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第14話 ひとつ部屋の夜

「違います!」


 私と葛城さんの声が、きれいに重なった。


 民宿のおばあさんは、目を丸くして、それから、ころころと笑った。


「あらまあ。息ぴったりじゃないの」


 息ぴったりなのは、否定のほうなのに。


「一部屋しかないけど、どうする? お布団は二組あるからね」


 葛城さんが、私を見た。私も、葛城さんを見た。


「……俺は、車で寝ます」


「バッテリー上がってるのに? 夜、冷えるよ。このへんは」


 おばあさんが、ぴしゃりと言った。


「それに、うちの前の空き地で寝られたら、ご近所に何て言われるか。泊まってきなさい。ほら、二階の奥。海が見えるいい部屋だよ」


 有無を言わさぬ口調だった。祖母に、少し似ていた。




 部屋は、六畳の和室だった。


 窓の向こうに、さっきの海が見える。月の道は、もう白い光に変わっていた。


 おばあさんは、布団を二組、敷いてくれた。ぴったりと、くっつけて。


 おばあさんが出ていくなり、葛城さんは、無言で片方の布団の端をつかんで、ずるずると部屋の反対側の壁際まで引きずっていった。


 六畳の端と端。それでも、たいした距離じゃない。


「……これで」


「……うん」


 なんとも言えない空気が、部屋に流れた。


 風呂は、一階の小さな家族風呂だった。私が先に入った。檜の湯船は、月見湯の四十三度とは比べものにならないくらい、ぬるかった。


 部屋に戻ると、葛城さんは、窓辺に座ってスケッチブックを見ていた。


「お先に」


「……はい」


 私の顔を見て、葛城さんは、すぐに目をそらした。


 民宿の浴衣を着ていたからだと思う。紺と白の、旅館によくある浴衣。髪はまだ濡れていて、タオルで巻いていた。


 葛城さんが風呂から戻ってきたとき、今度は私が目をそらす番だった。


 民宿の浴衣が、葛城さんには、明らかに小さかった。


 すねが、半分くらい出ている。袖からは、手首どころか、腕の半分が出ている。帯の位置が、妙に高い。


「……っ」


「笑ってもいいですよ」


「笑って、ない」


「肩、震えてます」


 だめだった。私は、畳に突っ伏して笑った。


 葛城さんは、つんつるてんの浴衣のまま、憮然とした顔で窓辺に座り直した。でも、その口の端も、少しだけ上がっていた。




 夕食は、部屋に運んでもらった。


 金目鯛の煮つけ。地魚のお刺身。あおさの味噌汁。


 それから、おばあさんが「サービスね、新婚さん」と、地酒の小瓶を置いていった。


「違います」


 また、二人の声が重なった。おばあさんは、聞こえないふりをして出ていった。


 地酒は、甘くて、すっきりしていた。


 一杯、二杯。


 話は、いろんなところに転がった。


「早乙女さんって、どんな師匠だったの?」


「怖かったです」


 葛城さんは、即答した。


「弟子入りして最初の五年は、空しか描かせてもらえなかった」


「空だけ?」


「銭湯の絵は、八割が空なんで。空が描けないやつに、山は描かせないって」


「五年も」


「毎日、空です。青のグラデーション。ローラーで、上から下に、濃い青から薄い青へ。少しでもむらがあると、全部塗りつぶされました」


 その話を、葛城さんは、少しも嫌そうじゃなく、むしろ懐かしそうに話した。


 私も、話した。


 雅人さんと出会ったころの話。最初は、本当に優しかったこと。プロポーズは、夜景の見えるレストランで、指輪の箱を開けて。私は、世界でいちばん幸せだと思った。


「どこで、間違えたんだろうね」


 お猪口を見つめながら、私は言った。


「たぶん、どこでも間違えてないんです」


 葛城さんが、静かに言った。


「少しずつ、だったんでしょう。一回一回は、間違いに見えないくらい」


 そうだった。


 一回一回は、本当に小さなことだったのだ。


「……葛城さんって」


「はい」


「ずるいね」


「何がですか」


「普段しゃべらないくせに、たまに、そういうこと言う」


 葛城さんは、何も言わずに、お猪口を口に運んだ。




 夕食の片づけが終わると、おばあさんが部屋の明かりを消していった。「月がきれいだから、消しといたほうがいいよ」と言って。


 窓から差しこむ月明かりだけになった。


 葛城さんは、窓辺で、スケッチブックを開いていた。夕方の、月の絵。月明かりで、線がうっすらと見える。


「見せて」


 私は、彼の隣に座った。


 浴衣の肩が、触れた。


 スケッチブックをのぞきこむ。何枚も、何枚も、月の絵があった。昇りはじめの月。水平線を離れた月。光の道。どれも、速い線なのに、どれも、光っているように見えた。


「すごい」


「まだ、下絵です」


「すごいよ」


 お酒のせいだったと思う。


 気がついたら、私は、彼の肩に、頭をもたせかけていた。


 葛城さんの体が、びくりと固まったのがわかった。


 でも、彼は動かなかった。


 浴衣ごしに、体温が伝わってくる。石けんのにおいと、まだ少しだけ残る、ペンキのにおい。波の音。月明かり。


 私は、顔を上げた。


 すぐそこに、彼の顔があった。


 月の光の中で、切れ長の目が、まっすぐに私を見下ろしていた。いつもの能面じゃなかった。何かを、必死にこらえているような顔だった。


 近い。


 息が、かかるくらい。


 私は、目を閉じた。


 ――額に、手のひらが触れた。


 大きくて、少しざらついた手が、私の額を、そっと押し戻していた。


「……酔ってるでしょう」


 目を開けると、葛城さんは、もう顔をそむけていた。


「酔って、ない」


「酔ってます」


 低い声だった。


「それに」


 額から、手が離れた。


「俺は、出ていく人間なんで」


 顔が、一気に熱くなった。


 お酒のせいじゃない熱さだった。


「……ごめんなさい」


 私は、立ち上がった。逃げるように、部屋の反対側の自分の布団に潜りこんで、壁のほうを向いた。


 何をしてるんだろう、私。


 三十五にもなって。離婚して三か月で。祖母の銭湯の、年下の、絵描きの人に。


 恥ずかしくて、情けなくて、布団の中で、ぎゅっと目をつぶった。


 出ていく人間。


 それは、私を拒むための言葉だったんだろうか。


 それとも――。




 月明かりが、少しずつ、部屋の中を移動していく。


 波の音が、規則正しく、窓の外で寄せては返す。


 部屋の反対側から、身じろぎの音がした。葛城さんも、眠れないのだ。


 どれくらい、時間がたったかわからない。


「……千夏さん」


 暗闇の中で、声がした。


 心臓が、止まりそうになった。


 千夏さん。


 初めて、名前を呼ばれた。


 私は、返事ができなかった。声を出したら、何かがあふれてしまいそうだった。


「……おやすみなさい」


 それきり、部屋は静かになった。


 私は、朝まで眠れなかった。


 たぶん、部屋の反対側の人も。




 翌朝、八時ちょうどに、ロードサービスの車が来た。


 バッテリーをつないでもらうと、軽バンのエンジンは、何事もなかったように、ぶるんと目を覚ました。


 民宿のおばあさんは、見送りに出てきて、私にだけそっと耳打ちした。


「いい人じゃないの。逃がしちゃだめよ」


 ……だから、違うんです。


 帰りの車の中で、私たちは、何事もなかったように話した。


 昨日の海のこと。月の色のこと。ペンキの青を、何色混ぜるか。


 何事もなかったように。


 ただ、ひとつだけ、変わったことがあった。


「千夏さん、下絵、見ますか」


「千夏さん、そこの道の駅、寄りますか」


「千夏さん」


 葛城さんは、ずっと、私をそう呼んだ。


 私は、そのたびに、窓の外を見た。顔を見られたくなかった。




 汐見町に着いたのは、昼前だった。


 商店街の角を曲がったところで、葛城さんが、ブレーキを踏んだ。


 月見湯の前に、車が一台、止まっていた。


 黒くて、つやつやした、大きな外車。この下町には、まるで似合わない車。


 その車に、明るいグレーのスーツを着た男の人が、もたれかかっていた。


 背が高くて、姿勢がよくて、品のいい腕時計をしている。


 男の人が、こちらに気づいて、顔を上げた。


 そして、微笑んだ。


 知っている微笑みだった。


 八年間、毎日見ていた微笑み。


 軽バンの窓ごしに、その唇が動くのが見えた。


「――久しぶり、千夏」

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