第11話 タツさんの四十年
「うるせえ。大げさなんだよ、どいつもこいつも」
病院のベッドの上で、タツさんは、点滴の管をにらみながら言った。
熱中症。軽いものだった。釜場で薪をくべているうちに、目の前がくらっとして、尻もちをついたところに、ちょうどキヨさんが様子を見に来たのだという。
「今夜は念のため、入院して様子を見ましょう」
若いお医者さんに言われて、タツさんは「冗談じゃねえ」と起き上がろうとして、看護師さんに三人がかりで押さえつけられた。
救急車には、私が乗った。タツさんは一人暮らしで、息子さんは大阪にいる。電話をしたら、明日の朝いちばんの新幹線で来るとのことだった。
葛城さんは、月見湯に残った。湯を落として、釜の火を消して、お客さんに事情を説明して、キヨさんを家まで送ってから来る、と言っていた。
夜の十一時。
救急外来の奥の、カーテンで仕切られた小さなベッド。私は、その横のパイプ椅子に座っていた。浴衣のまま。足は、裸足のまま、病院のスリッパを借りている。
廊下を通る人が、ちらちらとこちらを見ていく。夏祭りの帰りに、ここに迷いこんだ人みたいに見えるのだろう。実際、そうなのだけれど。
「……あんた、帰っていいぞ」
タツさんが、天井を見たまま言った。
「帰りません」
「強情だな」
「祖母の孫なので」
タツさんは、ふん、と鼻を鳴らした。それから、ちょっとだけ、口の端を上げた。
「違えねえ」
日付が変わるころ、タツさんが、ぽつりと言った。
「眠れねえ」
「お水、もらってきましょうか」
「いらねえ。……ちょっと、しゃべらせろ」
タツさんは、目を閉じたまま、話しはじめた。
「月見湯の釜場はな、俺と源さんで作ったんだ」
「源さん……おじいちゃん、ですか」
祖父の源一郎は、私が物心つく前に亡くなっている。写真でしか知らない。
「五十年前だ。俺が三十二、源さんが三十八。俺は鳶で、源さんは銭湯のせがれでよ。親父さんが倒れて、店を継ぐことになって、古い釜を新しくするってんで、俺が手伝わされたんだ」
タツさんの声は、少しかすれていた。
「源さんは、俺の兄貴分だった。腕っぷしが強くて、口が悪くて、笑うとガキみてえな顔になる人でよ。……ハルさんは、そういう源さんの女房だった」
タツさんは、そこで、少し黙った。
「惚れたのは、源さんが生きてるころからだ」
私は、息を呑んだ。
「源さんの女房だぞ。言えるわけがねえ。それに、俺だってかみさんがいた。うちのは、早くに逝っちまったけどな」
点滴の、ぽつり、ぽつりという音だけがしていた。
「源さんが死んだのは、三十年前だ。ハルさんは、五十四だったか。葬式のあと、ハルさん、一人で釜を焚いてたよ。泣きもしねえで。俺は、釜場の外で、それを見てた」
「……言わなかったんですか。そのあとも」
「言わなかった」
タツさんは、目を開けた。天井を見つめる目が、少しうるんでいた。
「ハルさんは、全部わかってた。俺が何を思ってるかなんて、とっくにお見通しだったろうよ。わかってて、言わせなかった。……あの人は、源さんの女房のまんまで死にたかったんだろう」
「タツさんは、それで、よかったんですか」
「それでいいと思ってたさ。四十年な」
タツさんは、ゆっくりと、首だけこちらに向けた。
「でもな、千夏ちゃん」
「……はい」
「言っときゃよかったよ」
その声は、びっくりするほど、静かだった。
「断られたって、よかったんだ。笑われたって、よかった。言わねえで終わるのと、言って終わるのは、ぜんぜん違う。八十二になって、やっとわかった。……遅えよな」
私は、何も言えなかった。
何か言えば、この人の四十年を、軽くしてしまう気がした。
だから、ただ、点滴の管が絡まないように、そっとシーツを直した。
「あのペンキ屋な」
しばらくして、タツさんが、話を変えた。
「葛城さん、ですか」
「あいつ、ガキのころ、月見湯に通ってたんだぜ」
「え?」
初めて聞く話だった。
「ハルさんが拾ってきた、子猫みてえなガキだった。いつだったか、夏だったな。毎晩一人で来てよ。湯にもろくに入らねえで、湯気で曇った鏡に、指で落書きばっかりしてやがった」
鏡に、指で、落書き。
「ハルさんがな、晩飯食わせて、風呂に入れて、送ってってたよ。親がどうとか、いろいろあったんだろう。……それが、でかくなって、ペンキ屋になって、帰ってきやがった。ハルさん、喜んでたぜ。『あおいちゃんかい!』って、番台から転げ落ちそうになってよ」
私は、葛城さんの顔を思い浮かべた。
愛想のない、切れ長の目。ひなたちゃんを抱き上げるときだけ、くしゃっとなる目尻。
あの人が、子どものころ、ここに。
夏、だった。
私も、毎年の夏、ここにいたのに。
……覚えていない。
頭のどこかを探ってみたけれど、何も出てこなかった。夏休みの月見湯の記憶はたくさんあるのに、その中に、一人で鏡に落書きをしている男の子の姿は、見つからなかった。
「タツさん、それって何年くらい前――」
聞きかけたとき、カーテンの向こうから、規則正しい寝息が聞こえてきた。
タツさんは、眠っていた。
ベッドの横の窓から、白っぽい月が見えていた。
午前二時。
病院の救急出口を出ると、白い軽バンが、玄関の横に止まっていた。運転席で、葛城さんが、腕を組んで目を閉じていた。
窓をこんこんと叩くと、彼は、ぱちりと目を開けた。
「……タツさんは」
「寝てます。大丈夫だって。明日の朝、息子さんが来るそうです」
「そうですか」
葛城さんは、深く息を吐いた。肩から、ふっと力が抜けるのがわかった。
「乗ってください」
助手席に座ると、ペンキと、木と、汗のにおいがした。この人の、においだ。
軽バンは、真夜中の道を走った。信号は、ほとんど黄色の点滅だった。
「タツさん、ずっとおばあちゃんのこと、好きだったんだって」
窓の外を見ながら、私は言った。
「……知ってました」
「知ってたの?」
「見てれば、わかります」
見ないふりして、全部見る。番台じゃなくても、そういう人はいるらしい。
「おばあちゃんも、知ってたのかな」
「たぶん」
「……言えばよかったのにね。タツさん」
「そうですね」
葛城さんは、前を見たまま、ハンドルを握り直した。
「言えばよかったのに、って」
ぽつりと、彼が言った。
「言うのは、簡単なんですけどね」
それが、タツさんのことなのか、ほかの誰かのことなのか、私にはわからなかった。
しばらく、二人とも黙っていた。
「……葛城さん、子どものころ、月見湯に来てたって」
ハンドルを握る手が、ほんの少しだけ、こわばった気がした。
「タツさんですか」
「うん。子猫みたいなガキだったって」
「ひどい言われようです」
「私も、夏はいつも月見湯にいたんだけど」
「……ガキのころの話です」
葛城さんは、それだけ言うと、ウインカーを出した。
「腹、減りませんか」
「え?」
軽バンが、道沿いの明かりのほうへ曲がった。二十四時間営業の、牛丼屋だった。
「焼きそばだけじゃ、足りなかったんで」
……話を、そらされた。
それはわかったけれど、追いかける気にはなれなかった。私のお腹も、ちょうど鳴ったところだったので。
午前二時半の牛丼屋で、浴衣の女と、Tシャツの大男が、並んで牛丼を食べた。
店員さんが、ものすごく何か聞きたそうな顔をしていた。
翌日の夕方。
開店してすぐ、沙耶さんが、一枚の画用紙を持って番台に来た。
「昨日は、すみませんでした。わたしたち、途中でいなくなっちゃって……。タツさん、大丈夫でしたか」
「大丈夫。今朝、息子さんが来て、明日には退院だって」
「よかった……。あの、これ、ひなたが、ちなつちゃんにって」
画用紙には、クレヨンで、絵が描いてあった。
青い海。黄色い桶。湯船に浸かる、たくさんの人。
そして、海の上に、大きな丸。
灰色の、月。
隅に、たどたどしい字で、こう書いてあった。
『おつきさま、げんきないね』
私は、画用紙を持ったまま、番台から、浴場のほうを見た。
ガラス戸の向こう。湯気の向こう。
色の抜けた、白い月が、静かにそこにあった。




