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第26話 あお色の色鉛筆

 十二歳の夏のことを、思い出した。


 ひとつ思い出すと、あとは、糸をたぐるみたいに、次々とよみがえってきた。


 ――その年の夏休みも、私は、月見湯にいた。


 中学一年生。ポニーテールで、毎日、区民プールに行って、鼻の頭の皮がむけていた。


 夜は、退屈だった。


 テレビは祖母の部屋に一台きりで、祖母は番台に座りっぱなしだから、私は番台の横の小さな椅子に座って、お客さんを眺めていた。


 その夏、毎晩、一人で来る男の子がいた。


 細い子だった。手足がひょろりと長くて、首が細くて、Tシャツがぶかぶかで。私より三つくらい年下に見えた。


 いつも、湯銭を、汗ばんだ手で握りしめていた。


 祖母は、その子が来ると、何も聞かずに「おかえり」と言った。三日目から、番台の裏で、おにぎりを食べさせるようになった。


 その子は、湯にあまり入らなかった。


 男湯の脱衣所の、大きな鏡の前にしゃがみこんで、湯気で曇ったガラスに、指で絵を描いていた。


 毎晩。


 番台の上から、男湯の脱衣所は丸見えだった。私は、その子の背中を、ずっと見ていた。


 何を描いているんだろう。


 ある晩、どうしても気になって、番台から下りて、こっそり男湯の脱衣所に入った。閉店まぎわで、男湯のお客さんは、もうその子しかいなかった。


 その子の後ろから、鏡をのぞきこんだ。


 月だった。


 曇ったガラスに、指一本で描かれた、海と月。壁の絵と、そっくりだった。指でこすった線から、しずくが垂れて、月が、泣いているみたいに見えた。


「うまいね」


 思わず、言った。


 男の子が、びくっとして振り向いた。


 大きな目だった。黒くて、切れ長で、少しおびえていて。


 私は、にっと笑った。


「それ、壁の月でしょ」


 男の子は、こくりとうなずいた。


 次の晩、私は、自分の色鉛筆を持っていった。


 夏休みの宿題用に、母に買ってもらったばかりの、二十四色の缶入り。それから、白いスケッチブック。


「貸してあげる」


 男の子は、缶を受け取って、ふたを開けて、しばらく固まっていた。たくさんの色を、じっと見つめて。


 それから、一本だけ、取り出した。


 青い色鉛筆だった。


 その夏、男の子は、毎晩、番台の横で絵を描いた。スケッチブックに、壁の月を。何枚も、何枚も。


 なのに、使うのは、いつも青ばかりだった。空も、海も、波も、月の影も。


「なんで、青ばっかり?」


 聞いたら、男の子は、首をかしげた。


 理由は、本人にもわからないみたいだった。


 私は、けらけらと笑った。


「あおいくんだから、あおいろ?」


 男の子は、そのとき、初めて、笑った。


 目尻が、くしゃっとなる笑い方だった。


 何枚目かの月を描いたとき、私は、番台の上から言った。


「上手!」


 本当に、上手だったのだ。九つの子の絵とは思えないくらい。


「大人になったら、ここの壁、描いてよ」


 男の子は、スケッチブックから顔を上げて、私を見た。


 それから、小さく、うなずいた。


「……うん」


 夏の終わり。


 男の子が、お母さんの退院で、遠くへ引っ越すと聞いた。


 最後の晩、私は、色鉛筆の缶を、ふたを閉めて、その子に差し出した。


「あげる」


 男の子は、目をまんまるにした。


「描いてね。約束」


 男の子は、缶を、胸に抱きしめた。何も言わなかった。でも、その目が、何かを、必死に言おうとしていた。


 次の夏、男の子は、もう来なかった。


 次の年から、部活が忙しくなって、友だちと遊ぶのが楽しくなって、月見湯に泊まりに来るのは、お盆の数日だけになった。


 そして、いつの間にか。


 あの夏の男の子のことを、すっかり、忘れていた。




 その夜の、しまい湯。


 私は、女湯の湯に浸かって、壁の月を見上げていた。


 岬の下の、小さな砂浜。


 手に、青いものを持った、小さな女の子。


 ――昔の、知り合いです。


 あれは、私だったのだ。


 十五夜の朝、壁の最後に、蒼くんが描いた女の子。


 壁の向こうで、ちゃぷん、と湯が鳴った。


 昼間、押し入れの前で、私たちは、何も言えなかった。蒼くんは、絵を見つめたまま、黙っていた。私も、言葉が見つからなかった。そのまま、開店の時間が来てしまった。


 顔を見ては、言えなかった。


 だから、今。


「……蒼くん」


「はい」


「どうして、言わなかったの」


 壁の向こうが、静かになった。


 天窓の向こうで、冬の風が、ひゅう、と鳴った。


「覚えてないと、思ってたんで」


 やがて、低い声がした。


「七月十五日、湯気の向こうに千夏さんが立ってたとき、すぐにわかりました。番台のおねえちゃんだって。……でも、千夏さんは、俺を見ても、何も思い出さなかった」


「……ごめん」


「謝ることじゃないです」


 いつかと、同じ言葉だった。


「二十三年前の、たった一か月です。千夏さんにとっては、毎年の夏休みのうちの、ひとつにすぎない。覚えてなくて、当たり前です」


 湯が、ゆっくりと揺れる音がした。


「それに」


 少し、間があった。


「言ったら、千夏さんを、縛る気がした」


「縛る?」


「あなたが言ったから、俺はペンキ絵師になりました、なんて。……そんなこと言われたら、重いでしょう」


 息が、止まった。


「……そうなの?」


「はい」


 壁の向こうの声は、静かで、まっすぐだった。


「母が死んで、どうしていいかわからなかったとき。十九の冬に、道具箱の底から、あの青い色鉛筆が出てきたんです。もう、指の長さもなかった」


 ちゃぷん。


「大人になったら、ここの壁、描いてよ。……それを、思い出しました。それで、早乙女さんのところに、弟子入りしに行った」


 私は、湯の中で、両手で口を押さえた。


 何気なく言った言葉だった。


 十二歳の、夏休みの、退屈な夜に。目の前の男の子の絵が上手だったから、ただ、そう言っただけだった。


 その言葉が、この人の人生を、決めていた。


「あなたが覚えてなくても、よかったんです」


 蒼くんは、言った。


「俺が、勝手に、約束にしてただけなんで」


 ――描いてね。約束。


 約束、と言ったのは、私だ。


 勝手に、なんかじゃない。


「……あの色鉛筆」


 声が、震えた。


「まだ、持ってるの?」


 壁の向こうで、湯から上がる音がした。


 ぺたぺたと、足音が遠ざかる。脱衣所の戸が開いて、閉まって。


 それから、また、足音が戻ってきた。湯船のふちに、よいしょと上がる気配がした。


「千夏さん」


「……うん」


「上、見てください」


 見上げた。


 仕切り壁のてっぺん。天井とのあいだの、すき間。


 そこから、何かが、ひょいと差し出された。


 蒼くんの手だった。


 壁の向こうから、腕を伸ばして、壁の上に手を出している。濡れた、大きな手。その指先に、何かを、つまんでいた。


 短い、短い、色鉛筆だった。


 青い色鉛筆。


 削って、削って、もう、親指の先くらいしか残っていない。軸の塗装が、ほとんどはげていた。でも、芯の色は、わかった。


 あの夏の、青。


「ずっと、使えずにいました」


 壁の向こうから、声がした。


「これ使ったら、なくなっちゃうんで」


 私は、湯から立ち上がった。


 壁に、手を伸ばした。


 届かなかった。仕切り壁は、私が背伸びをしても、まだずっと上まである。蒼くんの手は、そのてっぺんから、ほんの少しだけ、こちらに出ているだけだった。


 それでも、手を伸ばした。


 壁の、冷たいタイルに、手のひらをつけた。


 壁の向こうにも、きっと、同じように、手のひらがある。


 壁一枚。


 二十三年。


「……あおいくんだから、あおいろ」


 小さな声で、言った。


 壁の向こうで、息を呑む音がした。


 それから、ふっ、と、笑う音。


 あの夏と、同じ笑い方だと、私にはわかった。目尻が、くしゃっとなる笑い方。


「……覚えてるじゃないですか」


「今、思い出したの」


「遅いです」


「ごめん」


「……いいです」


 壁の上の手が、引っこんだ。


 私は、壁に手のひらをつけたまま、しばらく動けなかった。


 湯気が、ゆっくりと、壁を越えていった。




 湯に浸かり直して、私は、膝を抱えた。


 胸の奥が、いっぱいだった。


 言いたいことが、たくさんあった。


 ありがとう。ごめんね。描いてくれて、うれしかった。約束を、守ってくれて。


 それから。


 ――行かないで。


 その言葉が、喉もとまで、せり上がってきた。


 でも、出てこなかった。


 壁の向こうで、湯が静かに揺れていた。


「千夏さん」


「……うん」


「それでも」


 蒼くんの声は、穏やかだった。穏やかで、少しだけ、さびしそうだった。


「それでも、一月には、行きます」


 わかっていた。


 早乙女さんが推薦してくれた仕事。四十七の銭湯の、四十七枚の壁。この人の、夢みたいな仕事。


 あの夏の約束が、この人を、ここまで連れてきたのだ。


 私が、止めていいはずがない。


「……知ってる」


 それだけ、言った。


 壁の向こうで、湯が、ちゃぷん、と鳴った。


 それきり、二人とも、何も言わなかった。


 言わなければいけない言葉が、あるような気がした。


 でも、それが何なのか、どう言えばいいのか、私にはまだ、わからなかった。


 言えない言葉が、湯気の中に、ずっと漂っていた。

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