第25話 押し入れの茶封筒
「あの男、プロジェクトから外されたわよ」
十二月最初の月曜日。番台の前のベンチで、恵が、コーヒー牛乳の瓶を片手に言った。
定休日の、がらんとした脱衣所。恵は、仕事の合間に、わざわざ報告に来てくれたのだ。
「説明会の件で、社内調査が入ったんだって。利益相反と、説明会での虚偽。で、来月から、地方の子会社に異動」
「……そう」
「それだけじゃないわよ」
恵は、にやりと笑って、コーヒー牛乳をぐびりと飲んだ。
「例の、浮気相手。異動が決まったとたんに、さようならされたって。東京を離れる男に用はないってさ」
「恵、どこからそんな話」
「弁護士の情報網、なめないで」
恵は、ふふん、と鼻を鳴らした。それから、私の顔をのぞきこんだ。
「……あれ。もっと喜ぶと思った」
私は、番台の上で、膝を抱えていた。
喜ぶべきなんだと思う。胸がすっとした、と言うべきなんだと思う。
でも、心の中にあったのは、すっとした気持ちと、それから、ほんの少しの、さびしさだった。
「八年、一緒にいた人だから」
ぽつりと言った。
「最初は、本当に、好きだったの。あの人のこと」
恵は、しばらく黙っていた。
それから、空になった瓶を、ことりとベンチに置いた。
「そういうとこが、あんたのいいとこで、だめなとこ」
「……知ってる」
「でも、まあ」
恵は、立ち上がって、コートを羽織った。
「今のあんたなら、だめなとこも、いいとこにできるでしょ」
そう言って、のれんの外に出ていった。
去り際に、振り向いて、もうひとこと。
「で、年下くんとは、うまくいってんの?」
「恵!」
恵は、高笑いしながら、商店街の角を曲がっていった。
お金のことは、ぜんぶ片づいた。
区の補助金は、満額で通った。担当の職員さんは、私の事業計画書を見て、「よくできていますね。ほかの銭湯さんにも、参考に見せていいですか」と言った。
商店街の信用金庫も、融資を決めてくれた。支店長さんは、祖母の代からの付き合いで、私の顔を見るなり、「ハルさんの若いころに、そっくりだ」と言って、目を細めた。
クラウドファンディングは、最終的に、目標の百四十パーセントに届いた。四百二十万円。三百人以上の人が、月見湯を応援してくれた。
余った分で、耐震診断と、脱衣所の水漏れの修理ができる。
その夜、私は、月見湯日誌、四十九に、こう書いた。
『十二月八日 晴れ 湯温四十三度 客百六十二人 お金、そろった。九百万。おばあちゃん、月見湯、続けられるよ』
十二月の月見湯は、穏やかだった。
朝五時に起きて、二人で薪を割る。釜に火を入れる。一日の終わりに、壁ごしに、しまい湯に浸かる。
ひとつだけ、変わったことがあった。
奥の部屋の布団が、たたまれたまま、出しっぱなしになっている。
……つまり、そういうことだ。
朝、目を覚ますと、隣に蒼くんがいる。私より先に起きているときは、台所から、焦げくさいにおいがする。
「今日は、どう?」
「……昨日より、焦げてないです」
フライパンの上の卵焼きは、たしかに、昨日より少しだけ黄色かった。
「砂糖、入れるタイミングが早いの。卵を溶いてから、最後に」
「最後に」
「それから、火は、もっと弱く」
「弱く」
真剣な顔で、メモをとっていた。手のひらサイズの、スケッチブックに。卵焼きの作り方の横に、なぜか、フライパンの絵が描いてあった。
髪を、切った。
商店街の、おばあさんが一人でやっている古い美容院で。肩より長かった髪を、顎のあたりまで、ばっさりと。
鏡の中で、髪が床に落ちていくのを見ていた。
前の夫が、好きだった長さ。切らないでほしいな、と言われた長さ。
軽くなった。
頭も、首も、心も。
月見湯に帰ると、釜場から出てきた蒼くんが、私を見て、固まった。
本当に、固まった。夏祭りの浴衣のときと、同じくらい。
「……変?」
「……いえ」
蒼くんは、ゆっくりと、一度まばたきをした。
「似合ってます」
「それだけ?」
夏祭りの夜と、同じことを聞いた。わざと。
今度は、蒼くんは、目をそらさなかった。
「……すごく」
それだけ言って、耳まで真っ赤になって、釜場へ引き返していった。
番台の前で、キヨさんとルミ子さんが、にやにやしながら一部始終を見ていた。
ただ、一月のことは、二人とも、口にしなかった。
蒼くんは、少しずつ、準備をしていた。
軽バンを修理工場に持っていって、タイヤを替えた。ペンキの缶を、大量に注文した。
奥の部屋の壁に、一枚の紙が貼ってあるのを見た。
日本地図だった。四十七の都道府県に、小さな赤い丸がついていて、線でつながっている。いちばん上の、北海道の丸の横に、『一月十二日』と書いてあった。
私は、その紙の前に、しばらく立っていた。
それから、何も言わずに、ふすまを閉めた。
聞けなかった。
帰ってくるの、とも。
待っててほしいの、とも。
聞いたら、何かが壊れてしまう気がした。
十二月の、二度目の日曜日。開店前の、午前中。
年末の大掃除を、少し早めに始めることにした。新しい釜の部品や、工事の道具を置く場所を作らなければならなかったのだ。
祖母の部屋の、押し入れ。
ふすまを開けると、古い段ボール箱が、天井までぎっしりと積まれていた。
ひとつずつ、下ろしていく。
いちばん上の箱には、月見湯日誌が入っていた。一から四十七まで。古いものは、表紙がぼろぼろで、紙が茶色く変色していた。
「すごい……」
手伝いに来てくれた蒼くんが、箱をのぞきこんだ。
「全部、取っておいたんですね」
「六十年分だよ」
次の箱には、写真が入っていた。
白黒の写真。若いころの祖母と、知らない男の人。いや、知っている。お葬式で飾った写真と、同じ顔。祖父の源一郎だ。二人並んで、月見湯ののれんの前で、ぎこちなく笑っていた。
それから、釜場の写真。
新しい鉄の釜の前で、ねじり鉢巻きの若い男の人が二人、肩を組んでいた。一人は祖父。もう一人は――。
「……タツさんだ」
「若い」
蒼くんが、吹き出した。
「髪がある」
「あるね」
二人で、声を殺して笑った。今度、タツさんに見せてあげよう。きっと、照れて怒る。
いちばん奥の、小さな箱。
中には、こまごまとしたものが入っていた。古い手ぬぐい。壊れた老眼鏡。お客さんからの年賀状の束。
その底に、一通の茶封筒があった。
古い、薄茶色の封筒。表に、祖母の字で、ひとこと。
『夏の絵』
なんだろう。
封を開けて、中身を取り出した。
画用紙が一枚、四つ折りになって入っていた。
広げる。
色鉛筆の絵だった。
子どもの絵だ。線はたどたどしくて、紙のあちこちに、消しゴムの跡がある。
描かれていたのは、月見湯の壁の、海と月だった。
ほとんど、青い色鉛筆だけで描かれていた。空も、海も、波も、月の影も。全部、青。
そして、その絵の手前に、小さな四角い台。
番台だった。
番台の上に、女の子が一人、座っていた。
ポニーテールの女の子。笑っている。手に、何か持っている。色鉛筆の缶のように見えた。
絵の下に、たどたどしい字で、こう書いてあった。
『ばんだいの おねえちゃん あおい 9さい』
手が、止まった。
隣で、蒼くんが、息を呑む音がした。
画用紙を、裏返した。
裏には、祖母の字があった。
角ばった、右上がりの、元気だったころの祖母の字。
『千夏十二、あおいちゃん九つの夏』
――あおいちゃん。
九つ。
十二の、夏。
頭の奥で、何かが、かちりと音を立てた。
湯気。
曇った鏡。
その前に、しゃがみこんでいる、細い、細い男の子の背中。
湯にも入らずに。指で、鏡に、月を描いている。
――うまいね。
誰かの声がした。
子どもの声。
私の、声だった。
画用紙を持つ手が、震えはじめた。
ゆっくりと、隣を振り向いた。
蒼くんが、そこにいた。
押し入れの前に膝をついたまま、私の手の中の絵を、見つめていた。
その目が、湯気の向こうの、あの男の子の目と、重なった。




