第17話 十五夜の壁
月のない海は、思った以上に評判になった。
『十五夜に、月が昇ります』
番台の横に、手描きのカウントダウンを貼った。あと十四日。あと十三日。毎朝、数字を書き換える。SNSにも、毎日、月のない壁の写真を載せた。
お客さんは、湯に浸かりながら、壁の白い丸を見上げていく。
「あそこに月が入るのかい」
「十五夜って、いつだっけ」
「あと五日だってよ」
そんな会話が、男湯からも女湯からも、湯気といっしょに聞こえてきた。
ひなたちゃんは、毎晩、湯船のふちにつかまって、白い丸を見上げていた。
「おつきさま、いつくるの?」
「あと三日」
「あとみっか!」
指を三本立てて、真剣な顔で、何度も数えていた。
十五夜の朝。
五時に起きて釜場に行くと、葛城さんは、もういなかった。
浴場の明かりがついていた。
ガラス戸を開けると、足場板の上に、葛城さんが立っていた。手に、刷毛を持って。
壁の白い丸の中に、もう、色が入りはじめていた。
「……おはよう」
「おはようございます」
葛城さんは、振り向かずに言った。
「見てていいですか」
「どうぞ」
私は、空っぽの湯船のふちに腰かけた。
葛城さんの横には、小さなバケツが三つ並んでいた。黄色。白。それから、ほんの少しだけ、橙。
刷毛が、白い丸の縁をなぞる。黄色と白を、壁の上で混ぜていく。中心は白っぽく、縁にいくほど、温かい金色に。ところどころに、ほんのわずかに、灰色がかった影。月の模様だ。
うさぎの形に、見えた。
少しずつ、少しずつ。
白い丸が、月になっていく。
天窓から差しこむ朝の光が、だんだん明るくなっていく。その光の中で、壁の上に、金色の満月が、ゆっくりと昇ってきた。
息をするのも、忘れていた。
一時間くらいたったころ、葛城さんが、刷毛を下ろした。
足場板の上で、一歩下がって、壁を見上げる。
しばらく、黙って見ていた。
それから、もう一度だけ刷毛を持って、壁の右下の隅に、何かを書いた。早乙女さんのサインがあった、その場所の、すぐ隣に。
『蒼』
足場から下りてきた葛城さんは、私の隣に、どさりと座った。
「……できました」
私は、立ち上がった。
女湯の洗い場に回る。
見上げる。
女湯からは、月の半分が見えた。仕切り壁の向こうに、もう半分が隠れている。
男湯に駆け戻る。
見上げる。
男湯からも、月の半分。
「どっちから見ても、半分なんだ」
「壁の上で、つながってます」
葛城さんが、天井のほうを指さした。
仕切り壁のてっぺん、天井とのあいだのすき間。その向こうに、月の両側が、ひとつにつながっている。
どちらからも、全部は見えない。でも、たしかに、ひとつの満月だった。
金色の満月が、藍色の夜空に浮かんでいる。その下に、深い海。月の真下から、手前に向かって、きらきらと光る金色の道。岬。灯台。沖の漁船の、小さな灯り。
月ヶ浜の、あの夜だった。
私は、何も言えなかった。
何か言ったら、泣いてしまいそうだった。
だから、ただ、隣に座っている人の、ペンキだらけの手を、ぎゅっと握った。
葛城さんは、少しびっくりしたように私を見て、それから、何も言わずに、握り返してくれた。
午後三時半。
のれんを掛けに表へ出て、私は、目を疑った。
行列ができていた。
タツさんを先頭に、キヨさん、ルミ子さん。そのあとに、見たことのない人たちが、ずらりと。商店街の角まで、三十人以上。
若いカップル。大学生のグループ。カメラを首から下げたおじさん。大きなリュックを背負った、旅行者らしい女の人。
「SNSで見て来ました!」
「十五夜に月が昇るって、ほんとですか」
縁台には、タツさんが朝から土手で刈ってきたススキが、どっさり飾ってあった。その横に、沙耶さんと二人で前の晩に作った月見団子。三方に十五個ずつ積んだのが三つと、お客さん用に、二百個。
「団子は、湯上がりの人に一個ずつだよ! 二個取るんじゃないよ、そこの学生!」
キヨさんが、団子係を買って出て、ものすごい迫力で仕切っていた。
ルミ子さんは、お店から甘酒の大鍋を運んできてくれた。
「スナックで甘酒なんか出さないんだけどね。今日は特別」
のれんを掛ける。
「おかえりなさい!」
私の声は、たぶん、商店街の角まで届いた。
その日は、戦争だった。
番台の前に、ずっと人が並んでいた。湯銭を受け取って、お釣りを渡して、タオルを売って、「おかえりなさい」「おかえりなさい」「はじめての方ですか、いらっしゃいませ――じゃなくて、おかえりなさい」。
沙耶さんが、パートの後に駆けつけて、番台の横でタオル売りを手伝ってくれた。葛城さんは釜場で、汗だくで薪をくべ続けた。
男湯からも、女湯からも、声が聞こえてきた。
「うわ、すげえ……」
「月、でっか!」
「写真、撮っていいんですか? 浴場はだめ? あ、そうですよね」
夕方。タツさんが、長い長い一番風呂から上がってきた。
番台の前で、タツさんは足を止めた。
「……いい月だ」
ぽつりと、言った。
「源さんにも、見せたかったな。ハルさんにも」
それだけ言って、タツさんは、のれんをくぐって出ていった。いつもより、少しだけ背中が丸かった。
七時すぎ。沙耶さんの仕事が終わるのを待って、ひなたちゃんがやってきた。
「ただいまー! おつきさま、きた?」
「来たよ。見ておいで」
ひなたちゃんは、靴を脱ぎ散らかして、女湯のガラス戸に飛びついた。
そして、湯気の向こうを見上げて、止まった。
小さな背中が、しばらく動かなかった。
それから、振り向いた。
顔じゅうで、笑っていた。
「ちなつちゃん! おつきさま、げんきになった!」
番台の上で、私は、とうとう泣いた。
お客さんが並んでいるのに。湯銭を受け取りながら。お釣りを渡しながら。
「どうしたの、番台さん」
「なんでもないです。おかえりなさい」
泣きながら「おかえりなさい」を言う番台を、お客さんたちは、不思議そうに、でも、やさしく見ていた。
その夜の客は、二百十人だった。
祖母の日誌のどのページにも、こんな数字はなかった。
閉店後。掃除を終えて、女湯の湯に浸かる。体じゅうがくたくたで、でも、胸の中が、ぱんぱんに膨らんでいた。
見上げる。
半分の、金色の月。
ふと、気がついた。
女湯の側の壁。岬の下の、小さな砂浜。そこに、何か描いてある。
湯から少し体を伸ばして、目をこらした。
女の子だった。
親指の先くらいの、小さな小さな女の子。砂浜に立って、月を見上げている。その手に、何か、青いものを持っていた。
「……ねえ」
壁の向こうに、声をかけた。
「浜辺に、女の子がいる」
ちゃぷん、と湯が鳴った。
「……はい」
「いつの間に描いたの」
「今朝、最後に」
「この子は?」
少し、間があった。
「……昔の、知り合いです」
それ以上は、何も言わなかった。
昔の知り合い。
青いものを持った、小さな女の子。
誰だろう。聞きたい気持ちと、聞いちゃいけない気持ちが、半分ずつ。私は、湯の中で、もう一度その女の子を見上げた。
「あの月、どっちから見ても、半分なんだね」
「早乙女さんの月も、真ん中でした」
壁の向こうの声は、少し眠そうだった。
「どうして真ん中なのか、聞いたことはないです。……今度、聞いてきます」
「でも、壁の上で、つながってる」
「……はい」
壁一枚。
私は女湯で、半分の月を見ている。
この人は男湯で、もう半分の月を見ている。
それで、ひとつの満月。
胸の奥から、何かが、あふれてきた。今日一日の、全部が。
「ありがとう、蒼くん」
口から、こぼれていた。
言ってから、気づいた。
「……あっ」
壁の向こうが、しんと静まりかえった。
湯の音すら、止まった。
「ご、ごめん。今の、つい、ひなたちゃんが『あおちゃん』って呼ぶから、それで、なんか」
言い訳をすればするほど、顔が熱くなっていった。湯のせいじゃなかった。
長い、長い沈黙。
それから。
「……もう一回」
かすれた声が、壁を越えてきた。
「え」
「もう一回、言ってください」
私は、湯の中で、膝を抱えた。
心臓の音が、湯面を揺らしているんじゃないかと思った。
「……蒼くん」
壁の向こうで、小さく、息を吸う音がした。
「……はい」
その声が、少しだけ、震えていた。
それから、二人とも、何も言わなかった。
言わなくても、よかった。
天窓の向こうに、本物の十五夜の月が昇っていた。壁の上の月と、空の月。二つの満月の下で、私たちは、壁一枚をはさんで、ただ黙って湯に浸かっていた。
幸せだった。
たぶん、生まれてからいちばん、幸せな沈黙だった。
――ごとん。
どこか遠くで、重たい音がした。
釜場のほうからだった。
湯気の中で、私は顔を上げた。
「……今の、なに?」
壁の向こうで、湯が揺れた。
「……なんでもないです」
少し間があって、蒼くんは言った。
「たぶん」




