第22話 雨のしまい湯
格子戸が、がらりと開いた。
蒼くんが、立っていた。
ずぶ濡れだった。髪から、しずくが垂れていた。Tシャツが肌に張りついて、肩が上下している。軽バンから戸口まで、ほんの数歩のはずなのに。
いや、違う。
見ると、軽バンは、商店街の角に止まっていた。月見湯の前には、止める場所がないから。そこから、傘も差さずに、歩いてきたのだ。
手に、旅行鞄を提げていた。
私たちは、番台と戸口をはさんで、しばらく見つめ合った。
雨の音だけが、していた。
「……おかえりなさい」
口から、出ていた。
毎日、何百回も言っている言葉。お客さんがのれんをくぐるたびに、勝手に口から出るようになった言葉。
蒼くんは、戸口で、固まった。
濡れた前髪の下で、目が、大きく見開かれていた。
「……一週間って」
私は、慌てて言葉を継いだ。
「一週間って、言ってたのに」
「早く、終わらせてきました」
蒼くんは、目をそらした。
「五日で」
「どうして」
「……雨、降りそうだったんで」
意味がわからなかった。
意味がわからなくて、なんだか、笑いそうになった。
この人は、本当に、こういう人なのだ。
「お湯、まだ温かいよ」
私は、番台から下りた。
「しまい湯、入って。風邪ひく」
男湯と、女湯。
壁一枚をはさんで、私たちは、湯に浸かった。
五日ぶりの、壁の向こうの水音だった。ざばあ、と湯をかぶる音。ふう、という長い息。
それだけで、胸がいっぱいになった。
天窓を、雨が叩いていた。
どちらも、なかなか口を開かなかった。
「……千夏さん」
先に言ったのは、蒼くんだった。
「ひどいこと、言いました」
壁の向こうの声は、少しかすれていた。
「売ればいい、なんて。……あの人のところに戻ればいい、なんて。思ってないです。一ミリも」
湯の中で、私は膝を抱えた。
「私も」
声が、震えないように、ゆっくり言った。
「いつも出ていく側の人に、なんて。お母さんのこと、知ってたのに。……ごめんなさい」
ちゃぷん、と湯が鳴った。
長い沈黙。雨の音。
「怖かったんです」
蒼くんが、言った。
「キャラバンの話、言えなかったのは。言ったら、千夏さんに、待っててくれって言いたくなるから」
息が、止まった。
「待っててくれって言ったら、千夏さんを、母と同じにする気がした。棚に、茶碗を置かせる気がした。いつ帰るかわからない男を、待たせて」
壁の向こうで、湯が大きく揺れた。
「それは、あの人がしてたのと同じだと思った。檻だと思った。俺が、千夏さんを、閉じこめることになるって」
檻。
この人は、そんなことを、考えていたのか。
あの夜の、冷たい言葉の裏で。
「……待つのと、閉じこめられるのは、違うよ」
私は、言った。
でも、言いながら、自分でも、その違いをうまく説明できなかった。
だから、かわりに、別のことを言った。
「私ね、続けることにした。月見湯」
壁の向こうが、しんとした。
「売らない。補助金と、信用金庫と、クラウドファンディングで、新しい釜を入れる。もう、計画も作った。明日から、募集を始める」
ひとつずつ、言葉にしていく。
自分で決めたことを。
「あなたがいても、いなくても」
言い切った。
「もう、決めたの」
しばらく、何も聞こえなかった。
それから、壁の向こうで、ふっ、と息がもれた。
「……かっこいいです」
私は、湯の中で、吹き出した。
「何それ」
「本当に、そう思ったんで」
笑った。笑って、それから、急に、涙が出てきた。
かっこいい、なんて。
誰かに、そんなふうに言われたのは、初めてだった。
「……でも」
涙をぬぐって、私は、言った。
「でも、今は、いて」
雨が、天窓を叩いていた。
「一月のことは、わからない。でも、今は。今夜は」
壁の向こうで、湯が、ざばっと鳴った。
立ち上がる音だった。
「……千夏さん」
「うん」
「そっち、行っても、いいですか」
心臓が、跳ねた。
湯の中で、私は、自分の膝をぎゅっと抱いた。
「……番台のとこで」
小さな声で、言った。
「番台のとこで、待ってて」
脱衣所の明かりは、番台の電気スタンドだけだった。
私は、祖母の寝間着の浴衣を着て、女湯の脱衣所に立っていた。髪から、まだしずくが垂れていた。
番台の向こう側。男湯の脱衣所に、蒼くんが立っていた。洗いざらしのTシャツに、スウェット。首にタオルをかけて。
番台をはさんで、向かい合った。
男湯と、女湯の、境目。
祖母が、四十年座っていた場所。見ないふりして、全部見ていた場所。
私は、番台に手をかけて、上った。
すり切れた座布団の上に、膝をつく。そうすると、ちょうど、男湯の側に立つ蒼くんと、目の高さが同じになった。
近い。
スタンドの明かりが、彼の濡れた髪を、金色に光らせていた。
「……ここ」
蒼くんが、小さく言った。
「ハルさんの、場所です」
「うん」
「怒られませんか」
「怒られる」
私は、笑った。
「怒られるのは、私」
蒼くんの手が、上がった。
ペンキのにおいのする、少しざらついた指が、私の頬に触れた。民宿の夜みたいに、額を押し戻すためじゃなく。
頬を、包むために。
目を閉じた。
唇が、触れた。
そっと。確かめるみたいに。
一度離れて、それから、もう一度。今度は、もっと深く。
番台の上で、私は、彼の首に腕を回していた。蒼くんの手が、私の背中を、浴衣ごしに抱き寄せた。
雨の音が、遠くなった。
男湯と、女湯の、ちょうど真ん中で。
二階の、奥の部屋。
蒼くんの部屋に入るのは、初めてだった。
ほとんど、何もなかった。布団と、小さな道具箱と、壁際に積んだスケッチブック。
トタン屋根を叩く雨の音が、部屋じゅうに満ちていた。
布団の上に座って、向かい合った。
蒼くんの手が、浴衣の衿に触れた。
「……あの」
私は、その手を、押さえた。
「明るいの、いや」
天井の電気は、豆電球だけだった。それでも、明るすぎる気がした。
お腹のやわらかさ。二の腕。三十五歳の体。
――最近、ちょっと、ね。
まだ、その声が、どこかに残っていた。
蒼くんは、何も言わずに、手を伸ばして、豆電球を消した。
真っ暗になった。
雨の音だけ。
「見えなくても」
暗闇の中で、低い声がした。
「わかります」
大きな手が、もう一度、浴衣の衿に触れた。
ゆっくりと。急がずに。
ペンキの刷毛を持つ手。鉈を握る手。湯気で曇った鏡に、落書きをしていた手。
その手が、私の肩をなぞり、腕をなぞり、背中をなぞった。
手のひらに、硬いところがあった。刷毛を握り続けてできた、胼胝だった。そのざらつきが、肌の上をすべっていくたびに、体の奥が、ふるえた。
壊れものに触れるみたいに。
でも、ためらわずに。
「……千夏さん」
耳もとで、名前を呼ばれた。
「きれいだ」
息が、止まった。
きれいだ。
八年間、一度も言われなかった言葉。
言われることを、とうにあきらめていた言葉。
暗闇の中で、涙が、こめかみを伝って落ちた。
蒼くんの唇が、その涙の跡を、たどった。
何も、言わなかった。言わなくても、伝わった。
雨が、トタン屋根を叩いていた。
その音が、二人の息づかいも、名前を呼ぶ声も、全部、やさしく包んでいった。
目が覚めると、雨は上がっていた。
障子の向こうが、白く明るい。
隣に、誰もいなかった。
一瞬、全部、夢だったのかと思った。
でも、布団には、まだぬくもりが残っていた。そして、階下の台所から、何かを焼く音と、それから、ものすごく、焦げくさいにおいがしてきた。
祖母の寝間着の浴衣を、慌てて着直して、階段を下りた。
台所で、蒼くんが、フライパンを前に、立ちつくしていた。
フライパンの上に、真っ黒な、何かが載っていた。
「……おはよう」
「……おはよう、ございます」
「それ、何?」
「卵焼きです」
真顔だった。
「甘いやつ、作ろうと思ったんですけど。砂糖を入れると、焦げるんですね」
「……っ」
「笑ってもいいですよ」
だめだった。
私は、台所の床にしゃがみこんで、お腹を抱えて笑った。
蒼くんは、真っ黒な卵焼きを皿に移しながら、耳まで赤くなっていた。
「……今度、教えてください」
「うん」
「ハルさんの、卵焼き」
「うん」
私は、立ち上がって、彼の背中に、そっと額をつけた。
「教える。全部」
その日の朝十時。
クラウドファンディングのページが、公開された。
『下町の銭湯「月見湯」の、心臓を新しくしたい』
昼までに、目標の三割が集まった。
SNSで、月見湯の壁の写真が、どんどん広がっていった。十五夜に来てくれた人たちが、次々と応援の言葉を書いてくれた。
午後、私は、うきうきした気持ちで、商店街に買い出しに出た。
商店街の掲示板の前で、足が止まった。
新しい貼り紙が、貼られていた。
『汐見町一丁目地区 再開発説明会のお知らせ』
その下に、大きな字で。
『高齢者の皆さまへ 新築・風呂付き住宅への優先入居のご案内』
東和ディベロップメントの、ロゴがついていた。
胸騒ぎがして、急いで月見湯に戻った。
縁台に、キヨさんが座っていた。
開店まで、まだ一時間ある。いつもなら、うちわでぱたぱたやりながら、通りかかる人に毒舌を浴びせているはずのキヨさんが、黙って、うつむいていた。
その手に、一通の封筒があった。
白い封筒に、見覚えのあるロゴ。
キヨさんは、その封筒を、じっと見つめたまま、動かなかった。




