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第9話 元夫の電話

 電話がかかってきたのは、開店の一時間前だった。


 番台で釣り銭を数えていたときだ。スマホの画面に浮かんだ名前を見た瞬間、指先がすっと冷たくなった。


 『雅人さん』


 離婚してから、一度もかかってきたことはなかった。手続きは全部、恵を通していたから。


 出なければいい。


 わかっているのに、指が勝手に、通話のボタンを押していた。八年間の習慣は、ひと月やふた月では消えない。


「千夏? 僕だよ」


 やわらかい声だった。


 変わらない。少し低くて、ゆっくりで、いつも微笑んでいるような声。結婚式のスピーチで、友人に「声だけで女を落とせる男」と紹介されていた声。


「……はい」


「元気そうでよかった。いや、元気かどうか、ずっと心配してたんだ」


「……はい」


「聞いたよ。銭湯を始めたんだって?」


 どうして、と言いかけて、飲みこんだ。


「冬至まで、です」


「冬至まで、ね。柴田くんから聞いて、驚いたよ」


「柴田さんを、ご存じなんですか」


「部下だよ。言ってなかったかな」


 電話の向こうで、雅人さんは、くすりと笑った。


「汐見町の再開発、うちが入ってるんだ。東和が。僕が担当でね」


 頭の中が、真っ白になった。


 東和ディベロップメント。雅人さんの会社。


 あの、人のよさそうな柴田さんが。再開発準備組合の名刺を出した、あの人が。


「君のおばあさんの土地の話、僕が口をきいてあげたんだよ。悪くない条件だろう? 君が困らないように、と思ってね」


 ……口をきいてあげた。


 私が困らないように。


「千夏。君のためを思って言うんだけど」


 ああ、と思った。


 この言葉。


「早く決めたほうがいい。冬至まで待ってたら、赤字がかさむだけだ。君に経営なんて無理だよ。数字、苦手だったろう?」


 苦手じゃなかった。


 家計簿をつけていたのは私だった。雅人さんの確定申告の書類をそろえていたのも、私だった。でも、彼はいつも、友人たちの前で笑って言ったのだ。うちの奥さんは、数字がからっきしでね、と。


 そして私は、そのたびに、そうなのかもしれない、と思った。


「でも、祖母が――」


「千夏」


 名前を呼ばれただけで、喉が詰まった。


「また、意地を張ってるの? そういうところ、変わらないね」


「……ごめんなさい」


 言ってから、はっとした。


 なんで謝ったの、私。


「謝らなくていいよ。僕は怒ってない。心配してるだけなんだ」


 雅人さんは、やさしく言った。いつも、そうだった。彼は一度も、私を怒鳴ったことがない。手を上げたことも、もちろんない。


 ただ、いつも、やさしく。


 ――その服、君には少し若すぎないかな。君のために言ってるんだよ。


 ――髪は長いほうが似合うよ。切らないでほしいな。


 ――誰とメッセージしてるの? 心配なんだよ、君が変な人にだまされないか。


 ――恵さんとは、あまり会わないほうがいい。君が悪く言われるのは、僕もつらいから。


 ――今日は少し、量が多くないかな。最近、ちょっと、ね。


 ――卵焼きは、出汁巻きのほうがいいよ。子どもの弁当じゃないんだから。


 一つひとつは、小さなことだった。言われるたびに、そうかもしれない、と思って、直した。直すたびに、彼は「ほら、そのほうがいい」と微笑んだ。


 気がついたら、私の中には、私の好きなものが、ほとんど残っていなかった。


「君は、一人じゃ何もできないだろう?」


 電話の向こうで、雅人さんが言った。


 責めるのではなく、ただ、事実を確認するみたいに。


「……もう」


 声を、しぼり出した。


「もう、かけてこないでください」


 自分でも、聞こえるか聞こえないかの声だった。


 雅人さんは、一瞬黙って、それから、また笑った。


「また連絡するよ。体に気をつけて」


 ぷつり、と電話が切れた。




 番台の上で、私は、しばらく動けなかった。


 手が震えている。左手には、いつの間にか、葛城さんにもらった革の手袋を握りしめていた。


 どれくらいたっただろう。


 番台の横に、すっと冷たいコップが置かれた。


 麦茶だった。


 顔を上げると、葛城さんが立っていた。いつもの、愛想のない顔で。


「……大丈夫です」


 聞かれてもいないのに、私は言った。笑ったつもりだった。たぶん、ひどい顔だったと思う。


 葛城さんは、何も聞かなかった。


 ただ、一度だけ、私の握りしめた手袋に目をやって、それから言った。


「開けますか」


「……はい」


 その日の「おかえり」は、のれんの外まで届かなかった。




 恵が来たのは、夜の十時半だった。


 仕事帰りのスーツ姿で、のれんをくぐるなり、番台の私を見て、眉をひそめた。


「顔色、最悪。何かあったでしょ」


 さすが弁護士だ。ごまかしがきかない。


 閉店後、私は恵と二人で、女湯のしまい湯に浸かった。


 葛城さんは、私たちが掃除を終えるのを待って、「今日は、外の銭湯行ってきます」と言って出ていった。銭湯の住人が、よその銭湯に行く。気をつかわせてしまったのだと、あとで気づいた。


「はあ!? 東和!?」


 電話の話をすると、恵は湯の中で立ち上がった。


 ざばあ、と湯があふれた。


「ちょっと、恵、座って。見えてる」


「見えてていいわよ、女同士なんだから! それより、あの男、最初から知ってて黙ってたってこと? あんたが相続するってわかってて?」


「偶然、じゃないかな……」


「そんなわけないでしょ!」


 恵は、ざぶんと湯に座り直した。それから、濡れた前髪をかき上げて、目を細めた。弁護士の顔だった。


「調べる。東和がいつからあの土地に目をつけてたか。あの男が、いつからそれを知ってたか」


「恵、そこまでしなくても」


「する。私、あの男のこと、離婚のときから気に入らなかったの。いちばん嫌いなタイプ。怒鳴らないで、笑いながら首を絞めてくるタイプ」


 笑いながら、首を絞めてくる。


 言われてみれば、そうだったのかもしれない。


 私は、ずっと、自分が悪いのだと思っていた。怒鳴られたことも、殴られたこともない。だから、つらいと思う資格なんてないのだと。


「で」


 恵の声色が、がらりと変わった。


「年下くんとは、どうなの」


「……は?」


「見た? あの腕」


「…………見た」


「でしょ!」


 恵は、湯の中で私の肩をばしばし叩いた。


「さっき、のれんのとこですれ違ったけど、あれはいい腕よ。あれは、薪だけ割らせとくのはもったいない腕」


「キヨさんと同じこと言ってる」


「キヨさんって誰か知らないけど、その人は正しい」


 私は、湯に口元まで沈んだ。ぶくぶくと泡が出る。


「どうもこうも、ないよ。あっちは、祖母との約束でいるだけだし。私のことなんて、なんとも」


「千夏」


 恵は、急にまじめな顔になった。


「あんた、三十五で枯れてどうすんの」


「枯れてない」


「枯れてる。あんた、八年間、自分のこと、女だと思ってなかったでしょ」


 息が、止まった。


「妻とか、奥さんとか、久我さんちの人とか。そういうのだと思ってた。違う?」


 違わなかった。


 鏡に映る自分は、いつも、雅人さんの妻として合格かどうかを確かめるためのものだった。


「……恵って、ほんと、遠慮ないよね」


「遠慮してたら、離婚弁護士なんてやってらんないわよ」


 恵は、湯船のふちに頭を預けて、壁の月を見上げた。


「いい銭湯ね、ここ」


「うん」


「あんたに、似合ってる」




 次の夜のしまい湯は、いつもより静かだった。


 壁の向こうの葛城さんは、なかなか話しかけてこなかった。私も、何を話せばいいかわからなかった。


 湯の音だけが、していた。


 やがて。


「三森さん」


「はい」


「昨日の電話のこと、聞くつもりはないです」


「……はい」


「ただ」


 ちゃぷん、と湯が揺れた。


「あなたの声が小さくなるの、俺は、嫌です」


 それだけだった。


 それきり、葛城さんは何も言わなかった。


 私も、何も言えなかった。


 ただ、湯の中で、膝を抱えた。胸の奥で、何かがじんわりと、あたたかくほどけていくのを感じながら。


「……うん」


 やっと、それだけ言えた。


 壁の向こうで、小さく、ふっと息がもれる音がした。笑ったのかもしれなかった。




「ちなっちゃん、来週の土曜、夏祭りよ」


 翌日、店に出る前に寄ったルミ子さんが、番台に肘をついて言った。


「汐見神社の。あんた、子どものころ、毎年行ってたじゃない」


「行ってました。金魚すくい」


「浴衣、着なさいよ」


「えっ」


「ハルさんの、あるでしょ。藍色の、朝顔のやつ。あたしが着付けてあげる」


 ルミ子さんは、にっこりと、ものすごく楽しそうに笑った。


「誰に見せるかは、知らないけどね」

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