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第16話 ペンキの匂い

 『臨時休業のお知らせ 九月七日(月)・八日(火)は、壁の絵を描き直すため、お休みをいただきます。十五夜に、新しい月が昇ります。月見湯』


 格子戸に貼り紙をしたのは、日曜の夜だった。


 月曜の朝六時。浴場の湯は、前の晩のうちに全部抜いてあった。空っぽの湯船は、思ったより深くて、広かった。


「足場は、鳶の仕事だ」


 朝いちばんにやってきたタツさんは、そう言って、勝手に脚立を組みはじめた。


「タツさん、無理しないで――」


「釜場じゃねえ。医者が禁止したのは釜場だけだ」


 屁理屈だった。でも、タツさんの手つきは、見とれるくらい確かだった。湯船のふちに脚立を立てて、その上に、長い足場板を渡す。ロープで縛る。揺すって確かめる。あっという間に、湯船の上に、細い橋みたいな足場ができあがった。


「どうだ、ペンキ屋」


「……完璧です」


「当たりめえだ」


 タツさんは、満足そうに腰をとんとんと叩いて、縁台へ戻っていった。去りぎわに、ちらりと壁の月を見上げた。


 何も言わなかった。でも、その目は、長いあいだ、古い月の上にとどまっていた。




 描きはじめる前に、葛城さんは、古い壁の写真を撮った。


 何枚も、何枚も。全体を。部分を。月を。波を。岬を。


 それから、足場板に上がって、壁の右下の隅に顔を近づけた。


「千夏さん。ここ」


 呼ばれて、私も足場に上がった。足場板が、ぎしりと鳴る。


 葛城さんが指さしたところに、小さな字があった。色褪せて、ほとんど読めない。でも、目をこらすと、わかった。


 『寛治』


「早乙女さんの、サインです」


 葛城さんは、その字に、そっと手のひらを当てた。


 しばらく、そうしていた。


「……塗りますよ、早乙女さん」


 小さく、壁に向かって言った。


 私も、なんとなく、頭を下げた。四十年、祖母の銭湯を見守ってくれた月に。


 ありがとうございました。




 それからは、ひたすら、地味な作業だった。


 壁を洗剤で洗う。浮いて剥がれかけたペンキを、へらでこそげ落とす。ひび割れに、パテを詰める。乾いたら、やすりをかける。


 白い粉が、雪みたいに舞った。


 私は、祖母の手ぬぐいを頭に巻いて、いちばん古いTシャツを着て、葛城さんの横で、へらを動かし続けた。


 お昼は、空っぽの洗い場のタイルの上で食べた。おにぎりと、卵焼きと、ちくわの磯辺揚げ。


 きゅうりは、入れなかった。


「……入ってない」


「入れなかった」


「……ありがとうございます」


 葛城さんは、少し照れたように、おにぎりにかぶりついた。


 午後三時。


 壁の下地が、ようやくできあがった。まっさらな、白っぽい壁。四十年分の月と海が、全部消えて、のっぺりとした白が広がっていた。


 なんだか、少し、さびしかった。


「ここからです」


 葛城さんは、ペンキの缶を開けた。


 バケツに、濃い青を注ぐ。群青、というのだと教わった。そこに、別の缶から、少しずつ黒を足す。白を足す。棒でぐるぐるとかき混ぜる。


 色が、変わっていく。


 夜の色だった。深い深い、藍色。


「空は、上から描きます」


 葛城さんは、ローラーをバケツに浸して、足場の上に立った。


 そして、壁のいちばん上に、ローラーを当てた。


 ざあっ。


 一瞬で、白い壁に、藍色の帯が走った。


 ざあっ。ざあっ。


 ローラーが、壁の上を、右から左へ、左から右へ、迷いなく往復する。腕が大きく動く。肩が動く。足場板の上を、横歩きで移動しながら。


 まるで、踊っているみたいだった。


 塗りながら、葛城さんは、片手で別のバケツのペンキを足していく。少し明るい青。もう少し明るい青。上から下へ、色が少しずつ薄くなっていく。


 空だった。


 さっきまで白い壁だった場所に、あっという間に、夜の空が広がっていた。


 上のほうは、吸いこまれそうなくらい深い藍色。下へいくほど、少しずつ明るくなって、水平線の近くでは、ほんのりと、桃色がかった薄い青になっていた。


 日が沈んだばかりの空。


 月ヶ浜で、月が昇る前に見た、あの空だった。


「……五年、空ばっかり描いてたって」


 足場の下から見上げながら、私はつぶやいた。


「こういうこと、なんだね」


 葛城さんは、ローラーを止めて、振り向いた。


 汗が、こめかみを伝っていた。頬に、藍色のペンキが、一本線になってついていた。


 そして、笑った。


 ひなたちゃんに向けるのと同じ、目尻がくしゃっとなる笑い方で。


「はい」




 二日目。火曜日。


 朝から、海を描いた。


 空の下に、もっと深い、緑がかった紺色を塗る。そこに、白い刷毛で、波の線を入れていく。右手に、黒い岬。岬の先に、白い灯台。


 昼過ぎ、葛城さんが、足場の上から私を呼んだ。


「千夏さん」


「なに?」


「下のほうの海、塗ってみますか」


「えっ」


 私は、手に持っていた雑巾を落とした。


「む、無理、無理。私、絵なんて」


「ポスター、描いてたじゃないですか」


「あれとこれとは」


「波の、いちばん手前のところだけです。お湯に隠れて、ほとんど見えないとこ」


 葛城さんは、低いほうの足場板に下りてきて、私に、幅の広い刷毛を差し出した。


 おそるおそる、受け取る。


 足場板に上がる。足が震える。目の前に、深い紺色の海が広がっている。


「白を、少しだけつけて」


 言われたとおりに、刷毛の先に白いペンキをつけた。


「横に。波は、横に流れるんで」


 刷毛を、壁に当てた。


 手が、震えた。線が、よれた。


「あ……」


「大丈夫です」


 後ろから、声がした。


 葛城さんが、私のすぐ後ろに立っていた。


 大きな手が、刷毛を持つ私の右手を、上から包んだ。薪割りの日と同じように。


 でも、あの日とは、何かが違った。


 背中に、彼の胸が触れていた。Tシャツごしに、体温が伝わってくる。息づかいが、耳のすぐ後ろで聞こえる。ペンキのにおいと、汗のにおい。


「力、抜いて」


 低い声が、耳たぶに触れた。


「手首じゃなくて、腕全体で。……そう」


 二人の手が、一緒に動いた。


 すうっ、と、白い線が、紺色の上を流れた。


 波だった。


 小さな、でも、ちゃんと波の形をした、白い線。


「……描けた」


「描けましたね」


 振り向こうとした。


 近すぎた。


 振り向いた私の頬が、彼の顎に、こつんと当たった。


「っ」


「……すみません」


 葛城さんは、ぱっと手を離した。一歩下がろうとして、足場板が、ぐらりと揺れた。


「わっ」


「危な――」


 彼の腕が、とっさに私の腰を支えた。


 足場板の上で、二人で固まった。


 すぐ目の前に、彼の顔があった。民宿の夜と同じ距離。


 ぽたり。


 何かが、私の頬に落ちた。


 見上げると、葛城さんの持っていた刷毛から、白いペンキがしずくになって垂れていた。


「……あ」


 葛城さんは、刷毛を持っていないほうの手の親指で、私の頬のペンキを、そっとぬぐった。


 指が、頬の上で、止まった。


 一秒。二秒。


 私は、とっさに、自分の刷毛を持ち上げた。


 そして、彼の鼻の頭に、ちょん、と紺色のペンキをつけた。


「……」


「仕返し」


 葛城さんは、寄り目になって、自分の鼻の頭を見た。


 それから、ぷっと吹き出した。


 私も、笑った。


 空っぽの浴場に、二人分の笑い声が、わんわんと反響した。




 夕方までに、葛城さんは、海を仕上げた。


 波の白い線。岬の黒い影。灯台の明かり。沖に浮かぶ、小さな漁船のオレンジ色の灯り。そして、水平線から手前へ、まっすぐに伸びる、金色の光の道。


 月の道。


 でも、その道の先には、まだ何もなかった。


 水平線の上、男湯と女湯を仕切る壁の、ちょうど真上。そこだけが、まあるく、白いまま残されていた。


「月は、描かないの?」


「十五夜の朝に、入れます」


 葛城さんは、刷毛をバケツに入れながら言った。


「月見湯の月なんで。十五夜の日に、上げたい」


 白い丸を見上げる。


 十五夜まで、あと二週間。お客さんは、この月のない海を見ながら、湯に浸かるのだ。


 ……それはそれで、悪くないかもしれない。私は、頭の中で、次の月見湯だよりの見出しを考えはじめていた。




 夜の十時。


 片づけを終えて、私たちは、男湯の脱衣所のベンチに並んで座っていた。


 番台の冷蔵庫から出した、瓶の牛乳。二人で、一本ずつ。


「……疲れた」


「疲れましたね」


 体じゅうが、ペンキと、汗と、白い粉まみれだった。指の先まで、だるい。


 牛乳を飲み終えたら、しまい湯――いや、今日は湯がないんだった。


 そんなことを考えているうちに、まぶたが重くなってきた。


 肩が、何かにもたれかかった。


 あたたかい。


 ああ、葛城さんの肩だ、とわかった。わかったけれど、もう、体を起こす力が残っていなかった。


 彼は、動かなかった。


 ――どれくらいたっただろう。


 半分、眠っていた。半分だけ、目が覚めていた。


 頬に、何かが触れた。


 指だった。ペンキのにおいのする、少しざらついた指。その指が、私の頬にかかっていた髪を、そっと、そっと、耳にかけた。


 壊れものに触れるみたいに。


 私は、目を開けなかった。


 開けたら、この指が、離れてしまう気がした。


 だから、寝たふりを続けた。


 頭の上で、かすかな声がした。


 ほとんど、息のような声だった。


「……覚えて、ないですよね」


 何を?


 聞き返したかった。でも、眠気が、波みたいに押し寄せてきて、私はそのまま、ペンキのにおいの中に沈んでいった。

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