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第18話 満月が怖い(蒼)

 十五夜の翌朝、五時。


 釜場の明かりをつけて、釜の前にしゃがんだ。


 ごとん、という、あの音。


 鉄の釜は、五十年前に源一郎さんとタツさんが据えたものだ。何度も修理されて、継ぎはぎだらけで、それでも毎日、湯を沸かしてきた。


 懐中電灯で、釜の腹を照らす。


 いちばん下の、継ぎ目のあたり。そこに、黒っぽい染みが、うっすらと浮いていた。指でなぞると、ほんの少しだけ、湿っていた。


 しばらく、その染みを見ていた。


 まだ、大丈夫だ。


 次の月曜に、釜屋の安田さんに見てもらおう。


 ……たぶん、大丈夫だ。


 懐中電灯を消して、薪を割りはじめた。かこん、かこん。いつもより、少し強く。




 十五夜から、月見湯は変わった。


 客が、毎日百人を超えるようになった。週末は、二百人。のれんの前に行列ができる。若い人が増えた。遠くから電車で来る人もいる。小さなウェブの雑誌が、取材に来た。


 千夏さんは、それを全部、さばいていた。


 番台で湯銭を受け取りながら、初めての客に銭湯の入り方を説明する。取材の記者には、壁の絵の話と、ハルさんの話と、常連さんたちの話を、楽しそうにする。SNSに写真を載せる。月見湯だよりを描く。


 声が、大きくなった。


「おかえりなさい!」


 その声が、釜場まで、まっすぐ届く。


 七月十五日、湯気の向こうで、デッキブラシを構えて震えていた人と、同じ人とは思えなかった。


 いや。


 たぶん、もともと、こういう人だったのだ。




 電話がかかってきたのは、十五夜から四日後の昼だった。


「蒼か。わしだ」


 しわがれた、懐かしい声。


「早乙女さん」


 師匠は、八十六になる。二年前に引退して、今は千葉の老人ホームにいる。手が震えて、もう刷毛は握れない。でも、声だけは、昔のまま怖い。


「月見湯の壁、描いたそうだな」


「……はい。すみません。早乙女さんの月を、塗りつぶしました」


「謝るな。壁は、塗りつぶされるためにあるんだ」


 ふん、と鼻を鳴らす音がした。


「写真、送ってきたやつがいる。悪くない。……空のむらが、ひとところ残ってる。右上だ」


 見ていないはずなのに、見抜かれていた。


「それでな」


 早乙女さんの声が、少しだけ改まった。


「ペンキ絵キャラバン、ってのを知ってるか」


「……いえ」


「全国の浴場の組合が、来年、記念の企画をやるそうだ。一月から一年かけて、四十七都道府県の銭湯を一軒ずつ回って、壁を描く。全部で四十七枚。記録映画にもするらしい」


 四十七枚。


 一年で、日本中の壁を。


「描き手を一人、選びたいと言ってきた。わしが若けりゃ、わしが行った」


 電話の向こうで、師匠は少し咳きこんだ。


「お前を、推しといた」


 息が、止まった。


 銭湯絵師にとって、これ以上の仕事はない。日本中の銭湯に、自分の絵が残る。四十七枚。それが、記録に残る。


 夢みたいな話だった。


「……考えさせてください」


 口から出たのは、それだった。


 電話の向こうが、しばらく黙った。


「考えるようなことか?」


「……」


「お前は、どこにも根を張らない男だろう。十二年、そう言い続けてきたじゃねえか」


「……はい」


「何を迷ってる」


 答えられなかった。


 師匠は、もう一度、ふん、と鼻を鳴らした。


「返事は、月末までだ」


 電話が切れた。




 九つの夏のことを、ときどき思い出す。


 父が出ていって、母が倒れて、入院した夏だった。


 家に、風呂がなかった。母は、入院する前に、小銭の入った缶を台所に置いていった。これで、毎晩、お風呂屋さんに行きなさいね、と。


 それで、月見湯に通った。


 毎晩、一人で。湯銭を握りしめて。


 番台には、小さなおばあさんが座っていた。ハルさんだ。最初の晩、ハルさんは、俺の顔をじっと見て、それから、何も聞かずに「おかえり」と言った。


 三日目の晩、「あんた、晩ごはん食べたのかい」と聞かれた。


 食べていない、と言ったら、番台の裏に引っぱりこまれて、おにぎりを三つ食べさせられた。甘い卵焼きも。


 それから毎晩、そうなった。


 湯には、あまり入らなかった。入り方が、よくわからなかったのだ。そのかわり、脱衣所の、湯気で曇った大きな鏡に、指で絵を描いていた。


 ある晩、背中から声がした。


「うまいね」


 振り向くと、女の子が立っていた。


 ポニーテールで、日に焼けて、鼻の頭の皮がむけていた。番台で、ときどきハルさんの隣に座っていた子だ。俺より、三つくらい年上に見えた。


「それ、壁の月でしょ」


 うなずくと、女の子は、にっと笑った。


 次の晩、女の子は、色鉛筆の缶と、スケッチブックを持ってきた。


「貸してあげる」


 二十四色の色鉛筆だった。そんなにたくさんの色を、俺は持ったことがなかった。


 なのに、青ばかり使った。


 空も、海も、月の影も。


「あおいくんだから、あおいろ?」


 女の子は、そう言って、けらけらと笑った。


 俺は、毎晩、壁の月を描いた。女の子は、番台の上から、それを見ていた。


「上手!」


 何枚目かの月を描いたとき、女の子は言った。


「大人になったら、ここの壁、描いてよ」


 俺は、うなずいた。


「……うん」


 たぶん、生まれて初めての、約束だった。


 夏の終わり。母が退院して、千葉の親戚の家に引っ越すことになった。


 最後の晩、女の子は、色鉛筆の缶ごと、俺にくれた。


「あげる。描いてね。約束」


 青い色鉛筆は、一年で、指の長さほどになった。


 それからは、もったいなくて、使えなくなった。


 短くなった青を、ずっと持っていた。母が死んだときも。早乙女さんに弟子入りしたときも。


 二十五で、月見湯ののれんをくぐったとき、ハルさんは番台から転げ落ちそうになった。


「あおいちゃんかい!」


 覚えていてくれた。


 その夜、しまい湯で、ハルさんは壁ごしに言った。


「千夏はね、去年、お嫁にいったよ」


 ああ、そうですか、と答えた。


 湯の中で、少し笑った。自分を、笑った。


 二十三年前の夏の、たった一か月だ。向こうは、覚えてもいないだろう。


 覚えていないほうが、いい。




 午後の、客の切れる時間。


 廊下から、番台をのぞいた。


 千夏さんが、番台の上で、うたた寝をしていた。


 手にペンを持ったまま。膝の上に、描きかけの月見湯だより。見出しだけ、もう描けていた。


 『月が昇りました』


 頭が、こくり、こくり、と揺れている。


 日に焼けた頬。短く切った爪。手のひらの、マメの痕。


 この二か月で、この人は、変わった。


 俺は、変わっていないつもりだった。


 でも。


 朝、目が覚めると、天井の染みが同じ形をしている。それに、もう、落ち着かなくならない。


 台所から、味噌汁のにおいがする。


 ふすまの向こうから、「おはよう」と声がする。


 しまい湯で、壁の向こうから、湯の音がする。


 ――帰る場所みたいだ、と思ってしまう。


 それが、怖い。


 帰る場所を作ったら、いつか、出ていく日が来る。俺の中には、出ていった男の血が流れている。


 出ていかないとしたら、待たせることになる。仕事で、日本中を回るたびに。棚に茶碗を置かせることになる。


 どっちも、嫌だった。


 この人を、母にしたくなかった。


 この人を、置いていく男にも、なりたくなかった。


 番台の上で、千夏さんが、小さく寝言を言った。


「……おかえり……」


 夢の中でも、番台に座っているらしい。


 俺は、廊下の壁に背中を預けて、天井を見上げた。


 満月が、怖い。


 あんなに、きれいに描けてしまったことが。




 月見湯の裏に出て、スマホを取り出した。


 煙突が、秋の空に向かって、まっすぐ伸びていた。白い煙が、細くたなびいている。


 早乙女さんの番号を押す。


「……蒼です」


「おう」


「キャラバン、受けます」


 電話の向こうで、師匠が、少し黙った。


「そうか」


「ただ、年内は、東京にいさせてください」


「月見湯か」


「……はい」


「好きにしろ」


 電話が切れた。


 スマホをポケットにしまって、煙突を見上げた。


 これでいい。


 一月になったら、出ていく。一年、日本中を回る。それからも、たぶん、ずっと。


 あの人は、ここで、月見湯を続けるかもしれないし、しまうかもしれない。どっちにしても、あの人の人生だ。俺がいなくても、あの人は、もう大丈夫だ。


 だから。


「冬至まで」


 声に出して、言った。


「それまでは、ここにいる」


 煙突の煙が、秋の風に流されて、空にほどけていった。

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