっぱいって感じにならない?」
「……なるかもね。僕は好きだから全然構わないんだけど、確かにちょっと飽きそう」
そうだろう、と二人は頷き合った。
大人気とまでいかなくてもいい。誰にでも好みはあるし、万人に好かれる作品なんて一握りだ。けれど、読み飛ばされてしまうような作品にはしたくない。
「もっと現代を舞台にしたものとかどうかしら?」
「例えば?」
「うーん……悪の貴族をやっつける義賊の青年! 普段は羊飼いとか」
「恋愛要素は?」
「えっ……と、悪の貴族の娘――いや、姪。両親を亡くして引き取られたんだけど、政略結婚に利用されそうになってて、とても可哀想なの」
「その彼女の想い人は羊飼いの青年」
「そう! それ!」
力強く頷くと、ふうん、とブレットも頷いた。
「まあ、悪くはないんじゃないかな」
「そう?」
なかなかよさそうな反応だ。ジェラルディーンは少しだけホッとする。
普段からの恩返しだと思って連載を引き受けはしたが、話を聞いてから一ヶ月以上もなにも思い浮かばなくて困っていたのだ。
義賊物の話は前から一度書いてみたいと思っていたのだが、いつもの長さでは上手く収まりきらないし、そうなると書くことはないだろうな、と思っていたので丁度よかった。これでなんとかなりそうだと思うと心から安堵する。
「取り敢えずその方向で簡単な設定作ってきてよ。出来れば代替え案もひとつくらい用意するつもりで、二本分の設定。来週中に」
「えぇ……」
「時間がないんだもん。いくらきみが速筆でも、余裕は持たなくちゃ。そんなわけで、来週の土曜日、二十五日までにお願いしますよ、コーネリアス・ウィングフィールド先生」
にっこりと微笑まれるが、圧が強い。
こういうときのブレットは決して引かないから困る。ジェラルディーンは頷くことしか出来ない。
「若い世代の意見として、アリスンちゃんあたりに意見聞いてみれば?」
そろそろ帰ろうと、広げていた荷物をまとめながら溜め息を零すと、同じく原稿をまとめていたブレットが言う。
一瞬悩むようなこともなく、間髪入れずに「嫌よ」と答えた。
確かに、ブレットの雑誌の読者層で、若い世代というとアリスンぐらいの年齢の女性達だ。けれど、あの子に協力を仰ぐようなことはしたくない。
「アリスンには小説を書いていること言ってないもの」
尤もらしい理由を告げてみるが、実のところ、ギデオンが倒れたあの日以来会っていないのだ。
なにを考えてギデオンに付き纏っていたのかと思ったら、やはり予想通りで、優しそうな年上の男性で、爵位と領地を持っている人だったから、という理由からだった。
素敵な笑顔で話しかけてくれるし、アリスンの話もよく聞いて受け答えしてくれていたので、彼もきっと好意を持ってくれているに違いない、と箱入り娘らしい突飛な発想に至ったらしい。呆れてしまう。
ついでにいうと、未亡人でもう三十路の姉より、可愛いと評判の若い自分の方が、男の人は喜んでくれると思った、という失礼な理由つきだ。おばさんで悪かったわね、と悪態が口を突く。
この理由を聞いた母もさすがに呆れたようで、珍しくジェラルディーンに対して謝罪の手紙などを送ってきた。お小言が一切書かれていない手紙なんて、いったい何年振りにもらったことだろうか。
ギデオンが倒れたことに関しては詳細は語れなかったので伏せたが、アリスンを傷つけないように断ろうと悩んだ末の心労と、仕事が忙しかったので過労が重なって倒れたのだ、ということにしておいた。
よそ様に多大な迷惑をかけたということで、姉の付き添いの許で翌日強制送還されたアリスンは、両親と姉からこってりと搾られたようだ。
甘やかされていたが故に感性に幼さがある子だったが、甘えたな雰囲気が可愛らしかったし、そういうところが年上の人達からの受けはよかったので放置していたのだが、今回はそれが悪い方向に作用してしまった結果だ。もう少し年齢相応の考えを持つように教え込む、と綴られていた。
そんな報告があってからもう十日だ。
改めてギデオンに謝り、アリスンのことを伝えておきたいと思ったのだが、連絡が取れない。
彼の下宿に行って伝言を頼んだりもしたのだが、返事はない。
すぐに十二月に入り、アドベントの季節だ。十二夜も待っている。
ジェラルディーンからの提案は既にしてある。それに対する考えと理由も伝えてある。ギデオンからの回答を待つばかりなのだ。
どうするつもりなのか、早く決めて欲しかった。
ギデオンから「会いたい」と連絡をもらったのは、それから二日ほどあとのことだ。
久しぶりに家にやって来たギデオンは、相変わらずの痩せ細り具合だった。
「やあ。ご無沙汰してしまって」
そんな挨拶をしてくれる彼から帽子とコートを受け取り、居間へと通した。
「今日はすごく冷えるよ。雪でも降りそうなくらい」
そう言って笑いながら腰を下ろし、クッションを引き寄せる。どうやらそのクッションがお気に入りのようで、ここに来たときはいつも、ぬいぐるみを抱き締める子供のように抱えている。
「プディングを作ったのよ」
昨日のうちに来訪を報せるメッセージを受け取っていたので、ギデオンの好きなカスタードプディングをすぐに作っておいたのだ。巣も入らずに美しい仕上がりなので、出来れば食べてもらいたい。
最後に会ったときと同じようなことを言うので、ギデオンはちょっと目を丸くしてから笑みを浮かべた。
「食べたい。山盛りでちょうだい、ママ」
今日も顔色はあまりよくないようだが、悪ふざけを口にする余裕はあるらしい。
そのことに少し安心しつつ、ジェラルディーンも「少し待っていてね、坊や」とおどけた調子で答えた。
器を用意してプディングをよそい、先に用意してあったポットにお湯を注いだりとしている間も、ギデオンはなにも言わず、ジェラルディーンも黙ったまま作業を進めていた。
暖炉の火が暖かく燃える微かな音だけが、時折部屋の中に聞こえる。
「本当に雪でも降りそうね」
茶器の載った盆を抱えて戻りながら、窓の外に広がるどんよりと重たい灰色の空を眺め、先程のギデオンの言葉に同意を示す。
ねえ、と頷いたギデオンは、差し出されたプディングを大事そうに受け取った。
「すごい。今日はクリーム付きなんだね」
プディングの上にカラメルソースと共に乗った白い塊に、ギデオンは目を丸くする。
「姉のところの子供達が小さい頃、そうやって食べるのが好きだったのよ。あなたも好きかと思って」
「味覚が子供だって言ってる? 確かに好きだけどね」
そう言って嬉しそうにスプーンで掬い上げ、口に入れる。それから「美味しい」と言って幸せそうに微笑んだ。
ジェラルディーンも僅かに笑みを浮かべる。少しは元気そうだ。
ギデオンが食べる様子を見守りながら、ジェラルディーンも自分の分のお茶に口をつける。今日は少し冷えるので、生姜のスライスを一枚入れてある。
「……子供っぽくて、ごめん」
しばらくすると、ギデオンがぽつりと呟いた。
「どうしたの、突然……」
「自分でもわかってるんだ。三十を過ぎた男の言動じゃないなって」
中身が半分ほどになった器をテーブルに置き、悲しげに溜め息を零す。
それはジェラルディーンも思っていた。初対面のときなど特に、まるで十代の少年のようだと思ってしまったくらいだ。童顔なのも効いているのだろう。
一応は気にしていたのか、と失礼ながら驚く。
つい出てしまう態度とかではなく、普通にしていてその状態のようだったので、あまり気にしていないのだと思っていた。だから気にしていたとはちょっと意外だった。
「こういう言い方をすると、言い訳みたいで、不愉快かも知れないけど」
「うん?」
「俺の――なんていうか、心、みたいなものは、たぶん、一度死んでいるんだと思う。ウィレミーナと一緒に」
ジェラルディーンは静かに言葉を飲み込んだ。
「彼女のこともよく覚えているし、死んだときのことも覚えてる。でも、葬儀……のときとか、埋葬したあととか……そういうあたりの記憶は、本当にあやふやっていうか……あんまり思い出せなくて……」
「ギデオン」
泣き出しそうな表情で言葉を選ぶ様子に、ジェラルディーンは急いで首を振った。
「無理に話さなくていい。言いたいことはわかったから」
「でも……でも、俺っ……俺は……っ」
「いいよ。わかってるから」
触れてもいいものだろうか、と一瞬迷うが、ギデオンの隣に腰を下ろし、震えている頭を引き寄せて優しく胸に抱く。
ギデオンは僅かに身を強張らせたが、そっと背中に手を回してくる。
少し癖のある黒髪を、宥めるように撫でつける。そうしていると、ギデオンの震えがゆっくりと治まっていった。
「全然眠れなくなっていた時期の記憶が、本当にすごく断片的なんだ」
落ち着きを取り戻したギデオンが、静かに語り出す。ジェラルディーンは頭を撫でてやりながら、その話に耳を傾けた。
「どうやって生きていたんだろうとか、すごく不思議で……。今生きているんだから、食事とかもちゃんとしてたんだろうけど、なにかをしてたって感覚が一切なくて。目の前のこととかがはっきりしたのは、母様の腕に抱かれて目が覚めたときだった」
不眠に陥ったギデオンを救ったのは母親だったらしいという話は、マシューから聞いて知っている。そのときのことなのだろう。
「それからしばらくは、意識ははっきりしているのに手足が覚束なくて、着替えとか、小さい頃みたいにみんな使用人にやってもらったりとかしてて」
たどたどしい自分の動きに嫌気が差していたが、両親も使用人達も優しくて、根気よく介助してくれていた。そのお陰でギデオンはゆっくりと立ち直れていった。
「あのとき俺は、母様の腕の中で生まれ直したような、そんな気がするんだ。それくらいに、以前と世界が違って見えた」
母親の腕の中で意識を取り戻したことから、時々そう考えるようになった。
以前の記憶を失っているとか、そういうことがあるわけではない。それでも、母の腕の中ではっきりとした意識を取り戻したときの前後で、なにかが違ったような気がするのだ。
そう、とジェラルディーンは頷いた。その理由がなんとなく納得出来たからだ。
「ウィレミーナが死んでから一年くらい経って、俺は働くことにしたんだ。働く必要なんかないって両親は言ってたけど、なんか自分の中がすっかり空っぽになってしまったような気がして、それを埋める為のなにかが欲しかったんだ」
貴族の仕事といえば領地運営だ。
ギデオンは一人息子であるので、父親からその領地を引き継ぐのは当然のことであり、何処かに職を求めていく必要はなかった。働きたいというのならば、父親について領地運営について学べばいいだけだ。
それでも外に出たかったのは、自分の中に空いてしまった洞のような空間を埋めたかったからだ。
外に出れば、そこを埋めてくれるなにかが見つかると思ったのだ。
「寄宿学校時代の先輩――カートランド先輩だけじゃなく、他の先輩達にもだけど、そういう人達の力を借りて、俺でも出来そうな仕事を紹介してもらったんだ。でも、初めはやっぱり大変だった」
なにせ学校とは違う。寄宿学校時代は上級生の使い走りなどでいろいろ鍛えられたし、成績も上の下くらいの位置をキープしていてそれなりに優秀だった筈だが、働くということとは根本的に違った。
それでも苦労しながら十四年。積極的ではないが、それなりに仕事を熟せる人物として働けている。
「なくなったものが完全に埋まったわけではないと思うけど、それでも俺は、今は結構満たされているような感じがしている。今の生活が結構気に入っているんだ」
「そう」
少し誇らしげな口調で告げられた言葉に、ジェラルディーンは微笑む。
ジェラルディーンも同じ気持ちだ。
ウィリアムを失って婚家を出されたあと、実家には帰りたくなかった。夫を死なせた不出来な娘だと、母から罵られるような気がしていたからだ。
それならばどうすればいいのか、と考えた末に、ひとりで生きる為に働こうと思った。
下宿屋ならばいつも誰かしらが傍にいてくれると思い、その為の物件を探すことにした。幸いにもすぐに見つかり、入居者もすぐに決まり、ジェラルディーンの新しい生活は始まった。
「私も、埋めたかったのかも知れない。ウィリアムに言えなかった『行ってらっしゃい』と『お帰りなさい』を言うことで、彼を失ってしまったという罪を償っている気分に浸りたかったのかも」
何処か遠くに呟くように零された言葉に、ギデオンは顔を上げた。
そうして、くしゃりと表情を歪める。
「どうしてそんな悲しいことを言うんだよ」
「だって本当のことだわ」
「ウィリアムさんが死んだのはきみの所為じゃないって言っただろう!」
強い口調で言われ、思わず身を竦める。
大きな声を出してしまったことにハッとしたギデオンは、すぐに「ごめん」と謝ってきた。
「……ウィリアムさんは、そんなきみの姿を望んでないよ」
ややして、ぽつりと告げられるのはそんな言葉。
ジェラルディーンはそっと見つめ返した。
「俺、思うんだ。――死者は、自分のことを覚えていてくれることは願っているかも知れないけど、その記憶に囚われ続けるのは望んでいないんじゃないか、って」
「別に私は、囚われているわけじゃ……」
「完全に囚われているよ。呪いのようにね」
きっぱりと言い切られる。ジェラルディーンは僅かに唇を噛み、拳を握った。
呪いだなんて失礼だ。そんな風に考えたことは一度もなかったし、ウィリアムに対する気持ちはただの自己満足の懺悔だ。それくらいわかっている。
この十年の一切を、ウィリアムがなにかしているわけではない。ジェラルディーンが勝手にしているだけのことだ。
「囚われてない」
もう一度反論するが、ギデオンは首を振る。
「もういいんじゃないかな。そんなに責めなくても」
「よくない。私はまだ、全然謝り足りない。どんなに謝っても償いきれないくらいに、酷いことをしたのだもの」
「それが呪いのようだっていうんだよ」
静かに、けれど強い口調で言い、立ち上がる。
どうしたのかと思っている間にギデオンは隣の寝室へと行き、すぐに戻って来た。
その手には、写真立てが握られていた。
「見て、ジェイン」
差し出された写真立ての中のウィリアムと目が合う。変わらぬ優しい瞳が、ジェラルディーンを見つめ返している。
「この人が、今のジェインの姿を望んでいると思う?」
「なに?」
「十年も自分のことを責め続けて、その心を痛め続けるようなことを、望んでいると思う?」
「…………」
「俺はそうは思わない。そんなに苦しむなら、自分のことなど忘れてくれた方がいいと思うに決まっているよ」
断定されて言われたことに、カッとした。
ジェラルディーンはギデオンの手から写真立てを奪い取る。
「あなたにウィリアムのなにがわかるっていうのよ!」
「わかるよ! 愛する人の苦しむ姿が見たくないって考えることくらい、馬鹿な俺にだってわかるよ!」
はっきりと言い返され、ジェラルディーンは言葉を失った。
なにも言い返せなかった。それはずっと考えないようにしてきたことだったから。
ギデオンは「ごめん」と声を荒げたことを謝った。
「彼は、きみに言った筈でしょう? 幸せにするって。幸せになろうって」
確かに言われた。そう言ってくれたことが嬉しかった。
「でも今のきみの姿は、幸せとは程遠いじゃないか」
「……幸せだわ」
「環境は満たされているだろうけど、心はずっと自分を責め続けて、後悔と懺悔の日々だ。そんなのが幸せだと言えるの?」
反論の言葉が浮かばない。普段から物語を紡いで、たくさんの言葉に触れ合っているくせに、こういうときに相応しい言葉がなにも思い浮かばない。
「……でも、私ひとりで幸せには、なれない……なってはいけない」
ようやく絞り出した言葉に、自分自身でもハッとする。
幸せに『なってはいけない』だなんて、本当に呪いのようだ。自分自身に呪いをかけている。
困惑を浮かべるジェラルディーンの様子に、ギデオンは静かに頷き返す。
「今度は、俺がきみを幸せにする」
そう言って手首を握ってきて、その先に掴まれている写真立てに触れた。
「ウィリアムさんが願ったように、きみを幸せにしたい」
「ギデオン……」
当惑しながら名前を呼ぶと、彼はもう一度頷く。
「この前の、きみからの問いの答えだよ。俺は今の関係を続けたいし、出来れば嘘ではなく、本当に俺の婚約者になって欲しい」
その答えにジェラルディーンは首を振る。
「でも、私は……」
「男に欲情しないっていうんだろう? いいよ、それで。きみを無理に抱こうとは思わないし、子供もいらない」
それはいけないことだ、とジェラルディーンは思った。
子爵家のたった一人の嫡子であるギデオンには、跡継ぎが必要だ。子供が出来ないのと、初めから子供を作らないのとでは違う。そんなことが親族に受け入れられる筈がない。
それでもいいんだ、とギデオンは微笑む。
「俺は一度、妻と子供を失っている。もうあんな思いはしたくない。だから、きみがいてくれるだけでいい」
「ギデオン……」
「でも、まだ時々眠れないこともあるから、一緒のベッドで眠ることは許して欲しい」
申し訳なさそうな表情で言うので、ジェラルディーンは微かに笑った。
その笑みに微笑み返したギデオンは、ジェラルディーンの手を取り、その場に膝をついた。
「ミセス・ジェラルディーン・リリー・チャーチル・ジェンキンス」
改まってフルネームを呼ばれ、ジェラルディーンは「はい」と頷いて背筋を伸ばした。
「俺と結婚して欲しい。ウィリアムさんがきみに与えたかった分まで、俺がウィレミーナに与えたかった分まで――そのすべてを合わせてきみを幸せにしたい」
真摯に告げられるその求婚の言葉に、ジェラルディーンは僅かに双眸を濡らし、苦笑いを浮かべた。
「あなたも変わった人ね。私なんかの何処がよかったんだか……」
可愛げがないのは知っているし、そんなに美人でもない。料理は上手いと褒められることもあるが、貴族の奥様になるのならば、そんなものは無用の技能だ。
立って、と促し、手を引いて立ち上がらせる。
「キスして」
ほとんど変わらない高さの瞳を覗き込み、唐突に告げる。
えっ、とギデオンは驚き、戸惑いを向けた。
「キスして。返事はそれから考える」
いったいなんなのだ、と困惑したが、言われた通りにギデオンはジェラルディーンの唇に口づけた。
初めて触れる唇は柔らかくて、温かくて、ほんの少しだけ刺激的な味がした。
唇を離すと、ジェラルディーンは「うーん」と呟いて考え込むような表情になる。
いったいなんなのだ。わけがわからなくてギデオンはドキドキする。嫌な緊張感だ。
ややして、ジェラルディーンは笑みを浮かべた。
「いいわ。あなたと結婚する」
「ジェイン!?」
挑発的とも取れるその口振りに、驚きを隠せない。
「私ね、誰に対しても性愛は抱けないけれど、恋愛感情が欠如しているわけじゃないの。唇にキスが出来ないような相手とは、結婚なんかさすがに出来ないでしょ」
ギデオンとのキスは、少し胸が高鳴った。ウィリアムとキスをしたときのように。
だからきっと、自分はギデオンのことを好きなのだと確信する。ただの友人としてではなく、恋人と思えるくらいには。
「……なんだか素直に喜べないなぁ」
「仕方ないでしょう。あなたが好きになったのは、そういう捻くれ者の女なんだから。覚えておきなさい」
「はぁい、ママ」
拗ねたような返事に笑い、写真立てを戻す為に寝室に戻る。
定位置であるベッド横の小箪笥の上に置き、その変わらない笑みを見つめ返す。
(本当に、あなたは許してくれるかしら?)
ジェラルディーンが他の男と結婚することを許してくれるだろうか。
ひとりで勝手に新しい幸せを見つけに行くことを、許してくれるだろうか。
許してくれる筈だ、とギデオンなら言ってくれるだろう。だから、その言葉を信じて、ジェラルディーンは彼と共に行く。
キスが刺激的だったのは生姜の所為だよ…




