第21話 女湯作戦会議
恵は、夜中の一時半に、タクシーで来た。
パジャマの上に、トレンチコート。足もとは、なぜかハイヒール。
「靴、これしか玄関になかったの」
格子戸を開けた私の顔を見るなり、恵は、何も聞かずに私を抱きしめた。
香水と、夜の外気のにおいがした。
「……ごめん、こんな時間に」
「何言ってんの。助けてって言ったの、あんたが初めてでしょ」
恵の腕に、ぎゅっと力がこもった。
「八年間、一回も言わなかった。離婚のときだって、『ごめんね、迷惑かけて』ばっかりで。……やっと言ったわね、ばか」
祖母の部屋で、朝まで話した。
釜が割れたこと。九百万。雅人さんが来たこと。一億二千万。考えさせて、と言ってしまったこと。
それから、蒼くんのこと。
「出ていくって。一月から、一年」
「で、あんたは何て言ったの」
「……下宿人だもんね、って」
「はあ?」
恵は、心底あきれた顔をした。
「あんたたち、中学生?」
「三十五と三十二」
「知ってるわよ!」
恵は、ばりばりと頭をかいた。それから、ふうっと息を吐いて、急に弁護士の顔になった。
「年下くんのことは、あとで考えよう。まずは、あの男」
「雅人さん?」
「二日ちょうだい。調べる」
二日後の昼、恵は、ノートパソコンを抱えて、月見湯の二階に現れた。
「わかったわよ、全部」
祖母の文机に、パソコンを広げる。画面には、細かい字の資料が、何枚も並んでいた。
「まず、汐見町一丁目の再開発。中心にいるのは、やっぱり東和ディベロップメント。プロジェクトの責任者は――」
恵は、画面のひとつを指で叩いた。
「都市開発部、課長、久我雅人」
覚悟はしていた。それでも、胃のあたりが、ずしんと重くなった。
「それで、ここの角地。月見湯の土地ね。これがないと、計画してるタワーマンションの形が成り立たないんだって。設計を一からやり直すことになる。来年の春までに地権者の同意がそろわなければ、計画そのものが一年遅れる」
「一年……」
「億単位の損よ。で、それを防げたら、あの男は来年、部長に昇進する予定」
恵は、冷たく笑った。
「つまり、あの男にとって、あんたはパズルの最後のピースってわけ」
最後のピース。
柴田さんも、同じことを言っていた。
「それだけじゃない」
恵は、別の画面を開いた。
「東和が、最初にハルさんにこの土地の話を持ちかけたのは、二年前。あんたが、まだあの男の妻だったころ」
「……え」
「あの男は、知ってたのよ。あんたがいずれ、ハルさんの土地を相続するって。自分の妻が相続すれば、話は早い。夫が『君のためだよ』って言えば、あんたは売る。……そう思ってたんでしょうね」
頭の奥が、しんと冷えた。
――君のおばあさんの土地の話、僕が口をきいてあげたんだよ。
口をきいてあげた、んじゃない。
最初から、そのつもりだったのだ。
「あと、買取額。八千万から始まって、一億、一億二千万」
恵は、鼻で笑った。
「知り合いの不動産鑑定士に聞いたけど、この土地は、再開発の最後の一区画よ。足元を見られなければ、二億近くついてもおかしくないって。あんたに八千万から始めたのは、なめてたのよ。どうせ相場なんかわからないだろうって」
私は、膝の上で、ぎゅっと手を握りしめた。
悔しかった。
だまされたことよりも。
だまされて当然の女だと、思われていたことが。
「あの男、去年、ハルちゃんに会いに来たよ」
ふすまの向こうから、声がした。
振り向くと、キヨさんが、廊下に立っていた。開店前の一番風呂を待つあいだ、二階に上がってきたらしい。
「キヨさん……」
「立ち聞きして悪かったね。でも、言っとかなきゃと思ってさ」
キヨさんは、よっこらしょと畳に上がりこんで、座った。
「去年の秋だよ。いい背広着て、高そうな菓子折り持って。千夏ちゃんには内緒にしてくれって、ハルちゃんに頼んでた。土地の話をしにね」
――結婚の挨拶に来たとき以来だ。
あのとき、雅人さんは、この部屋で、そう言った。
嘘だった。
「ハルちゃん、玄関で塩まいてたよ」
キヨさんは、にやりと笑った。
「『孫の亭主だろうが何だろうが、この土地は売らないよ。二度と来るんじゃない』ってね。あたし、向かいの八百屋から見てたんだ。胸がすっとしたよ」
祖母が。
塩を。
想像したら、なぜか、笑いがこみ上げてきた。泣きたいのか、笑いたいのか、わからなかった。
祖母は、知っていたのだ。雅人さんがどういう人間か。全部。
知っていて、私には、何も言わなかった。
千夏は、帰ってこられないんだよ。
帰らないんじゃない。
その夜、閉店後の女湯で、作戦会議が開かれた。
言い出したのは、キヨさんだった。
「大事な話はね、裸でするもんだよ」
というわけで、女湯の湯船に、五人の女が浸かっていた。
キヨさん。ルミ子さん。沙耶さん。恵。そして、私。
ひなたちゃんは、脱衣所のベンチの上で、座布団を枕に、タオルケットにくるまって眠っていた。
蒼くんがいない男湯は、しんとしていた。だから、女湯は、思いっきりにぎやかだった。
「で、その男ってのは、どんな顔なんだい。いい男なのかい」
「顔はいいのよ、顔は」
恵が、湯船のふちに肘をついて言った。
「顔と声と時計はいい。中身は最低」
「あら、うちの店にもよく来るタイプね」
ルミ子さんが、くすくす笑った。
「そういう男はね、こっちが弱ってるときに来るのよ。ちょうど、湯が冷めかけたときに」
「ルミ子さん、わかってるわね」
「何十年、カウンターの向こうで男を見てると思ってんの」
恵とルミ子さんは、会ってまだ十分なのに、すっかり意気投合していた。
「男なんてのはね」
キヨさんが、湯の中で、ゆったりと手足を伸ばした。
「湯船と同じさ。熱すぎても、ぬるすぎても、だめ。ちょうどいい湯ってのは、自分で足し湯して、うめて、作るもんなんだよ」
「キヨさん、名言」
「六十年、亭主と毎晩けんかして、毎晩同じ布団で寝てりゃ、それくらいわかるさ」
キヨさんは、ふっと目を細めた。三年前に亡くなったという、ご主人のことを思い出しているのだろう。
「わたしも、前の夫は、やさしい人だと思ってました」
ぽつりと言ったのは、沙耶さんだった。
みんなが、沙耶さんを見た。
「最初は。結婚して、ひなたが生まれて……だんだん、お金を全部、管理されるようになって。何を買ったか、毎日聞かれて。怒鳴られるようになって」
沙耶さんは、湯の中で、自分の腕を抱いた。
「ある夜、ひなたが泣き止まなくて、あの人が……壁を、殴ったんです。ひなたの、すぐ横の壁を。それで、夜中の二時に、ひなたを抱いて、鞄ひとつで逃げました」
湯気の中が、しんとした。
「この町に来て、最初に、月見湯に来ました。借りられたのは、お風呂の壊れかけた、古いアパートだけだったから」
沙耶さんは、少しだけ笑った。
「番台のおばあちゃんが、わたしの顔を見て、『おかえり』って言ってくれたんです。初めて来たのに。……わたし、脱衣所で、わんわん泣いちゃって」
祖母の、「おかえり」。
私は、湯の中で、沙耶さんの手を握った。沙耶さんは、驚いたように私を見て、それから、握り返してくれた。
一人じゃなかった。
檻の中にいたのは、私だけじゃなかった。
そして、檻から出てきたのも。
「……私」
湯船の真ん中で、私は、顔を上げた。
「売らない」
四人の顔が、いっせいにこちらを向いた。
「月見湯、売らない。続けたい」
声が、湯気の中で、まっすぐに響いた。
一瞬の静けさのあと。
「よく言った!」
キヨさんが、湯をばしゃんと叩いた。
「ちなっちゃん、かっこいい!」
ルミ子さんが、拍手した。湯がはねた。
「やっと言ったわね」
恵が、にやりと笑った。
沙耶さんは、目に涙をためて、うなずいていた。
「問題は、九百万よ」
湯から上がって、脱衣所のベンチに並んで座り、全員で瓶の牛乳を飲みながら、作戦会議の続きをした。
「それなんだけど」
私は、番台から、一冊のファイルを持ってきた。
この三日間、夜中まで、作っていたものだ。
「東京都と区に、銭湯の設備を直すための補助金があるの。条件はあるけど、釜の入れ替えにも使える。うまくいけば、費用の三分の一くらい」
ファイルをめくる。
「それから、信用金庫の融資。月見湯は、おばあちゃんの代から、商店街の信用金庫と取引がある。九月からの数字を見せれば、話は聞いてもらえると思う」
「数字って、あんた――」
「黒字なの。十五夜から、ずっと」
ルミ子さんが、目を丸くした。
「それでも足りない分は、クラウドファンディング」
「くらうど……?」
キヨさんが、首をかしげた。
「インターネットで、月見湯を応援してくれる人から、少しずつお金を集めるの。そのかわりに、お礼を渡す。回数券とか、月見湯の手ぬぐいとか、壁の絵の絵はがきとか」
昔、広報の仕事で、同じようなことをやったことがあった。小さな町の、古い映画館を残すための企画。あのときは、裏方だった。
「目標は、三百万」
四人が、私の顔を見つめていた。
「……あんた」
恵が、ファイルをめくりながら、ぼそりと言った。
「これ、三日で作ったの?」
「うん」
「事業計画書、ちゃんとしてる。収支の見込みも、補助金の要件も。……銀行に出せるレベルよ、これ」
恵は、ファイルを閉じて、私を見た。
「数字が苦手、ねえ」
あの男が、何度もそう言っていた。
恵は、それを知っている。
「法律まわりと、信用金庫の話は、私がつきそう」
「うちの店のお客さんに、宣伝しとく。銭湯好きの社長さん、何人か知ってるのよ」
ルミ子さんが、ウインクした。
「あの、わたし……」
沙耶さんが、おずおずと手を挙げた。
「月見湯で、働かせてもらえませんか。スーパーのパート、夜は入れないし、ひなたも、ここが大好きだし」
「……お給料、ちゃんと払えるようになったら、絶対」
私が言うと、沙耶さんは、ぱっと顔を輝かせた。
「あたしは、毎日来るよ」
キヨさんが、牛乳の瓶を掲げた。
「死ぬまでね」
五本の牛乳瓶が、かちん、と鳴った。
「で」
恵が、空になった瓶を置いて、私をじっと見た。
「年下くんは?」
みんなの視線が、また私に集まった。
「……出ていくって。一月から、一年」
ルミ子さんが、何かを知っているような目で、私を見た。でも、何も言わなかった。
それから、二日。
私は、夜中まで、クラウドファンディングのページを作り続けた。写真を選んで、文章を書いて、お礼の品を決めて。
五日目の夜。
十一時に閉店して、掃除を終えて、私は番台で、最後の文章を見直していた。
外では、雨が降り出していた。
天窓を叩く、細かい雨の音。
ふと、格子戸のすりガラスが、明るくなった。
車のライトだった。
ライトは、月見湯の前で、止まった。
エンジンの音。聞き覚えのある、少しくたびれた、軽いエンジンの音。
私は、番台の上で、ペンを落とした。




