第12話 今、描いて
二日後、タツさんは退院した。
そして、釜場への出入りを禁止された。お医者さんに、大阪の息子さんに、そして葛城さんに。三方向から。
「冗談じゃねえ。俺ぁ五十年、あの釜と付き合ってきたんだぞ」
「だから、もう十分です」
葛城さんは、釜場の入り口に仁王立ちして、一歩も引かなかった。
「火の番は、俺と三森さんでやります。タツさんは、一番風呂に入ってください。それが仕事です」
「……ちっ。ペンキ屋のくせに、生意気な」
タツさんは、縁台にどっかりと座りこんで、扇子をばたばたやった。でも、その横顔は、どこかうれしそうだった。
ひなたちゃんの絵は、番台の横の柱に貼った。灰色の月。『おつきさま、げんきないね』。
お客さんが、のれんをくぐるたびに、ちらりとその絵を見ていく。
「ひなたちゃん、うまいねえ」
「この月、たしかに元気ないな」
何人かは、そう言って、浴場の壁を振り返った。
「で、線香花火は、どっちが勝ったんだい」
番台で湯銭を受け取りながら、キヨさんが、にやりと笑って聞いてきた。
「……なんで知ってるんですか」
「この町じゃね――」
「隠しごとは三日ともたない」
「わかってきたじゃないか」
キヨさんは、けらけらと笑いながら、女湯に入っていった。
ちなみに、勝負は、葛城さんの勝ちだった。私の火の玉が落ちたあと、彼の線香花火は、まだぱちぱちと燃えていたから。
そのあとすぐにキヨさんから電話が来たので、彼が何を言いかけたのかは、わからないままだ。
その夜、私は、祖母の部屋で、もう一度日誌を読み返していた。
何度読んでも、最後のページで手が止まる。一番風呂。まんまるの月の落書き。
ノートを閉じようとして、ふと、気がついた。
裏表紙の内側に、何か書いてある。
鉛筆の、うすい字。病院の震える字ではなく、元気だったころの、角ばった右上がりの字だった。いつ書いたのかはわからない。
『月見湯のことは、あたしが死んだら、千夏の好きにしな。あたしの言いつけなんか、守らなくていい』
私は、しばらく、その字を見つめていた。
それから、日誌を閉じて、浴場に下りていった。
しまい湯の時間だった。
八月も下旬に入ると、夜は少しだけ、秋のにおいがした。
天窓の向こうで、コオロギが鳴いている。
女湯の湯に肩まで浸かって、私は、壁の月を見上げていた。半分だけの、白い月。
「葛城さん」
「はい」
壁の向こうから、すぐに返事が来た。
「聞いてもいい?」
「どうぞ」
「壊される壁に、どうして絵を描くの?」
しばらく、返事がなかった。
湯の揺れる音がして、それから、ゆっくりと声がした。
「銭湯の絵って、美術館の絵と違うんです」
「違う?」
「誰も、見に来ないんで」
意外な答えだった。
「みんな、湯に入りに来る。絵を見に来る人なんて、いない。湯に浸かって、ぼうっとして、なんとなく壁を見る。それを、毎日。何年も。何十年も」
壁の向こうの声は、いつもより少しだけ、長くしゃべっていた。
「そういう絵、ほかにないんです。毎日、裸で、何も考えないで見てもらえる絵なんて」
私は、壁の月を見上げた。
子どものころ、毎晩この月を見ていた。見に来たわけじゃない。ただ、そこにあった。祖母の湯の熱さと、石けんのにおいと一緒に。
「でも、いつか、壊されるでしょう」
「銭湯は、毎年どんどん減ってます」
淡々とした声だった。
「俺が描いた壁も、もう十枚以上、なくなりました。建物ごと。描いて三年で壊されたのも、あります」
「……さびしくない?」
「消えるから、描くんです」
ちゃぷん、と湯が鳴った。
「どうせ、ずっと残るものなんて、ないんで」
その言い方が、なんだか、とても冷たくて、とても寂しく聞こえた。
「葛城さん」
「……はい」
「ずっと残るもの、信じたこと、ないの?」
また、長い沈黙。
コオロギの声だけが、天窓から降ってくる。
「俺の母は、信じてた人でした」
やがて、彼は言った。
「親父が出ていったあと、親父の茶碗を、ずっと台所の棚に置いてました。いつか帰ってくるからって。毎日洗って、拭いて、棚に戻して。十年」
私は、息を止めた。
「親父は、帰ってこなかったです。母が死んでも」
「……」
「だから、俺は、残る側の人間じゃないんです。待たないし、待たせない。描いて、湯に入って、次の町に行く。それが、性に合ってる」
性に合ってる。
そう言った声が、少しも、性に合っているようには聞こえなかった。
私は、湯の中で膝を抱えた。
「……私は、ずっと、残される側だった」
口に出してから、そうだったんだ、と自分で気づいた。
「父は、私が二十五のときに病気で亡くなって。母は、そのあと再婚して、札幌に行った。新しい家族と、ちゃんと幸せにしてる。……それはいいの。いいんだけど」
言葉を探した。
「みんな、先に行っちゃう。祖母も。私だけ、いつも、取り残される。それで、取り残されるのが怖くて、雅人さんの言うことを、全部聞いてたのかもしれない」
言い終えて、少し恥ずかしくなった。こんなこと、誰にも話したことがなかった。
壁の向こうは、静かだった。
ただ、ちゃぷん、と一度だけ、湯の揺れる音がした。
それが、なぜか、うなずいた音みたいに聞こえた。
「ねえ、葛城さん」
しばらくして、私は言った。
「前に、言ってたよね。見送るための絵もある、って」
「……言いました」
「おばあちゃんは、冬至で月見湯をしまって、そのあとで、壁を描き直してもらうつもりだった。いちばんきれいな壁で、見送りたいって」
「はい」
「でも、それって、誰も見ない絵になっちゃう」
私は、湯から少し体を起こした。
「おばあちゃんは、見送るより、見せたい人だったと思う。お客さんに。毎日、番台から『おかえり』って言って、湯に入ってもらって。いちばんきれいな壁を見せたかったのは、壁にじゃなくて、お客さんにだと思うの」
タツさんに。キヨさんに。ルミ子さんに。沙耶さんに。
ひなたちゃんに。
「葛城さん」
声が、自分でも驚くほど、まっすぐに出た。
「壁、今、描いて」
壁の向こうで、湯が大きく揺れた。
「冬至のあとじゃなくて。今。みんなが、毎日見られるうちに」
「……ハルさんは、冬至のあとって」
「おばあちゃんの日誌の裏表紙に、書いてあった」
私は、さっき見つけたばかりの言葉を、そのまま言った。
「月見湯のことは、あたしが死んだら、千夏の好きにしな。あたしの言いつけなんか、守らなくていい」
沈黙。
「だから、おばあちゃんの言いつけは、私が破る。怒られるのは、私」
お金のことは、考えていなかった。いや、考えてはいた。ペンキ代も、描くあいだのお休みも、全部赤字だ。でも、祖母はもう代金を払ってある、と書いていた。だったら、今描いても、冬至のあとに描いても、同じことだ。
違うのは、見る人がいるか、いないかだけ。
壁の向こうで、湯の音が止まった。
長い、長い沈黙だった。
コオロギが、何度も鳴いた。
それから。
ふっ、と、小さく息を吐く音がした。
笑ったのだ、と思った。
「……ハルさんの孫ですね」
「よく言われる。最近」
「タツさんたちに?」
「うん」
壁の向こうで、ざばっと湯が鳴った。立ち上がったのだ。
「十五夜に、間に合わせます」
「十五夜?」
「九月の。月見湯の月なんで」
声が、いつもより少しだけ、はずんでいた。
「十五夜の日に、新しい月を上げたい」
新しい月。
ひなたちゃんの、灰色の月が、黄色く光る。
その光景が目に浮かんで、私は、湯の中で、思わず両手を握りしめた。
「三森さん」
「はい」
「……下絵、一緒に考えてくれますか」




