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第15話 完璧な男

 軽バンを降りると、雅人さんは、ゆっくりとこちらに歩いてきた。


 明るいグレーのスーツ。皺ひとつないシャツ。磨き上げられた革靴。この下町の、ひび割れたアスファルトの上で、彼だけが、雑誌から切り抜いて貼りつけたみたいに浮いていた。


「元気そうだね」


「……どうして、ここに」


「柴田くんから、住所を聞いてね。近くまで来たから、顔を見に寄ったんだ」


 近くまで来た。この町に、雅人さんが用のある場所なんて、ひとつもないはずなのに。


 雅人さんの視線が、私の後ろの軽バンに移った。運転席から降りてきた葛城さんを、上から下まで、ゆっくりと眺める。


「こちらは?」


「葛城です」


 葛城さんは、短く名乗った。


「ああ、君がペンキ屋さんか。ハルさんの絵描きさんだよね。柴田くんから聞いてるよ」


 雅人さんは、にこやかに右手を差し出した。


 葛城さんは、自分の手のひらを見下ろした。ペンキと、車の油で汚れていた。


「……汚れてるんで」


「ああ、そうだね。失礼」


 雅人さんは、差し出した手を、何事もなかったように引っこめた。それから、私に向き直って、少しだけ首をかしげた。


「朝帰りかい?」


 微笑んだまま、言った。


 顔が、かっと熱くなった。


「ち、違います。仕事で、下絵を描きに、外房まで行ってて、車が故障して――」


「冗談だよ。そんなに慌てなくていい」


 雅人さんは、くすくすと笑った。


 昔から、こうだった。冗談だよ、と言って、相手が言い訳をするのを、楽しそうに眺める。そして私は、いつも、必死に言い訳をしてしまう。何も悪いことをしていないのに。


 葛城さんは、何も言わなかった。


 ただ、軽バンの荷台から、スケッチブックとペンキの缶を、黙々と下ろしはじめた。


「おや」


 路地の奥から、買い物袋を提げたキヨさんが歩いてきた。縁台のほうには、いつの間にか、タツさんも座っている。


「キヨさんですよね」


 雅人さんは、すかさずキヨさんに笑顔を向けた。


「千夏から、よくお話を伺っていました。いつも妻が――いえ、元妻が、お世話になって」


 キヨさんは、雅人さんの顔を、じいっと見上げた。


 それから、ふん、と鼻を鳴らした。


「あたしは、あんたの話なんか、一度も聞いたことないね」


 雅人さんの笑顔が、ほんの一瞬だけ、固まった。




 話がある、と言われた。


 断ればよかった。わかっている。でも、私は、彼を二階の祖母の部屋に通してしまった。八年間の習慣は、本当に、なかなか消えてくれない。


「懐かしいな」


 雅人さんは、六畳間を見回した。


「結婚の挨拶に来たとき以来だ。あのとき、おばあさんにお茶を出してもらったっけ」


 ――本当は、それ以来ではなかった。


 彼は去年、私に黙って、一人でこの部屋に来ていた。そして、祖母に塩をまかれて追い返されていた。私がそれを知るのは、もう少しあとのことだ。


 雅人さんは、持ってきた花束を、文机の上に置いた。白い百合。大きな花が、六本。部屋じゅうに、甘く重たいにおいが広がった。


 百合は、雅人さんの好きな花だった。


 記念日にも、誕生日にも、彼はいつも百合を買ってきた。


「千夏。単刀直入に言うよ」


 雅人さんは、座布団に正座して、私の目をまっすぐに見た。


「柴田くんが上と掛け合って、ここの買取額を、一億まで上げてもらった」


「一億……」


「破格だよ。この立地、この建物で。僕が、かなり無理を言ったんだ」


 君のために、と、その目が言っていた。


「それに」


 雅人さんは、少しだけ声を落とした。


 そして、膝の上に置いていた私の手に、そっと自分の手を重ねた。


「……やり直さないか」


 息が、止まった。


「あの人とは、終わったんだ」


 あの人。


 その言葉が、遅れて、胸に届いた。


 離婚の話し合いのとき、恵が何か言いかけて、私が止めたことがあった。もういいの、聞きたくない、と。聞いてしまったら、自分がもっとみじめになる気がしたから。


 雅人さんは、それを、私が知っている前提で話していた。


「君がいなくなって、わかったんだ。僕には、君が必要だって」


 重ねられた手が、私の手を、やさしく撫でた。


 そして、その指が、ふと止まった。


「……荒れてるね、手」


 雅人さんは、私の手のひらを裏返して、眉をひそめた。


 薪割りのマメ。掃除の洗剤で、かさかさになった指。短く切りそろえた爪。


「爪も、切ったの?」


「……はい」


「君らしくないよ」


 やさしい声だった。心から、残念そうな声だった。


「日にも焼けたね。髪も、ちょっとぱさついてる。こんな暮らし、君には似合わないよ、千夏」


 私は、とっさに手を引っこめて、膝の下に隠した。


 隠してから、気づいた。


 私、今、恥ずかしいと思った。


 昨日まで、ちっとも恥ずかしくなかった手を。


「僕のところに戻ってくれば、全部やってあげる。ここの売却の手続きも、何もかも。君は、また前みたいに、家できれいにしていればいいんだ」


 また、前みたいに。


 あの、きれいな部屋の、きれいな檻の中に。


 何か言わなきゃ、と思うのに、喉が締めつけられて、声が出なかった。背中が、勝手に丸くなっていく。体が、どんどん小さくなっていく気がした。


 そのとき。


「千夏さん」


 ふすまの向こうから、声がした。


 すっとふすまが開いて、葛城さんが顔を出した。頬に、黒い煤がついていた。釜場から、そのまま上がってきたらしい。


「薪、足りないんで。解体屋さんに、電話お願いできますか」


 薪は、昨日の朝、裏に山ほど積んであったはずだった。


「ああ、ペンキ屋さん」


 雅人さんが、振り向いて、にっこりと笑った。


「悪いね。今、大事な話をしてるんだ」


「すみません。開店の準備があるんで」


 葛城さんは、謝りながら、一歩も動かなかった。ふすまに手をかけたまま、そこに立っていた。


 雅人さんは、しばらく葛城さんを見ていた。それから、私を見た。


「……千夏さん、か」


 小さく、つぶやいた。


「ずいぶん、親しいんだね」


 微笑んでいた。でも、目は、笑っていなかった。柴田さんと、同じ目だった。


 雅人さんは、ゆっくりと立ち上がった。


「今日は、帰るよ。考えておいて」


 そして、部屋を出る直前、私の頭に、ぽん、と手を置いた。


 子どもにするみたいに。


「君のためを思って、言ってるんだよ」




 外車のエンジン音が、商店街の向こうへ遠ざかっていった。


 私は、祖母の部屋の真ん中に、座りこんだままだった。


 手が、震えていた。


 とん、と、目の前に湯呑みが置かれた。


 ほうじ茶だった。湯気が、ふわりと立っている。


「……どうぞ」


 葛城さんが、向かいにあぐらをかいて座った。


 両手で湯呑みを包む。熱い。その熱さで、指先の震えが、少しずつおさまっていく。


「……薪、足りてるよね」


「足りてます」


「うそ、ついたんだ」


「つきました」


 葛城さんは、悪びれもせずに言った。


 私は、ほうじ茶を一口飲んだ。香ばしくて、少し苦い。


 葛城さんの視線が、文机の上の百合に向いた。


「これ、どうしますか」


「……」


「飾りますか」


 私は、首を横に振った。


「百合、嫌いなの」


 自分の口から出た言葉に、自分で驚いた。


「においが、だめで。頭が痛くなるの。……八年間、言えなかった」


 毎年、記念日のたびに、ありがとう、うれしい、と言って、花瓶に生けた。頭痛薬を飲みながら。


 葛城さんは、少し黙ってから、百合の花束を持ち上げた。


「じゃあ、ルミ子さんの店に持っていきます。スナックなら、映えるんで」


「……うん」


 なんだか、急におかしくなって、私は少しだけ笑った。


 ルミ子さんの店のカウンターに、雅人さんの百合が飾られる。ルミ子さんは、きっと、何も聞かずに「あら、きれい」と言うだろう。




 その夜のしまい湯。


 私は、湯に浸かって、自分の手のひらを見つめていた。


 マメと、ひび割れと、短い爪。


「……千夏さん」


 壁の向こうから、声がした。


「あの人の前だと」


「うん」


「千夏さん、背が縮む」


 私は、湯の中で、少し笑った。


「……縮んでた?」


「十センチくらい」


「そんなに」


「見てて、わかりました」


 見ないふりして、全部見る。この人は、番台にいなくても、そうなのだ。


「私ね」


 湯の表面を、指でなぞりながら言った。


「あの人の前に立つと、自分が何も持ってない気がするの。空っぽで、何もできなくて、あの人がいないと、何も決められない人間みたいな」


「持ってます」


 すぐに、返事が来た。


「え?」


「薪、割れるし」


 壁の向こうで、ちゃぷん、と湯が鳴った。


「金魚、すくえるし。ポスター描けるし。お客さんの顔、全員覚えてるし。キヨさんの背中、ちゃんと流せるし」


 ひとつずつ、数えるみたいに。


「卵焼き、うまいし」


 それきり、彼は黙った。


 私は、湯の中で、両手で顔を覆った。


 泣いているのか、笑っているのか、自分でもわからなかった。たぶん、両方だった。


「……ありがとう」


「本当のことなんで」


 しばらく、湯の音だけがしていた。


 それから、葛城さんが、少し改まった声で言った。


「千夏さん」


「うん」


「九月の最初の月曜と火曜、休みにしてください」


「月曜と、火曜?」


「描きます」


 壁の向こうの声が、静かに、でもはっきりと、言った。


「新しい月。……十五夜に、間に合わせます」

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