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第19話 釜が止まった日

 十月に入ると、朝の釜場が、急に冷たくなった。


 五時の空は、まだ真っ暗だ。軍手の上から、蒼くんにもらった革の手袋をはめて、鉈を握る。かこん。かこん。最初のころは一本割るのに十回かかった薪が、今は、二回で割れる。


「千夏さん、割るの、俺より速くなってません?」


「木の目が、読めるようになったの」


「……くやしいです」


 蒼くんは、真顔で言った。金魚すくいのときと、同じ顔だった。


 十五夜から、ひと月。


 月見湯は、毎日、百人を超えるお客さんでにぎわっていた。平日で百二十人。週末は二百人近く。


 九月の終わりに、通帳を見て、私は番台の上で声を上げそうになった。


 黒字だった。


 七月から数えて、初めての黒字。小さな、本当に小さな黒字だったけれど。


 その夜、私は、新しい大学ノートを買ってきた。表紙に、祖母と同じように書いた。


 『月見湯日誌 四十九』


 祖母の四十八冊の続き。一ページ目には、こう書いた。


 『九月三十日 晴れ 湯温四十三度 客百三十八人 はじめての黒字。おばあちゃん、見てる?』




 釜の具合が悪いことは、知っていた。


 十五夜の夜の、ごとん、という音。そのあと、蒼くんが釜屋の安田さんを呼んで、見てもらった。


「古いからなあ」


 五十代の、日焼けした、無口な人だった。安田さんは、釜の腹を懐中電灯で照らして、長いこと黙っていた。


「正直に言うよ。いつ割れても、おかしくねえ。冬を越せるかどうか」


 それで、私たちは、だましだまし使うことにした。火を強くしすぎない。毎朝、継ぎ目を確かめる。


 冬至までは、なんとか。


 そう、思っていた。




 十月の、半ば。


 急に冷えこんだ、金曜日の夜だった。


 寒くなると、銭湯は混む。その日も、夕方から、のれんの前に行列ができていた。番台の前も、脱衣所も、人でいっぱいだった。


 夜の七時すぎ。


「ちょっと、番台さん」


 女湯から、若いお客さんが、タオルを巻いて顔を出した。


「お湯、ぬるくないですか?」


 え、と思った。


 番台の横の湯温計を見る。祖母の代から使っている、古い針の湯温計。


 四十度。


 四十三度のはずの針が、四十度を指していた。


 見ているあいだにも、針は、じわじわと下がっていく。三十九度。三十八度。


 番台から飛び下りて、釜場へ走った。


 廊下の途中で、蒼くんとぶつかりそうになった。


「千夏さん」


 蒼くんの顔が、真っ青だった。


「釜が、割れました」


 釜場は、白い湯気でいっぱいだった。


 しゅうう、と、嫌な音がしていた。釜の腹の、いちばん下の継ぎ目から、熱いお湯が噴き出している。床が、水浸しになっていた。


 焚き口の火は、もう、蒼くんが消していた。


「止められない?」


「止めたら、湯が沸かせない。燃やしたら、ここから全部漏れる」


 蒼くんは、首のタオルで額をぬぐった。


「今夜は、もう、無理です」




 番台に戻ると、男湯からも女湯からも、ざわざわと声が聞こえていた。


「ぬるいぞー」


「どうしたの、これ」


 私は、番台の上に立った。両側の脱衣所に聞こえるように。


「申し訳ありません!」


 頭を下げた。深く。


「釜が、故障しました。今夜は、これ以上お湯を沸かせません。今、入っていらっしゃる方には、湯銭をお返しします。それから――」


 声が、震えそうになった。こらえた。


「次に来ていただいたとき、一回分、無料にさせてください。本当に、申し訳ありません」


 しん、と静まりかえった。


 それから、女湯のほうから、聞き慣れた声がした。


「ぬるい湯も、たまにはいいもんだよ」


 キヨさんだった。湯船の中から、のんびりと言った。


「熱い湯ばっかりじゃ、年寄りの心臓に悪いからね。今日は、ちょうどいいや」


 くすくすと、笑い声が起きた。


「長湯できて、ちょうどいいわ」


「うちの風呂より、まだあったかいよ」


 お客さんたちは、文句を言うどころか、のんびりと湯を楽しんで、ひとりずつ上がってきた。湯銭を返そうとすると、半分くらいの人が「いいよ、いいよ」と受け取らなかった。


「源さんの釜が、とうとう音を上げたか」


 男湯の脱衣所から、タツさんが、真っ青な顔で釜場のほうへ行こうとした。


「タツさん、だめです!」


「放せ、俺の釜だ!」


「蒼くんが見てますから!」


 タツさんは、私の手を振り払おうとして、それから、ふっと力を抜いた。


「……頼むぞ、ペンキ屋」


 釜場のほうに向かって、小さくつぶやいた。




 夜の十時。


 安田さんが、作業着のまま駆けつけてくれた。


 釜場の床にしゃがみこんで、懐中電灯で釜の腹を照らす。長いこと、黙っていた。


「……缶体が、割れてる」


「かんたい」


「釜の、本体だ。継ぎ目じゃなくて、鉄そのものが、裂けてる」


 安田さんは、立ち上がって、腰をとんとんと叩いた。


「正直に言うよ」


 この人の「正直に言うよ」は、いつも、いい話ではない。


「溶接でふさぐ、応急処置はできる。明日一日もらえりゃ、なんとか動かせるようにはする。でも、だましだましだ。もって、二か月。年は越せねえと思ったほうがいい」


「新しい釜にするとしたら」


 私は、聞いた。


「いくら、かかりますか」


 安田さんは、少しだけ、気の毒そうな顔をした。


「本体と、据えつけの工事と、煙突まわり。ざっと、九百万」


 九百万。


 頭の中で、通帳の数字を思い浮かべた。離婚のときに、恵ががんばって勝ち取ってくれた財産分与。そのほとんどは、この三か月で、月見湯の赤字に消えた。残っているのは、三百万と少し。


 六百万、足りない。


「……ありがとうございます。明日、応急処置、お願いします」


「おう」


 安田さんは、帰り際、釜の腹を、ぽんと叩いた。


「よくもった方だよ、こいつは。五十年だ」




 夜中の十二時。


 湯を全部抜いた浴場は、しんと冷えていた。


 私は、空っぽの湯船の中に、座っていた。


 乾いたタイルの上。膝を抱えて。見上げると、壁の上に、金色の満月。


 月見湯日誌、四十九。今日のページに、何と書けばいいかわからなかった。


 ぺた、ぺた、と足音がした。


 蒼くんが、タオルケットを持って、湯船のふちに立っていた。


「冷えますよ」


 タオルケットを、私の肩にかけてくれた。それから、自分も、湯船の中に下りてきた。私の隣に、並んで座る。


 空っぽの湯船の中で、二人並んで、壁の月を見上げた。


 変な光景だな、と思った。


 お湯のない湯船。服を着たままの、二人。


「冬至で閉めるなら」


 私は、ぽつりと言った。


「九百万は、いらないんだよね」


「……はい」


「安田さんの応急処置で、冬至までは、たぶん持つ」


「はい」


「それで、柚子湯をして、閉める。おばあちゃんが、決めてたとおりに」


「はい」


 そうすればいい。


 それが、いちばん、筋の通った答えだ。誰も困らない。借金もしない。祖母の言いつけどおり。最初から、そのつもりだったはずだ。


 なのに。


「……やめたくない」


 言葉が、勝手に、口からこぼれた。


 言ってから、自分で驚いた。


 蒼くんが、こちらを向いたのがわかった。


「やめたくない」


 もう一度、言った。今度は、自分の意思で。


「冬至で、終わりにしたくない。おばあちゃんの言いつけじゃなくて。おばあちゃんのためでもなくて」


 膝を抱える腕に、力が入った。


「私が。私が、続けたいの」


 タツさんの一番風呂。キヨさんの「極楽」。ルミ子さんのウインク。沙耶さんの「ただいま」。ひなたちゃんの「おつきさま、げんきになった」。


 毎朝の薪割り。番台からの「おかえり」。しまい湯の、壁ごしの声。


 全部、なくしたくなかった。


 三十五年生きてきて、初めて、自分で「これがほしい」と思ったものだった。


 蒼くんは、何も言わなかった。


 ただ、タイルの上に置かれた彼の手が、私の手のすぐ横にあった。触れそうで、触れない距離に。


「……蒼くんは」


 私は、壁の月を見上げたまま、聞いた。


「冬至のあと、どうするの」


 隣で、彼が、小さく息を呑む気配がした。


 長い沈黙だった。


「……月見湯のことは」


 やがて、彼は言った。


「千夏さんが、決めることです」


 答えになっていなかった。


 でも、それ以上は、聞けなかった。


 二人で、黙って、壁の月を見上げていた。お湯のない湯船は、どんどん冷えていった。肩にかけたタオルケットだけが、あたたかかった。




 翌朝。


 安田さんが、溶接の道具を持ってやってきた。私は、格子戸に貼り紙をした。


 『釜の故障のため、本日は臨時休業いたします。明日から営業を再開します。ご迷惑をおかけして、申し訳ありません。月見湯』


 同じ文面を、SNSにも載せた。


 すぐに、たくさんの返事がついた。


 『お大事に!』


 『釜さん、がんばって』


 『また行きます!』


 一つひとつ読んでいたら、手の中で、スマホが震えた。


 画面に、名前が浮かんでいた。


 『雅人さん』


 しばらく、見つめていた。


 出ないで、いようと思った。


 でも、震えは、いつまでも止まらなかった。


 私は、通話のボタンを押した。


「千夏? SNS、見たよ」


 やわらかい声だった。心から、心配しているような声。


「釜、壊れたんだって?」


「……はい」


「大変だったね。一人で、どうしていいかわからないだろう」


 電話の向こうで、雅人さんは、やさしく言った。


「今夜、行くよ」

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