第20話 やさしい檻
ちゃんと、断るつもりだった。
電話で「来ないで」と言えばよかったのかもしれない。でも、それでは、また「また連絡するよ」と言われて終わる。いつまでも、終わらない。
会って、顔を見て、はっきり言おう。
もう、私に関わらないで、と。
そう決めて、私は、雅人さんを待っていた。
夜の九時。
安田さんの溶接は、まだ続いていた。釜場から、ばちばちと青白い火花の音がする。蒼くんも、そこで手伝っていた。
休業中の、静まりかえった脱衣所で、私は女湯側のベンチに座っていた。
格子戸が、とんとんと鳴った。
「こんばんは」
雅人さんは、紺色のコートを着ていた。手に、風呂敷に包んだ四角いものを提げている。
「お寿司。銀座の、君の好きだった店のだよ」
好きだったのは、雅人さんだ。私は、あそこの光り物が、少し苦手だった。
雅人さんは、私の隣に腰を下ろした。番台の明かりだけが、ぼんやりと二人を照らしていた。
「大変だったね」
最初の言葉は、それだった。
「九百万だって? 安田さん、だっけ。ボイラー屋さんから、柴田くんが聞いてきたよ」
どこまで、調べているんだろう。
「君ひとりで、どうするつもりだったの?」
「……まだ、決めて」
「決められないよね」
雅人さんは、やさしくうなずいた。
「わかるよ。君は、昔からそうだった。大事なことを決めるのが、苦手なんだ」
違う、と言おうとした。
昨日、空っぽの湯船の中で、私は決めたのだ。続けたい、と。
でも、雅人さんの声を聞いていると、その決意が、ふわふわと形をなくしていく気がした。本当に、決めたんだっけ。あれは、疲れていて、勢いで言っただけじゃないのか。
「柴田くんに頼んで、もう一度、上に掛け合ってもらった」
雅人さんは、コートの内ポケットから、一枚の紙を取り出した。
「一億二千万。これが、最後の数字だ」
紙を、私の膝の上に置いた。
「釜を直す必要もない。冬至まで、なんて無理もしなくていい。来月にでも契約すれば、年内に全部終わる」
それから、雅人さんは、私の手を取った。
薪割りでできたマメの上を、親指で、そっと撫でた。
「千夏。僕のところに、戻っておいで」
顔を上げると、すぐそこに、雅人さんの目があった。
八年間、毎日見ていた目。
「もう、無理しなくていい。君は、十分がんばったよ」
――がんばったよ。
その言葉が、胸の、いちばん疲れたところに、すとんと落ちてきた。
この三か月。毎朝五時に起きて、薪を割って、釜を焚いて、掃除をして、番台に座って、帳簿をつけて。昨日は、割れた釜の前で、どうしていいかわからなかった。夜中まで、空っぽの湯船で震えていた。
疲れていた。
本当に、疲れていた。
誰かに、もういいよ、と言ってほしかった。
「……」
雅人さんの手は、あたたかかった。
昔は、この手に、全部をあずけていた。
服も。髪も。お金も。友だちも。スマホも。
――生活費は、毎月一日に振りこむよ。レシートは、全部とっておいてね。君がむだづかいしないように、一緒に見てあげるから。
――スマホの位置情報、共有しておこう。心配なんだ、君が事故にでもあったら。
――恵さんとは、会わないほうがいい。あの人、君のことを、本当に大事に思ってるのかな。
――今夜は、おばあさんのところに行かなくていいよ。明日にしよう。
ひとつひとつは、やさしい言葉だった。
私のためを思って、言ってくれた言葉だった。
そう、思っていた。
だから、その中にいるあいだは、楽だった。何も決めなくていい。何も選ばなくていい。全部、雅人さんが決めてくれる。
やさしい、檻。
「戻ってくれば、全部、うまくいくよ」
雅人さんは、私の手を、ぎゅっと握った。
「ね?」
断るつもりだった。
ちゃんと、断るつもりだった。
なのに、私の口から出たのは。
「……考えさせて」
雅人さんは、満足そうに、目を細めた。
「いい子だ」
そして、私の頭を、ぽんぽんと撫でた。
子どもに、するみたいに。
格子戸が閉まって、外車のエンジン音が遠ざかっていった。
膝の上には、一億二千万と書かれた紙。ベンチの上には、銀座のお寿司。
私は、ベンチに座ったまま、動けなかった。
何を、言ったんだろう。
考えさせて、って。
昨日、あんなにはっきり、続けたいって思ったのに。
ぎし、と床が鳴った。
顔を上げると、廊下の暗がりに、蒼くんが立っていた。
作業着のまま。顔に、溶接の煤がついていた。
いつから、そこにいたんだろう。
「……聞いてた?」
「釜場まで、聞こえました」
蒼くんは、廊下の暗がりから、出てこなかった。
表情が、よく見えなかった。
「売ればいいじゃないですか」
低い声だった。
「……え?」
「九百万。借金して、釜を入れ替えて、それで、いつまで続けられるかわからない。ハルさんだって、冬至で閉める気だった」
淡々とした声。いつもの、愛想のない声。
でも、何かが、違った。
「あの人の言うとおりにすれば、楽になるんでしょう」
胸に、冷たいものが刺さった。
「あの人のところに戻るかどうかは、千夏さんの自由ですけど」
――何、それ。
昨日、空っぽの湯船で、隣に座っていた人の言葉とは思えなかった。
やめたくない、と言った私の横で、黙って月を見上げていた人の。
「……何、それ」
声が、震えた。
怒りで、震えたのは、生まれて初めてだった。
「何よ、それ。あなたに、何がわかるの」
立ち上がっていた。膝の上の紙が、ひらりと床に落ちた。
「いつも出ていく側の人に。待たされる側の気持ちなんて、わかるわけない!」
言ってから、しまった、と思った。
廊下の暗がりで、蒼くんの体が、びくりと揺れたのが見えた。
この人の、お母さん。棚の上の、茶碗。
知っていたのに。
壁ごしに、聞いていたのに。
長い沈黙のあとで、蒼くんは、言った。
「……そうですね」
ゆっくりと、廊下の暗がりから、出てきた。
番台の明かりの中で見た顔は、いつもの能面だった。でも、その目の奥が、ひどく、遠かった。
「俺は、出ていく側です」
静かな声だった。
「一月から一年、ここを出ます。全国の銭湯を回って、壁を描く仕事。……受けました」
頭の中が、真っ白になった。
「……いつ」
声が、かすれた。
「いつ、決めたの」
「九月です。十五夜のあと」
十五夜のあと。
あの夜、壁ごしに、蒼くん、と呼んだ。もう一回、と言われて、もう一回呼んだ。生まれてからいちばん幸せな沈黙だと、思っていた。
その、すぐあとに。
「……言ってくれなかったんだ」
「言う必要、なかったんで」
蒼くんは、目をそらした。
「俺は、壁を描きに来ただけです。ハルさんとの約束で。冬至まで、ここにいて、それで終わりです」
壁を描きに来ただけ。
そう、だった。
最初から、そう言っていた。あなたのためじゃないです、と。
勝手に、期待していたのは、私だ。
「……そう」
私は、笑った。笑ったつもりだった。
「そうだよね。下宿人だもんね」
蒼くんは、何も言わなかった。
「明日から、静岡で仕事です」
しばらくして、彼は言った。
「一週間。前から入ってた仕事なんで。……釜は、安田さんが見てくれます」
それだけ言うと、蒼くんは、私の横を通りすぎて、階段を上がっていった。
ぎし、ぎし、と段板が鳴った。
二階で、ふすまを開け閉めする音。荷物をまとめる音。
私は、脱衣所の真ん中に、立ちつくしていた。
翌朝、私が五時に起きたとき、奥の部屋は、もう空っぽだった。
布団がきれいにたたんであった。歯ブラシも、着替えも、なくなっていた。
台所のテーブルに、メモが一枚、置いてあった。
『釜の火の具合、昨日の夜に見ておきました。今日は、薪は少なめで。蒼』
それだけだった。
私は、メモを握りしめて、釜場に下りた。
安田さんの溶接で、継ぎはぎだらけになった釜。その前にしゃがんで、焚き口を開けた。
薪を割る。かこん。かこん。
火をおこす。薪をくべる。
一人で。
できる。もう、できる。この三か月で、覚えた。
湯温計の針が、ゆっくりと上がっていく。四十度。四十一度。四十二度。
四十三度。
午後三時半。のれんを掛けた。
「おかえりなさい」
声が、自分の耳にも、遠く聞こえた。
キヨさんが、私の顔を見て、何か言いたそうにして、やめた。タツさんは、釜場のほうをちらりと見て、黙って男湯に入っていった。
夜の十二時半。
しまい湯。
女湯の湯に、肩まで浸かった。
壁の向こうは、しんと静まりかえっていた。
湯の音がしない。息の音がしない。誰もいない男湯の、換気扇の回る音だけが、壁を越えて聞こえてくる。
「……湯加減、どうですか」
小さな声で、壁に向かって、言ってみた。
返事は、なかった。
あたりまえだ。
壁の上の満月が、半分だけ、私を見下ろしていた。
湯船のふちに置いたスマホを、濡れた手で取った。
連絡先の、いちばん上。
呼び出し音が、二回鳴った。
「――千夏? どうしたの、こんな時間に」
恵の声を聞いた瞬間、喉の奥から、何かがせり上がってきた。
「恵」
声が、壊れた。
「……助けて」




