↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

20/30

第20話 やさしい檻

 ちゃんと、断るつもりだった。


 電話で「来ないで」と言えばよかったのかもしれない。でも、それでは、また「また連絡するよ」と言われて終わる。いつまでも、終わらない。


 会って、顔を見て、はっきり言おう。


 もう、私に関わらないで、と。


 そう決めて、私は、雅人さんを待っていた。




 夜の九時。


 安田さんの溶接は、まだ続いていた。釜場から、ばちばちと青白い火花の音がする。蒼くんも、そこで手伝っていた。


 休業中の、静まりかえった脱衣所で、私は女湯側のベンチに座っていた。


 格子戸が、とんとんと鳴った。


「こんばんは」


 雅人さんは、紺色のコートを着ていた。手に、風呂敷に包んだ四角いものを提げている。


「お寿司。銀座の、君の好きだった店のだよ」


 好きだったのは、雅人さんだ。私は、あそこの光り物が、少し苦手だった。


 雅人さんは、私の隣に腰を下ろした。番台の明かりだけが、ぼんやりと二人を照らしていた。


「大変だったね」


 最初の言葉は、それだった。


「九百万だって? 安田さん、だっけ。ボイラー屋さんから、柴田くんが聞いてきたよ」


 どこまで、調べているんだろう。


「君ひとりで、どうするつもりだったの?」


「……まだ、決めて」


「決められないよね」


 雅人さんは、やさしくうなずいた。


「わかるよ。君は、昔からそうだった。大事なことを決めるのが、苦手なんだ」


 違う、と言おうとした。


 昨日、空っぽの湯船の中で、私は決めたのだ。続けたい、と。


 でも、雅人さんの声を聞いていると、その決意が、ふわふわと形をなくしていく気がした。本当に、決めたんだっけ。あれは、疲れていて、勢いで言っただけじゃないのか。


「柴田くんに頼んで、もう一度、上に掛け合ってもらった」


 雅人さんは、コートの内ポケットから、一枚の紙を取り出した。


「一億二千万。これが、最後の数字だ」


 紙を、私の膝の上に置いた。


「釜を直す必要もない。冬至まで、なんて無理もしなくていい。来月にでも契約すれば、年内に全部終わる」


 それから、雅人さんは、私の手を取った。


 薪割りでできたマメの上を、親指で、そっと撫でた。


「千夏。僕のところに、戻っておいで」


 顔を上げると、すぐそこに、雅人さんの目があった。


 八年間、毎日見ていた目。


「もう、無理しなくていい。君は、十分がんばったよ」


 ――がんばったよ。


 その言葉が、胸の、いちばん疲れたところに、すとんと落ちてきた。


 この三か月。毎朝五時に起きて、薪を割って、釜を焚いて、掃除をして、番台に座って、帳簿をつけて。昨日は、割れた釜の前で、どうしていいかわからなかった。夜中まで、空っぽの湯船で震えていた。


 疲れていた。


 本当に、疲れていた。


 誰かに、もういいよ、と言ってほしかった。


「……」


 雅人さんの手は、あたたかかった。


 昔は、この手に、全部をあずけていた。


 服も。髪も。お金も。友だちも。スマホも。


 ――生活費は、毎月一日に振りこむよ。レシートは、全部とっておいてね。君がむだづかいしないように、一緒に見てあげるから。


 ――スマホの位置情報、共有しておこう。心配なんだ、君が事故にでもあったら。


 ――恵さんとは、会わないほうがいい。あの人、君のことを、本当に大事に思ってるのかな。


 ――今夜は、おばあさんのところに行かなくていいよ。明日にしよう。


 ひとつひとつは、やさしい言葉だった。


 私のためを思って、言ってくれた言葉だった。


 そう、思っていた。


 だから、その中にいるあいだは、楽だった。何も決めなくていい。何も選ばなくていい。全部、雅人さんが決めてくれる。


 やさしい、檻。


「戻ってくれば、全部、うまくいくよ」


 雅人さんは、私の手を、ぎゅっと握った。


「ね?」


 断るつもりだった。


 ちゃんと、断るつもりだった。


 なのに、私の口から出たのは。


「……考えさせて」


 雅人さんは、満足そうに、目を細めた。


「いい子だ」


 そして、私の頭を、ぽんぽんと撫でた。


 子どもに、するみたいに。




 格子戸が閉まって、外車のエンジン音が遠ざかっていった。


 膝の上には、一億二千万と書かれた紙。ベンチの上には、銀座のお寿司。


 私は、ベンチに座ったまま、動けなかった。


 何を、言ったんだろう。


 考えさせて、って。


 昨日、あんなにはっきり、続けたいって思ったのに。


 ぎし、と床が鳴った。


 顔を上げると、廊下の暗がりに、蒼くんが立っていた。


 作業着のまま。顔に、溶接の煤がついていた。


 いつから、そこにいたんだろう。


「……聞いてた?」


「釜場まで、聞こえました」


 蒼くんは、廊下の暗がりから、出てこなかった。


 表情が、よく見えなかった。


「売ればいいじゃないですか」


 低い声だった。


「……え?」


「九百万。借金して、釜を入れ替えて、それで、いつまで続けられるかわからない。ハルさんだって、冬至で閉める気だった」


 淡々とした声。いつもの、愛想のない声。


 でも、何かが、違った。


「あの人の言うとおりにすれば、楽になるんでしょう」


 胸に、冷たいものが刺さった。


「あの人のところに戻るかどうかは、千夏さんの自由ですけど」


 ――何、それ。


 昨日、空っぽの湯船で、隣に座っていた人の言葉とは思えなかった。


 やめたくない、と言った私の横で、黙って月を見上げていた人の。


「……何、それ」


 声が、震えた。


 怒りで、震えたのは、生まれて初めてだった。


「何よ、それ。あなたに、何がわかるの」


 立ち上がっていた。膝の上の紙が、ひらりと床に落ちた。


「いつも出ていく側の人に。待たされる側の気持ちなんて、わかるわけない!」


 言ってから、しまった、と思った。


 廊下の暗がりで、蒼くんの体が、びくりと揺れたのが見えた。


 この人の、お母さん。棚の上の、茶碗。


 知っていたのに。


 壁ごしに、聞いていたのに。


 長い沈黙のあとで、蒼くんは、言った。


「……そうですね」


 ゆっくりと、廊下の暗がりから、出てきた。


 番台の明かりの中で見た顔は、いつもの能面だった。でも、その目の奥が、ひどく、遠かった。


「俺は、出ていく側です」


 静かな声だった。


「一月から一年、ここを出ます。全国の銭湯を回って、壁を描く仕事。……受けました」


 頭の中が、真っ白になった。


「……いつ」


 声が、かすれた。


「いつ、決めたの」


「九月です。十五夜のあと」


 十五夜のあと。


 あの夜、壁ごしに、蒼くん、と呼んだ。もう一回、と言われて、もう一回呼んだ。生まれてからいちばん幸せな沈黙だと、思っていた。


 その、すぐあとに。


「……言ってくれなかったんだ」


「言う必要、なかったんで」


 蒼くんは、目をそらした。


「俺は、壁を描きに来ただけです。ハルさんとの約束で。冬至まで、ここにいて、それで終わりです」


 壁を描きに来ただけ。


 そう、だった。


 最初から、そう言っていた。あなたのためじゃないです、と。


 勝手に、期待していたのは、私だ。


「……そう」


 私は、笑った。笑ったつもりだった。


「そうだよね。下宿人だもんね」


 蒼くんは、何も言わなかった。


「明日から、静岡で仕事です」


 しばらくして、彼は言った。


「一週間。前から入ってた仕事なんで。……釜は、安田さんが見てくれます」


 それだけ言うと、蒼くんは、私の横を通りすぎて、階段を上がっていった。


 ぎし、ぎし、と段板が鳴った。


 二階で、ふすまを開け閉めする音。荷物をまとめる音。


 私は、脱衣所の真ん中に、立ちつくしていた。




 翌朝、私が五時に起きたとき、奥の部屋は、もう空っぽだった。


 布団がきれいにたたんであった。歯ブラシも、着替えも、なくなっていた。


 台所のテーブルに、メモが一枚、置いてあった。


 『釜の火の具合、昨日の夜に見ておきました。今日は、薪は少なめで。蒼』


 それだけだった。


 私は、メモを握りしめて、釜場に下りた。


 安田さんの溶接で、継ぎはぎだらけになった釜。その前にしゃがんで、焚き口を開けた。


 薪を割る。かこん。かこん。


 火をおこす。薪をくべる。


 一人で。


 できる。もう、できる。この三か月で、覚えた。


 湯温計の針が、ゆっくりと上がっていく。四十度。四十一度。四十二度。


 四十三度。


 午後三時半。のれんを掛けた。


「おかえりなさい」


 声が、自分の耳にも、遠く聞こえた。


 キヨさんが、私の顔を見て、何か言いたそうにして、やめた。タツさんは、釜場のほうをちらりと見て、黙って男湯に入っていった。




 夜の十二時半。


 しまい湯。


 女湯の湯に、肩まで浸かった。


 壁の向こうは、しんと静まりかえっていた。


 湯の音がしない。息の音がしない。誰もいない男湯の、換気扇の回る音だけが、壁を越えて聞こえてくる。


「……湯加減、どうですか」


 小さな声で、壁に向かって、言ってみた。


 返事は、なかった。


 あたりまえだ。


 壁の上の満月が、半分だけ、私を見下ろしていた。


 湯船のふちに置いたスマホを、濡れた手で取った。


 連絡先の、いちばん上。


 呼び出し音が、二回鳴った。


「――千夏? どうしたの、こんな時間に」


 恵の声を聞いた瞬間、喉の奥から、何かがせり上がってきた。


「恵」


 声が、壊れた。


「……助けて」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。