↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

22/30

第22話 雨のしまい湯

 格子戸が、がらりと開いた。


 蒼くんが、立っていた。


 ずぶ濡れだった。髪から、しずくが垂れていた。Tシャツが肌に張りついて、肩が上下している。軽バンから戸口まで、ほんの数歩のはずなのに。


 いや、違う。


 見ると、軽バンは、商店街の角に止まっていた。月見湯の前には、止める場所がないから。そこから、傘も差さずに、歩いてきたのだ。


 手に、旅行鞄を提げていた。


 私たちは、番台と戸口をはさんで、しばらく見つめ合った。


 雨の音だけが、していた。


「……おかえりなさい」


 口から、出ていた。


 毎日、何百回も言っている言葉。お客さんがのれんをくぐるたびに、勝手に口から出るようになった言葉。


 蒼くんは、戸口で、固まった。


 濡れた前髪の下で、目が、大きく見開かれていた。


「……一週間って」


 私は、慌てて言葉を継いだ。


「一週間って、言ってたのに」


「早く、終わらせてきました」


 蒼くんは、目をそらした。


「五日で」


「どうして」


「……雨、降りそうだったんで」


 意味がわからなかった。


 意味がわからなくて、なんだか、笑いそうになった。


 この人は、本当に、こういう人なのだ。


「お湯、まだ温かいよ」


 私は、番台から下りた。


「しまい湯、入って。風邪ひく」




 男湯と、女湯。


 壁一枚をはさんで、私たちは、湯に浸かった。


 五日ぶりの、壁の向こうの水音だった。ざばあ、と湯をかぶる音。ふう、という長い息。


 それだけで、胸がいっぱいになった。


 天窓を、雨が叩いていた。


 どちらも、なかなか口を開かなかった。


「……千夏さん」


 先に言ったのは、蒼くんだった。


「ひどいこと、言いました」


 壁の向こうの声は、少しかすれていた。


「売ればいい、なんて。……あの人のところに戻ればいい、なんて。思ってないです。一ミリも」


 湯の中で、私は膝を抱えた。


「私も」


 声が、震えないように、ゆっくり言った。


「いつも出ていく側の人に、なんて。お母さんのこと、知ってたのに。……ごめんなさい」


 ちゃぷん、と湯が鳴った。


 長い沈黙。雨の音。


「怖かったんです」


 蒼くんが、言った。


「キャラバンの話、言えなかったのは。言ったら、千夏さんに、待っててくれって言いたくなるから」


 息が、止まった。


「待っててくれって言ったら、千夏さんを、母と同じにする気がした。棚に、茶碗を置かせる気がした。いつ帰るかわからない男を、待たせて」


 壁の向こうで、湯が大きく揺れた。


「それは、あの人がしてたのと同じだと思った。檻だと思った。俺が、千夏さんを、閉じこめることになるって」


 檻。


 この人は、そんなことを、考えていたのか。


 あの夜の、冷たい言葉の裏で。


「……待つのと、閉じこめられるのは、違うよ」


 私は、言った。


 でも、言いながら、自分でも、その違いをうまく説明できなかった。


 だから、かわりに、別のことを言った。


「私ね、続けることにした。月見湯」


 壁の向こうが、しんとした。


「売らない。補助金と、信用金庫と、クラウドファンディングで、新しい釜を入れる。もう、計画も作った。明日から、募集を始める」


 ひとつずつ、言葉にしていく。


 自分で決めたことを。


「あなたがいても、いなくても」


 言い切った。


「もう、決めたの」


 しばらく、何も聞こえなかった。


 それから、壁の向こうで、ふっ、と息がもれた。


「……かっこいいです」


 私は、湯の中で、吹き出した。


「何それ」


「本当に、そう思ったんで」


 笑った。笑って、それから、急に、涙が出てきた。


 かっこいい、なんて。


 誰かに、そんなふうに言われたのは、初めてだった。


「……でも」


 涙をぬぐって、私は、言った。


「でも、今は、いて」


 雨が、天窓を叩いていた。


「一月のことは、わからない。でも、今は。今夜は」


 壁の向こうで、湯が、ざばっと鳴った。


 立ち上がる音だった。


「……千夏さん」


「うん」


「そっち、行っても、いいですか」


 心臓が、跳ねた。


 湯の中で、私は、自分の膝をぎゅっと抱いた。


「……番台のとこで」


 小さな声で、言った。


「番台のとこで、待ってて」




 脱衣所の明かりは、番台の電気スタンドだけだった。


 私は、祖母の寝間着の浴衣を着て、女湯の脱衣所に立っていた。髪から、まだしずくが垂れていた。


 番台の向こう側。男湯の脱衣所に、蒼くんが立っていた。洗いざらしのTシャツに、スウェット。首にタオルをかけて。


 番台をはさんで、向かい合った。


 男湯と、女湯の、境目。


 祖母が、四十年座っていた場所。見ないふりして、全部見ていた場所。


 私は、番台に手をかけて、上った。


 すり切れた座布団の上に、膝をつく。そうすると、ちょうど、男湯の側に立つ蒼くんと、目の高さが同じになった。


 近い。


 スタンドの明かりが、彼の濡れた髪を、金色に光らせていた。


「……ここ」


 蒼くんが、小さく言った。


「ハルさんの、場所です」


「うん」


「怒られませんか」


「怒られる」


 私は、笑った。


「怒られるのは、私」


 蒼くんの手が、上がった。


 ペンキのにおいのする、少しざらついた指が、私の頬に触れた。民宿の夜みたいに、額を押し戻すためじゃなく。


 頬を、包むために。


 目を閉じた。


 唇が、触れた。


 そっと。確かめるみたいに。


 一度離れて、それから、もう一度。今度は、もっと深く。


 番台の上で、私は、彼の首に腕を回していた。蒼くんの手が、私の背中を、浴衣ごしに抱き寄せた。


 雨の音が、遠くなった。


 男湯と、女湯の、ちょうど真ん中で。




 二階の、奥の部屋。


 蒼くんの部屋に入るのは、初めてだった。


 ほとんど、何もなかった。布団と、小さな道具箱と、壁際に積んだスケッチブック。


 トタン屋根を叩く雨の音が、部屋じゅうに満ちていた。


 布団の上に座って、向かい合った。


 蒼くんの手が、浴衣の衿に触れた。


「……あの」


 私は、その手を、押さえた。


「明るいの、いや」


 天井の電気は、豆電球だけだった。それでも、明るすぎる気がした。


 お腹のやわらかさ。二の腕。三十五歳の体。


 ――最近、ちょっと、ね。


 まだ、その声が、どこかに残っていた。


 蒼くんは、何も言わずに、手を伸ばして、豆電球を消した。


 真っ暗になった。


 雨の音だけ。


「見えなくても」


 暗闇の中で、低い声がした。


「わかります」


 大きな手が、もう一度、浴衣の衿に触れた。


 ゆっくりと。急がずに。


 ペンキの刷毛を持つ手。鉈を握る手。湯気で曇った鏡に、落書きをしていた手。


 その手が、私の肩をなぞり、腕をなぞり、背中をなぞった。


 手のひらに、硬いところがあった。刷毛を握り続けてできた、胼胝(たこ)だった。そのざらつきが、肌の上をすべっていくたびに、体の奥が、ふるえた。


 壊れものに触れるみたいに。


 でも、ためらわずに。


「……千夏さん」


 耳もとで、名前を呼ばれた。


「きれいだ」


 息が、止まった。


 きれいだ。


 八年間、一度も言われなかった言葉。


 言われることを、とうにあきらめていた言葉。


 暗闇の中で、涙が、こめかみを伝って落ちた。


 蒼くんの唇が、その涙の跡を、たどった。


 何も、言わなかった。言わなくても、伝わった。


 雨が、トタン屋根を叩いていた。


 その音が、二人の息づかいも、名前を呼ぶ声も、全部、やさしく包んでいった。




 目が覚めると、雨は上がっていた。


 障子の向こうが、白く明るい。


 隣に、誰もいなかった。


 一瞬、全部、夢だったのかと思った。


 でも、布団には、まだぬくもりが残っていた。そして、階下の台所から、何かを焼く音と、それから、ものすごく、焦げくさいにおいがしてきた。


 祖母の寝間着の浴衣を、慌てて着直して、階段を下りた。


 台所で、蒼くんが、フライパンを前に、立ちつくしていた。


 フライパンの上に、真っ黒な、何かが載っていた。


「……おはよう」


「……おはよう、ございます」


「それ、何?」


「卵焼きです」


 真顔だった。


「甘いやつ、作ろうと思ったんですけど。砂糖を入れると、焦げるんですね」


「……っ」


「笑ってもいいですよ」


 だめだった。


 私は、台所の床にしゃがみこんで、お腹を抱えて笑った。


 蒼くんは、真っ黒な卵焼きを皿に移しながら、耳まで赤くなっていた。


「……今度、教えてください」


「うん」


「ハルさんの、卵焼き」


「うん」


 私は、立ち上がって、彼の背中に、そっと額をつけた。


「教える。全部」




 その日の朝十時。


 クラウドファンディングのページが、公開された。


 『下町の銭湯「月見湯」の、心臓を新しくしたい』


 昼までに、目標の三割が集まった。


 SNSで、月見湯の壁の写真が、どんどん広がっていった。十五夜に来てくれた人たちが、次々と応援の言葉を書いてくれた。


 午後、私は、うきうきした気持ちで、商店街に買い出しに出た。


 商店街の掲示板の前で、足が止まった。


 新しい貼り紙が、貼られていた。


 『汐見町一丁目地区 再開発説明会のお知らせ』


 その下に、大きな字で。


 『高齢者の皆さまへ 新築・風呂付き住宅への優先入居のご案内』


 東和ディベロップメントの、ロゴがついていた。


 胸騒ぎがして、急いで月見湯に戻った。


 縁台に、キヨさんが座っていた。


 開店まで、まだ一時間ある。いつもなら、うちわでぱたぱたやりながら、通りかかる人に毒舌を浴びせているはずのキヨさんが、黙って、うつむいていた。


 その手に、一通の封筒があった。


 白い封筒に、見覚えのあるロゴ。


 キヨさんは、その封筒を、じっと見つめたまま、動かなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。