第23話 待つ人の息子(蒼)
朝の五時。
隣で、千夏さんが眠っていた。
障子の向こうは、まだ暗い。雨は、夜中のうちに上がったらしい。トタン屋根から、ときどき、ぽたり、としずくが落ちる音がする。
千夏さんは、俺の腕を枕にして、少し口を開けて眠っていた。
腕が、しびれていた。
動かせなかった。動かしたら、起こしてしまう。
――誰かの隣で目を覚まして、ここにいたい、と思ったのは、初めてだった。
しばらく、そのまま天井を見ていた。
それから、そうっと腕を抜いて、布団を出た。釜に火を入れる時間だった。
台所で、卵焼きを焦がしたのは、そのあとの話だ。
月曜日。定休日。
千葉の老人ホームに、早乙女さんを訪ねた。
師匠は、車椅子で、日当たりのいい窓辺にいた。痩せた。手が、膝の上で、小さく震えている。でも、目だけは、昔と同じだった。人の顔を見るなり、腹の中まで見透かす目。
「なんだ、その顔は」
開口一番、言われた。
「……何がですか」
「締まりのねえ顔しやがって」
ふん、と鼻を鳴らされた。
何も言っていないのに。
「キャラバンの件なら、話は進んでるぞ。一月の第二週、北海道から始まる」
「はい」
「で、今日は何の用だ」
窓の外を見た。冬枯れの庭。
「月見湯の月のことで、聞きたいことがあって」
「ほう」
「どうして、月を真ん中に描いたんですか。男湯と女湯の、仕切りの真上に」
早乙女さんは、しばらく黙っていた。
それから、ふっと、目を細めた。昔を見る目だった。
「頼まれたんだよ。源さんにな」
「源一郎さん」
「ハルさんの亭主だ。口の悪い、腕っぷしの強い、ガキみてえな顔で笑う男だった」
タツさんと、同じことを言っていた。
「あの二人はな、毎晩、しまい湯に入ってたんだ。閉店して、掃除して、ハルさんは女湯、源さんは男湯でな。それで、壁ごしにしゃべってた。その日の客のことだの、明日の天気だの、くだらねえことを毎晩」
息が、止まった。
「わしが壁を描きに行った日も、そうしてた。わしが足場の上で寝てたら、壁の向こうとこっちで、夜中まで笑い声がしてよ。うるさくて、眠れやしねえ」
早乙女さんは、喉の奥で笑った。
「次の朝、源さんが言ったんだよ。『月を、真ん中にしてくれ。壁の上で、ひとつになるようにな』ってよ。キザな男だった」
壁の上で、ひとつに。
俺は、何も言えなかった。
十五夜の夜。千夏さんは、どっちから見ても半分なんだね、と言った。俺は、壁の上でつながってます、と答えた。
四十年前にも。
同じ壁の、同じ場所で。
「ハルさんはな、源さんが死んでから、三十年、一人でしまい湯に入ってたんだろうよ」
早乙女さんは、窓の外を見たまま、言った。
「壁の向こうに、誰もいねえのにな」
「早乙女さん」
しばらくして、俺は聞いた。
「早乙女さんは、六十年、日本中を回ってましたよね」
「おう」
「奥さんは、待ってたんですか。ずっと」
師匠の奥さんは、五年前に亡くなった。俺も、何度か会ったことがある。小柄で、よく笑う人だった。
「わしは六十年、日本中の壁を描いた」
早乙女さんは、震える自分の手を見下ろした。
「でもな、帰る家があったから描けたんだ。それだけは、はっきり言える」
「……待たせるのが、怖いんです」
口から、出ていた。
十二年、誰にも言わなかったことだった。
「母は、父を待ってました。父の茶碗を、棚に置いて。死ぬまで。……俺には、その血が両方、流れてる。出ていく男の血と、待つ女の血と」
早乙女さんは、俺の顔を、じっと見た。
それから。
「ばか」
短く、言った。
「待つのと、待たされるのは、違う」
「……」
「うちのばあさんはな、わしを待ってたんじゃねえ。自分の暮らしをしてたんだ。畑やって、近所の子どもに書道教えて、友だちと温泉行って。わしが帰ったら、ついでに飯を出してくれただけだ」
師匠は、窓の外の、冬枯れの庭を見た。
「『あんた、帰ってきたの。ちょうど煮物が余ってるよ』。……六十年、そればっかりだ」
そう言って、師匠は、少しだけ笑った。
「お前のおふくろさんのことは、気の毒だった。でもな、蒼。あれは、帰る場所じゃねえ。檻だ。自分で自分を閉じこめた、檻だ」
檻。
「帰る場所ってのはな、扉が開いてるもんだ。いつ出てってもいい。いつ帰ってきてもいい。帰ってきたら、煮物が余ってる。……それだけのもんだ」
それから、早乙女さんは、車椅子の脇の物入れに、震える手を突っこんだ。
取り出したのは、二通の封筒だった。
白い、普通の封筒。表に、見覚えのある、角ばった右上がりの字。
『千夏へ』
『蒼ちゃんへ』
「ハルさんからだ」
息が、止まった。
「三月の終わりに、病院から郵便で送ってきた。添え書きがついててな」
早乙女さんは、もう一枚、小さな便箋を取り出して、読み上げた。
「『冬至に、千夏と蒼ちゃんに渡しとくれ。ふたりで一緒に開けるように、言っとくれ』」
「……どうして、俺じゃなくて、早乙女さんに」
「お前に預けたら、すぐ開けるか、なくすかだろうよ」
ぐうの音も出なかった。
「冬至に、ふたりで開けろってよ」
早乙女さんは、封筒を、俺の手に押しつけた。
「それまで、開けるんじゃねえぞ」
あの封筒が届いてから、キヨさんは、元気がなかった。
番台の前でも、湯の中でも、口数が少ない。千夏さんも気づいていて、でも、何も聞けずにいた。
夕方、月見湯に戻ると、縁台にキヨさんが座っていた。
定休日なのに。一人で。
うちわも持たずに、膝の上の封筒を見つめていた。東和のロゴが入った、白い封筒。何度も読み返したのだろう、角がよれて、丸くなっていた。
「キヨさん」
声をかけると、キヨさんは、顔を上げた。
「……ああ、蒼ちゃん。お帰り」
いつもの毒舌が、出てこなかった。
隣に、腰を下ろした。
「それ」
「見ちまったかい」
キヨさんは、封筒を少し持ち上げてみせた。
「新しいマンションの、年寄り向けの部屋だってさ。風呂がついてて、エレベーターもある。家賃も、今のアパートと同じでいいって。説明会に来れば、優先して入れてやるって」
「……」
「膝がね、冬になると痛むんだよ」
キヨさんは、自分の膝を、ゆっくりとさすった。
「アパートの階段も、年々きつくなる。冬の夜、風呂から帰る道が、寒くてさ。もうすぐ八十だからね」
言葉が、見つからなかった。
「千夏ちゃんには、言えないよ」
キヨさんは、ぽつりと言った。
「あの子が、あんなにがんばってるのに。あたしが、こんな話に揺れてるなんて」
そのとき、格子戸が開いた。
千夏さんが、立っていた。
聞いていたのだと、顔を見てわかった。
キヨさんが、しまった、という顔をした。
千夏さんは、何も言わずに、縁台まで来て、キヨさんの前にしゃがんだ。キヨさんの膝に、そっと手を置いた。
「キヨさんが、決めていいんです」
静かな声だった。
「キヨさんの膝のほうが、月見湯より、ずっと大事です」
キヨさんの目が、うるんだ。
「……あんたって子は」
キヨさんは、千夏さんの手の上に、自分のしわだらけの手を重ねた。
「ほんとに、ハルちゃんの孫だねえ」
その夜、タツさんも同じ封筒を受け取っていたことがわかった。タツさんは、封も切らずに、番台の前で、びりびりに破いてみせた。
「鳶が、エレベーターなんぞに乗れるかってんだ」
その夜、しまい湯のあとで、千夏さんに提案した。
「クラウドファンディングの、お礼の品。ひとつ、足してもらえませんか」
「何を?」
「ペンキ絵です。手のひらくらいの、小さい板に描いた。お金を出してくれた人の、好きな景色を描きます」
千夏さんの目が、まんまるになった。
「……いいの?」
「二十枚だけなら、年内に描けます」
次の日の朝、千夏さんがページに書き足した。
『月見湯の壁を描いた銭湯絵師による、手描きのミニペンキ絵(限定二十名様)』
一時間で、二十枠が全部、埋まった。
千夏さんは、スマホの画面を見て、番台の上で「えっ」と声を上げた。それから、俺のほうを振り向いて、笑った。
顔じゅうで。
その笑顔を見て、思った。
――ああ。
この人の隣が、俺の帰る場所なんだ。
認めてしまったら、少しだけ、楽になった。
でも、まだ、怖かった。
三日後。
商店街の掲示板に、説明会の、詳しい案内が貼り出された。
日時は、今度の土曜日、午後二時。会場は、汐見町の町内会館。
説明者の欄に、名前が並んでいた。
『東和ディベロップメント株式会社 都市開発部長』
その下に。
『同 都市開発部 課長 久我雅人』
千夏さんは、掲示板の前で、その名前を、長いあいだ見つめていた。
それから、俺のほうを振り向いた。
「行く」
短く、言った。
声は、少しも、小さくなかった。




