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第13話 海の下絵

「この絵を描いたのは、俺の師匠です」


 翌朝、釜場で薪を割りながら、葛城さんが言った。


「早乙女寛治。四十年前、ハルさんとじいさんに頼まれて、あの壁を描いた」


「葛城さんの、師匠」


「日本でいちばん、月を描くのがうまい人です」


 そう言った葛城さんの顔は、少しだけ誇らしそうだった。


「普通、銭湯の絵っていったら、富士山なんです。でも、月見湯の壁は海と月でしょう。早乙女さんが、本物の海を見に行って、描いたそうです」


「本物の海?」


「外房の、月ヶ浜っていう小さな漁港。そこで、海から昇る月を見て、描いた」


 葛城さんは、割った薪を積み上げて、軍手をはずした。


「描き直すなら、同じ海を見てからにしたいんです」


「うん」


「月曜、行きませんか」


「……え?」


「月ヶ浜」


「ふ、二人で?」


「下絵、一緒に考えるって」


「言った。言ったけど」


 葛城さんは、首をかしげた。なぜ私が動揺しているのか、本気でわかっていない顔だった。


 ……この人は、たぶん、こういう人なのだ。




 月曜日。定休日。


 朝七時に、白い軽バンで月見湯を出た。


 助手席は、思ったより狭かった。後ろの荷台では、ペンキの缶が、カーブのたびにかたかたと鳴る。


「ラジオ、つけていいですか」


「どうぞ」


 葛城さんがつまみを回すと、流れてきたのは、演歌だった。こぶしの効いた、港町の歌。


「……演歌?」


「運転中は、これが一番、眠くならないんです」


「意外」


「よく言われます」


 よく言われるんだ。この人の「よく言われます」は、もう何回目だろう。


 高速を降りて、田んぼの中の道を走る。窓を開けると、稲の青いにおいがした。


 途中の道の駅で、休憩した。葛城さんは、瓶の牛乳を二本買って、一本を一息で飲み干した。


「牛乳、好きなの?」


「銭湯の上がりは、牛乳なんで」


「今、銭湯上がりじゃないけど」


「体が、そう覚えてるんです」


 二本目も、一息だった。


 お昼用に、私はおにぎりと卵焼きと、それから、きゅうりの浅漬けを持ってきていた。わざと。


 車の中で、包みを開ける。葛城さんは、おにぎりと卵焼きに手を伸ばして――きゅうりには、手を伸ばさなかった。


「やっぱり」


「……何がですか」


「きゅうり、嫌いでしょ」


 葛城さんは、卵焼きをくわえたまま、固まった。


「最初の日も、浅漬けだけ残してた」


「……気づいてたんですか」


「番台は、見ないふりして全部見るの」


 葛城さんは、しばらく黙って卵焼きを咀嚼していた。それから、ぼそりと言った。


「……青くさいんで」


「ペンキのにおいは平気なのに?」


「それとこれとは、違います」


 私は、声を出して笑った。


 三十二歳の、身長百八十センチ超えの男の人が、きゅうりが青くさくて食べられない。


 なんだか、それだけで、少し、この人のことがわかった気がした。




 月ヶ浜は、本当に小さな漁港だった。


 岬に白い灯台が立っていて、その下に、色とりどりの漁船が並んでいる。家々の屋根は低く、潮風で白っぽくなっていた。


 漁協の食堂で、海鮮丼を食べた。葛城さんは大盛りを頼んで、あっという間に平らげて、おかわりを頼もうとして、私に止められた。


 食堂のおばちゃんが、お茶を注ぎ足しに来て、葛城さんの横に置いたスケッチブックに目をとめた。


「あら、絵描きさん?」


「ペンキ絵を、描いてます。銭湯の」


「銭湯の!」


 おばちゃんは、ぱちんと手を叩いて、奥の座敷に向かって叫んだ。


「じいちゃん! 銭湯の絵描きさんだって!」


 奥から、日に焼けたおじいさんが、のそのそと出てきた。漁師さんらしい、太い腕をしていた。


「銭湯の絵描きってのは、まだいるのかい」


「……数えるほどですけど」


「四十年くらい前にな、来たんだよ。東京から、銭湯の絵描きってのが」


 葛城さんの箸が、止まった。


「防波堤の先っぽに座りこんで、三日も月を待ってたっけ。初日は雲、二日目は雨。三日目にやっと晴れて、月が昇ったらよ、なんだか、泣きながら描いてたぜ。変な男だと思ったよ」


「……早乙女寛治、っていいませんでしたか」


「名前なんざ覚えちゃいねえ。でも、ねじり鉢巻きで、口が悪かった」


 葛城さんは、少しだけ、笑った。


「その人です。……俺の師匠です」


 おじいさんは、目を丸くして、それから、葛城さんの肩をばしんと叩いた。


「そうかい! あの男、元気かい」


「元気です。口の悪さは、変わってません」


「そりゃあいい」


 おじいさんは、がははと笑って、「今夜は晴れるぞ。月、見ていきな」と言いながら、奥へ戻っていった。


 葛城さんは、しばらく、窓の外の海を見ていた。


 四十年前、同じ海を、同じように見ていた人がいた。そのことが、なんだか、とてもうれしそうだった。


 午後は、することがなかった。


 月が昇るのは、夕方の六時すぎ。それまで、海を見ているしかない。


 軽バンを海沿いの空き地に止めて、スライドドアを開け放した。潮風が、車の中を吹き抜けていく。


 葛城さんは、荷台の端に腰かけて、スケッチブックを広げた。鉛筆で、海を描いている。岬を描いている。灯台を描いている。


 私は、助手席を倒して、それを眺めていた。


 波の音。カモメの声。遠くの漁船のエンジン。


 ――いつの間にか、眠っていたらしい。


 目を開けると、日が傾いていた。


 葛城さんは、さっきと同じ姿勢で、スケッチブックに向かっていた。ただ、鉛筆の動きが、さっきより遅い。


 何を描いているんだろう。


 体を起こしかけたとき、葛城さんが、こちらを振り向いた。


 そして、ぱたん、とスケッチブックを閉じた。


「……起きたんですか」


「今、何描いてたの」


「海です」


「ほんと?」


「海です」


 二回言った。


 耳が、少しだけ赤かった。


 ……まさか、ね。




 夕方の六時すぎ。


 私たちは、防波堤の先に並んで座っていた。


 空が、ゆっくりと藍色に沈んでいく。灯台に、明かりがついた。


「来ます」


 葛城さんが、小さく言った。


 水平線の一点が、ぼうっと明るくなった。


 最初は、オレンジ色の、細い弧だった。それが、少しずつ、少しずつ、海の中からせり上がってくる。


 大きい。


 信じられないくらい、大きい月だった。


 オレンジ色が、だんだん金色に変わっていく。月の真下の海に、光の道ができた。きらきらと揺れる、まっすぐな金色の道。それが、水平線から、私たちの足もとまで続いていた。


「……きれい」


 それしか、言えなかった。


「月の道、っていうんです」


 葛城さんの手は、もう動いていた。


 スケッチブックの上を、鉛筆が走る。速い。さっきまでの、ゆっくりした線とはまるで違う。月の輪郭。海の光。岬の影。灯台の明かり。迷いのない線が、次々と紙の上に生まれていく。


 私は、月を見るのを忘れて、その横顔を見ていた。


 真剣な目。少し開いた唇。額にかかる髪。月の光が、その輪郭を、金色に縁取っていた。


 この人は、こういう顔で、絵を描くんだ。


「……この月を、毎日見られるお風呂って」


 私は、ぽつりと言った。


「すごく、贅沢だね」


 葛城さんの鉛筆が、一瞬だけ止まった。


「はい」


 それから、また動き出した。


 月が、すっかり白く高くなるまで、彼は描き続けた。




「……あれ」


 軽バンに戻って、エンジンをかけようとした葛城さんが、眉をひそめた。


 キーを回す。


 かち、かち、と、乾いた音がするだけだった。


「……バッテリー、上がってます」


「えっ」


「昼間、ドア開けっぱなしで、室内灯がついてたみたいです」


 私たちは、顔を見合わせた。


 ロードサービスに電話をすると、今夜は事故の対応が重なっていて、到着は明日の朝八時になるという。


 電車で帰ろうにも、いちばん近い駅まで歩いて一時間。しかも、最終はもう出たあとだった。


「……泊まるしか、ないですね」


 港の近くに、一軒だけ、民宿があった。


 『民宿 はまゆう』


 木の看板の下の引き戸を開けると、奥から、腰の曲がった小さなおばあさんが出てきた。


「あらあら、いらっしゃい」


「すみません、二部屋、空いてますか」


 葛城さんが言うと、おばあさんは、私と葛城さんを、上から下までゆっくりと見比べた。


 それから、にっこりと笑った。


「ご夫婦? 一部屋しか空いてないけど」

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