第24話 塩をまけ
土曜日、午後二時。
汐見町の町内会館は、古い木造の平屋だった。板張りの大広間に、パイプ椅子が五十脚ほど並べられている。石油ストーブが二台、ごうごうと燃えていた。
椅子は、ほとんど埋まっていた。
一丁目のお年寄りたち。商店街の八百屋のおかみさんと、魚屋のご主人。小さな子どもを連れた若い夫婦。みんな、東和の封筒を手に持っていた。
私は、前から三列目に座った。
右隣に恵。今日は、ぱりっとした黒いスーツを着ている。左隣にキヨさん。膝の上に、いつもより大きな手提げ鞄を抱えていた。
その向こうに、タツさん。ルミ子さんは、なぜかサングラスをかけていた。「敵地だから」だそうだ。沙耶さんは、ひなたちゃんを膝に乗せて、いちばん後ろの列にいた。
蒼くんは、壁際に立っていた。腕を組んで。いつもの能面で。
コートのポケットの中で、私は、革の手袋を握りしめていた。蒼くんにもらった、あの手袋。マメの痕に、革がなじんで、少しやわらかくなっている。
正面の長机に、三人の男の人が座っていた。
真ん中に、銀髪の、六十歳くらいの人。眉間に深いしわがあって、にこりともしない。東和の部長さんだ。
その右に、柴田さん。プロジェクターの準備をしている。
そして、左に。
雅人さんが、座っていた。
紺のスーツ。完璧な髪。会場を見渡して、私と目が合うと、にこりと微笑んだ。
何も変わらない、あの微笑み。
「それでは、汐見町一丁目地区再開発の、説明会を始めさせていただきます」
雅人さんが、立ち上がった。
スクリーンに、絵が映し出された。
空に向かってそびえる、四十階建てのタワーマンション。ガラス張りの、きらきらした建物。その足もとに、緑の広場と、おしゃれなお店。
「汐見町を、未来へ」
雅人さんの声は、よく通った。やわらかくて、聞き取りやすくて、自信に満ちていた。
「低層階には、商業施設が入ります。スーパーマーケット、クリニック、保育所。それから、温浴施設――いわゆる、スパですね。これも、計画しております」
スパ。
月見湯を壊して、その跡に、スパ。
「そして、高齢者の皆さまには、全室風呂付き、エレベーター完備の住戸を、優先してご用意いたします。家賃は、現在のお住まいと同程度に――」
会場が、ざわざわと揺れた。
「ほんとかい」
「風呂付きで、同じ家賃?」
お年寄りたちが、顔を見合わせていた。
雅人さんは、満足そうにうなずいた。そして、少しだけ、声を落とした。
「ただ、ひとつ、課題がございまして」
スクリーンが、切り替わった。
古い地図。その角に、赤い丸。
月見湯だった。
「一丁目で、ただ一軒、まだご同意をいただけていない物件がございます。昭和の銭湯で、築六十年。耐震性に大きな問題があり、正直に申し上げて、危険な建物です」
危険な建物。
キヨさんの手が、鞄の取っ手を、ぎゅっと握るのが見えた。
「……ですが、ご安心ください」
雅人さんは、私のほうを見て、にっこりと笑った。
「オーナー様も、売却に、大変前向きでいらっしゃいます」
手が、震えた。
膝が、震えた。
八年間の、全部が、体の中で叫んでいた。座っていなさい。黙っていなさい。あの人の言うとおりにしなさい。そのほうが、楽だから。
ポケットの中で、革の手袋を、握りつぶすくらい強く握った。
――あなたの声が小さくなるの、俺は、嫌です。
私は、立ち上がった。
パイプ椅子が、がたん、と鳴った。会場じゅうの目が、こちらを向いた。
「……月見湯の、オーナーの、三森千夏です」
声が、かすれた。
一度、息を吸った。
「売却に前向き、というのは、事実ではありません」
会場が、どよめいた。
雅人さんの微笑みは、崩れなかった。
「千夏――失礼、三森さん。先日、お話ししたときは、『考えさせて』とおっしゃっていましたよね」
「考えました」
私は、まっすぐに彼を見た。
「売りません」
ざわめきが、大きくなった。
「耐震のことは、来年、区の耐震診断を受けます。新しい釜も、入れます。月見湯は、続けます」
雅人さんは、困ったように眉を下げた。それから、会場のほうに向き直った。
「皆さん、少し、個人的なことをお話しさせてください」
穏やかな声だった。
「実は、三森さんは、僕の、元の妻でして」
会場が、しんとした。
「離婚のことで、まだ、気持ちの整理がついていないんだと思います。経営のご経験もありませんし、お一人では、とても……。僕は、彼女のためを思って、この話を進めてきたんです」
何人かのお年寄りが、気の毒そうな顔で、私を見た。
ああ、と思った。
この人は、いつもこうだった。私を、かわいそうな、何もできない女にして、自分は、やさしい男になる。
足が、また、震えはじめた。
「弁護士の、佐倉です」
隣で、恵が立ち上がった。
ハイヒールの音が、床の上で、こつん、と鳴った。
「三森さんの代理人をしております。いくつか、事実を確認させてください」
恵の声は、冷たく、よく通った。法廷の声だった。
「東和ディベロップメントが、月見湯の先代、三森ハルさんに、土地の売却を最初に持ちかけたのは、二年前です。そのとき、久我課長は、三森千夏さんの、夫でした」
部長さんの眉が、ぴくりと動いた。
「つまり、久我課長は、ご自分の妻がいずれ相続する土地を、ご自分の担当するプロジェクトで買い取ろうとしていた。奥様には、それを、一度も知らせずに」
「それは――」
「去年の秋には、奥様に内緒で、ハルさんのもとを個人的に訪ねていますね。近所の方の目撃証言があります」
キヨさんが、胸を張った。
「それから、買取額。最初の提示は八千万円。私どもが依頼した不動産鑑定では、この土地の適正な価格は、二億円近くとの評価です」
会場が、大きくどよめいた。
「最後に」
恵は、雅人さんをまっすぐに見すえた。
「本日、この説明会の場で、課長は『オーナーは売却に前向き』と説明されました。事実と異なる説明を、公の場でなさった。……会社として、問題になりませんか?」
部長さんが、ゆっくりと、雅人さんのほうを向いた。
「久我くん」
低い声だった。
「今の話は、本当か」
雅人さんの顔から、初めて、微笑みが消えた。
「部長、これは、その、誤解で――」
「あたしもね」
声がした。
キヨさんが、立ち上がっていた。
手に、東和の白い封筒を持って。
「この手紙、もらったよ。風呂付きの部屋。エレベーターつき。家賃も同じでいいってさ」
会場が、静かになった。
「正直、揺れたよ。膝が痛いからね。冬の夜は、寒いからね」
キヨさんは、封筒を、両手で持ち直した。
「でもね」
びり、と、封筒が裂けた。
「風呂付きの部屋より、話し相手のいる風呂がいいんだよ」
びり、びり。
「一人で入る風呂なんて、ただの湯さ。月見湯にはね、ハルちゃんがいて、千夏ちゃんがいて、みんながいるんだ。あたしは、死ぬまで、月見湯に通うよ」
細かく破れた封筒が、キヨさんの手から、ぱらぱらと床に落ちた。
一瞬、静まりかえって。
それから、拍手が起きた。
「月見湯の釜はな、俺と源さんが据えたんだ」
タツさんが、腕を組んだまま立ち上がった。
「鳶が、四十階のマンションなんぞに住めるかってんだ。高えとこは、足場の上だけで十分だ」
笑い声が起きた。
「わたしも、月見湯に、救われました」
後ろの列で、沙耶さんが立ち上がった。ひなたちゃんを抱いて。
「うちの店の客もね」
ルミ子さんが、サングラスを外した。
「月見湯帰りの顔が、いちばんいい顔してるのよ」
「うちのせがれは、月見湯で泳ぎを覚えたんだ! ハルさんに、こっぴどく叱られたけどな!」
魚屋のご主人が叫んで、会場が、どっと沸いた。
「おつきさま、こわしちゃだめ!」
ひなたちゃんが、沙耶さんの腕の中から、大きな声で叫んだ。
会場じゅうが、ひなたちゃんを見た。
それから、あちこちで、鼻をすする音がした。
「……千夏」
雅人さんが、私を見ていた。
顔が、青白かった。いつもきれいに整っていた髪が、ひと筋、額に落ちていた。
「いい加減にしろ」
初めて聞く声だった。
低くて、とがっていて、ひびが入ったみたいな声。
「こんな茶番、何の意味がある。銭湯なんて、どうせ続かない。君に、何ができるっていうんだ」
会場が、しんと静まりかえった。
「君は――」
雅人さんは、声を荒らげた。
「君は、一人じゃ何もできないだろう!」
八年間。
一度も、怒鳴られたことはなかった。
今、初めて、この人は、私に向かって叫んでいた。
不思議と、怖くなかった。
足の震えが、止まっていた。
ポケットの中で、スマホが、ぶるっと震えた。
取り出して、画面を見た。
『目標金額を達成しました』
クラウドファンディングの、通知だった。
三百万円。百パーセント。今、この瞬間に。
私は、顔を上げた。
まっすぐに、雅人さんを見た。
「一人じゃない」
声は、少しも震えなかった。
「でも、一人でもやる」
スマホの画面を、彼に向けた。
「月見湯は、続けます。新しい釜を入れて。冬至のあとも、ずっと」
雅人さんの口が、何かを言いかけて、止まった。
「それから――久我さん」
初めて、その名前で呼んだ。
雅人さん、ではなく。
「もう、私のために、何も考えないでください」
深く、頭を下げた。
「さようなら」
沈黙を破ったのは、キヨさんだった。
手提げ鞄に手を突っこんで、何かを取り出した。
白い、ビニール袋。
中身は、塩だった。
「ハルちゃんの代わりだよ!」
キヨさんは、袋に手を突っこんで、ひとつかみの塩を、思いっきり、久我さんに向かって投げつけた。
ぱらぱらぱら、と、白い粒が、紺のスーツに降りかかった。ついでに、隣の部長さんの銀髪にも。
「キヨさん!」
「去年の秋に、ハルちゃんがまいた分の、続きだよ!」
一瞬の、呆然とした静けさ。
それから、町内会館が、割れんばかりの笑い声に包まれた。
お年寄りたちが、手を叩いて笑っていた。八百屋のおかみさんが、涙を流して笑っていた。ルミ子さんが、お腹を抱えていた。ひなたちゃんが、意味もわからずに、きゃっきゃと笑っていた。
久我さんは、塩まみれのスーツのまま、立ちつくしていた。
それから、何も言わずに、鞄をつかんで、会場を出ていった。
残された部長さんが、銀髪の塩を、手で払った。
そして、私の前に来て、深々と頭を下げた。
「三森さん。社として、お詫び申し上げます」
「……」
「この件は、きちんと調べます。それから――」
部長さんは、顔を上げた。眉間のしわが、少しだけ、ゆるんでいた。
「月見湯さんの釜が新しくなったら、一度、入りに行かせてください。私も、下町の銭湯で育った人間なので」
町内会館を出ると、冬の空が、高く澄んでいた。
会館の前の電柱に、蒼くんがもたれていた。
顔を見たとたん、膝から、がくりと力が抜けた。
蒼くんの手が、とっさに私の背中を支えた。
「……震えてる」
「今ごろ、来た」
笑おうとしたら、歯が、かちかちと鳴った。
蒼くんは、私の背中に手を当てたまま、少しかがんで、私の顔をのぞきこんだ。
「千夏さん」
「……うん」
「背、縮んでなかったです」
「何センチ?」
蒼くんは、真顔で、少し考えた。
「伸びてました。五センチくらい」
私は、彼の胸に額をつけて、笑った。笑いながら、少しだけ泣いた。
そのとき、ポケットのスマホが、また震えた。
安田さんからだった。
「おう、三森さん。新しい釜、メーカーに発注かけたよ」
「本当ですか!」
「ただな、正直に言うよ」
また、その前置きだった。
「納品は、十二月二十日。そこから古いのを外して、据えつけて、火を入れて。冬至には、ぎりぎりだ。一日でもずれたら、間に合わねえ」
十二月二十日。冬至は、その二日後。
私は、空を見上げた。
「……間に合わせて、ください」
電話の向こうで、安田さんが、少しだけ笑った気がした。
「おう」




