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第10話 浴衣と金魚

 問題は、番台と釜だった。


 夏祭りは土曜日の夕方から。月見湯は、もちろん営業している。私が番台を離れれば番台が空くし、葛城さんが釜場を離れれば湯が冷める。


「行かなくていいですよ、私」


 そう言ったら、なぜか常連さんたちに総攻撃された。


「何言ってんだい。番台なら、あたしが座るよ」


 キヨさんが、胸を張った。


「ハルちゃんが寝こんだとき、何べんか代わりに座ったことがあるんだ。お釣りの計算だって、まだボケちゃいないよ」


「釜は、俺が見る」


 タツさんが、腕を組んだ。


「祭りなんざ、八十回も見りゃ飽きたってんだ。火の番くらい、目ぇつぶってもできらあ」


「タツさん、暑いですよ、釜場」


「鳶は暑さに強えんだよ」


 葛城さんが、何か言いたそうな顔をしたけれど、タツさんにじろりとにらまれて黙った。


「二時間だけな。七時から九時。それ以上は面倒見ねえぞ」


 こうして、私と葛城さんは、二時間だけ、お祭りに行くことになった。


 沙耶さんとひなたちゃんも一緒に。……ということに、なっていた。ルミ子さんの計画では。




 午後六時半。祖母の部屋で、ルミ子さんが、私に浴衣を着せていた。


 藍色の地に、白い朝顔。祖母が若いころに仕立てたものだという。生地はやわらかく、少し樟脳のにおいがした。


「はい、腕上げて。はい、息吸って。はい、止めて」


 ぎゅっ、と帯が締まった。


「く、苦しい……」


「女はね、苦しいくらいがちょうどいいのよ。背筋が伸びるから」


 ルミ子さんは手際よく帯を結び、それから、私の髪をくるくるとまとめ上げた。肩より長い髪。雅人さんが好きだった長さのまま、なんとなく切れずにいた髪だ。


「うなじ」


 ルミ子さんが、私のうなじを、つん、と指でつついた。


「ひゃっ」


「これで落ちない男はいないわよ」


「落とすつもりなんて」


「はいはい。……ほら、見てごらん」


 鏡台の前に、立たされた。


 鏡の中に、知らない女の人がいた。


 藍色の浴衣。白い朝顔。まとめた髪。むき出しのうなじ。少し日に焼けた頬。


 ……悪くない、かもしれない。


 そう思ったのは、たぶん、何年ぶりかのことだった。


「ハルさんにそっくり」


 ルミ子さんが、鏡越しに、少しだけ目をうるませた。


「若いころのハルさんも、この浴衣で、お祭り行ってたのよ。源一郎さんと」


 私は、鏡の中の自分を、もう一度見た。祖母も、この浴衣で、誰かの隣を歩いたのだ。


「ねえ、ちなっちゃん」


 帯の形を整えながら、ルミ子さんが、鏡越しに私を見た。


「この髪、切らないの?」


「え?」


「似合ってないってわけじゃないのよ。でも、なんていうか……あんたの髪じゃない感じがする」


 どきりとした。


 切らないでほしいな、と、何度も言われた髪だった。


「……そのうち」


「そのうち、ね」


 ルミ子さんは、それ以上は言わなかった。ただ、まとめ上げた私の髪に、祖母のべっこうのかんざしを、すっと挿してくれた。




 階段を下りると、廊下の先に、葛城さんが立っていた。


 いつものTシャツとジーンズ。ただし、ペンキのついていない、きれいなほう。


 足音に気づいて、彼が振り向いた。


 そして、固まった。


 本当に、固まった。ひなたちゃんの「ふうふ?」のときより、もっと。まばたきすら、止まっている。


「……あの」


 沈黙に耐えられなくて、私が先に口を開いた。


「変、ですか」


「……いえ」


 葛城さんは、ゆっくりと一度まばたきをした。


「似合ってます」


「……それだけ?」


 ちょっと、からかうつもりで言った。ルミ子さんに着付けてもらって、浮かれていたのだと思う。


 葛城さんは、目をそらした。


 そして、ぼそりと何かを言った。


「え?」


「行きましょう。ひなたが待ってます」


 彼は、くるりと背を向けて、さっさと勝手口から出ていった。


 ……今、なんて言ったんだろう。


 き、で始まる言葉だった気がする。


 たぶん、気のせいだ。




 汐見神社の参道には、屋台がずらりと並んでいた。


 焼きそば。たこ焼き。りんご飴。ヨーヨー釣り。提灯の明かりと、ソースのにおいと、太鼓の音。子どものころと、何も変わっていなかった。


「ちなつちゃん、きれーい!」


 ひなたちゃんが、ピンクの浴衣で駆けよってきた。沙耶さんも、紺の浴衣を着ている。


「ひなたちゃんも、かわいいね」


「あおちゃん、ちなつちゃん、きれいでしょ?」


「……そうだな」


 葛城さんは、ひなたちゃんの頭をぽんぽんと叩いて、それ以上何も言わなかった。


 金魚すくいの屋台の前で、ひなたちゃんが足を止めた。


「きんぎょ、とりたい!」


「よし」


 葛城さんが、しゃがんでポイを受け取った。真剣な顔で、水面をにらむ。


 すっ、とポイを水に入れた。


 びりっ。


 破れた。


「……」


 無言で、もう一枚。


 びりっ。


 もう一枚。


 びりっ。


 五枚目が破れたところで、屋台のおじさんが、気の毒そうに言った。


「兄ちゃん、力入れすぎだよ」


「……木の目は、読めるんですけど」


 金魚に木の目はない。


 私は、笑いをこらえながら、ポイを一枚買った。


 子どものころ、この神社の金魚すくいで、祖母に教わったのだ。ポイは斜めに入れる。紙を水につけすぎない。金魚の頭のほうから、すくう。


 一匹。二匹。三匹。


「ちなつちゃん、すごーい!」


 ひなたちゃんが、ぴょんぴょん跳ねた。


 六匹すくったところで、ポイが破れた。屋台のおじさんが「姉ちゃん、プロかい」と言った。


 隣を見ると、葛城さんが、なんとも言えない顔で私を見ていた。


「……くやしい?」


「別に」


「くやしいんだ」


「別に」


 耳が、ちょっと赤かった。




 焼きそばを食べて、ラムネを飲んで、盆踊りの輪を眺めた。沙耶さんとひなたちゃんは、輪の中に入って踊っている。


 お社の前で、四人でお参りをした。


 ひなたちゃんは、ぱんぱんと大きく手を叩いて、「おつきさまが、げんきになりますように!」と、声に出してお願いしていた。お願いは声に出しちゃいけないんだよ、と沙耶さんが笑った。


 私は、目を閉じて、少し迷った。


 何を、お願いすればいいんだろう。


 月見湯が、冬至まで無事に続きますように。……それから。


 それから、のところで、言葉が見つからなかった。


 目を開けると、隣で、葛城さんが、まだ手を合わせていた。


 長いお参りだった。


「何、お願いしたの?」


「言ったら、叶わないんで」


「ひなたちゃんは、言ってたよ」


「ひなたのは、叶います」


 真顔で言われた。何を根拠に、と思ったけれど、なんだか、本当に叶いそうな気がした。


 八時半。


 神社の石段に、二人で並んで座っていた。


 沙耶さんが、ひなたちゃんをトイレに連れていったのだ。……戻ってくるのが、妙に遅い。ルミ子さんの計画は、たぶん、ここまで含まれていたのだと思う。


 石段の下では、子どもたちが手持ち花火をしていた。そのうちの一人が、私たちのところに駆けてきて、「あげる!」と線香花火を二本、差し出した。


「ありがとう」


 葛城さんが、ポケットからライターを出した。


 二本の線香花火を並べて、火をつける。


 ぱち、ぱち、と小さな火花が散りはじめた。


「どっちが長く持つか、勝負」


「……負けませんよ」


「金魚は負けたくせに」


「あれは、金魚が悪い」


 二人で、小さな火の玉を見つめた。


 ぱちぱち。ぱちぱち。火花が、松の葉みたいに広がって、また縮んで。


 肩が、触れそうな距離だった。


 浴衣の袖ごしに、彼の体温が伝わってくる気がした。気のせいかもしれない。夏の夜だから、全部が熱いのだ。


「……三森さん」


 葛城さんが、火の玉を見つめたまま、言った。


「はい」


「俺――」


 ぽとり。


 私の線香花火の火の玉が、落ちた。


 同時に、浴衣の帯に挟んでいたスマホが、ぶるぶると震えだした。


 画面には、月見湯の番号。


「……もしもし?」


「千夏ちゃんかい!」


 キヨさんの声だった。


 いつもの毒舌の声じゃない。上ずって、震えている。


「タツさんが、釜場で倒れた! 今、救急車呼んだから、早く――」


 最後まで聞く前に、私は立ち上がっていた。


 葛城さんは、もう石段を駆け下りていた。




 下駄は、途中で脱いだ。


 浴衣の裾をからげて、裸足で、商店街を走った。


 角を曲がると、月見湯の前に、救急車が止まっていた。


 回転する赤い光が、夜の中で、月見湯の煙突を、何度も何度も、照らしていた。

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