第27話 言わない後悔
「沙耶さん、今日からよろしくお願いします」
「よ、よろしくお願いします!」
十二月の半ば。沙耶さんが、月見湯で働きはじめた。
スーパーのパートを辞めて、夕方から閉店までと、週末。番台と、タオル売りと、掃除。お給料は、まだ多くは払えない。それでも沙耶さんは、「ここで働けるなら」と言ってくれた。
ひなたちゃんは、番台の横の小さな椅子が、すっかり指定席になった。
二十三年前、私が座っていた椅子だ。
「ひなたのせき!」
そう宣言して、毎晩、お絵かき帳を広げている。描くのは、いつも壁の月。黄色いクレヨンで、まんまるに。
「あおちゃんに、みせるの」
蒼くんは、夜になると、脱衣所の隅に新聞紙を広げて、小さな板に絵を描いていた。クラウドファンディングのお礼の、ミニペンキ絵。二十枚。
手のひらほどの板に、それぞれの人が頼んだ景色を描く。故郷の山。子どものころ通った銭湯の富士山。亡くなったご主人と旅した海。
ひなたちゃんは、その横にしゃがみこんで、目を輝かせて見ていた。
「あおちゃん、それ、なに?」
「青森の、海」
「あおもり?」
「ずっと北のほう。一月に、行く」
ひなたちゃんは、首をかしげた。
「あおちゃん、どっか、いっちゃうの?」
蒼くんの刷毛が、一瞬、止まった。
番台の上で、私も、手が止まった。
「……ちょっとだけな」
蒼くんは、また刷毛を動かしはじめた。
ちょっとだけ。
一年は、ちょっとだろうか。
「行ってきてください」
その夜、閉店後に、蒼くんが言った。
「ルミ子さんが、千夏さんに飲みに来いって。さっき、電話がありました」
「でも、掃除が」
「やっときます」
蒼くんは、デッキブラシを手に、もう男湯に入っていった。
……なんだか、追い出された気がする。
スナック「月うさぎ」は、月見湯から歩いて二分の、路地の奥にあった。
小さな店だった。カウンター席が七つ。赤いビロードの椅子。古いカラオケの機械。棚に並んだ、名前の書かれたボトル。
閉店間際で、お客さんは、もう誰もいなかった。
「いらっしゃい、ちなっちゃん」
カウンターの中で、ルミ子さんが、ひらひらと手を振った。
「座って。何飲む?」
「えっと……」
「水割りね。決まり」
グラスに、氷が落ちる音。からん、と澄んだ音がした。
カウンターの端に、一輪挿しの花瓶があった。小さな、白い椿が挿してあった。
「で」
水割りを私の前に置いて、ルミ子さんは、カウンターに頬杖をついた。
「言ったの?」
「……何を」
「行かないで、って」
私は、グラスを両手で包んだ。
「言えない」
「なんで」
「あの人の、夢なの。四十七の銭湯の、四十七枚の壁。早乙女さんが推薦してくれた仕事。……私が、止められるわけない」
「止めろなんて、言ってないわよ」
ルミ子さんは、自分のグラスに、ウイスキーを少しだけ注いだ。
「帰ってきて、って言えばいいじゃない」
「……それも、言えない」
グラスの中で、氷が揺れた。
「帰ってきて、って言ったら、待ってる、ってことでしょう。あの人、待たせるのが嫌だって。お母さんみたいにしたくないって、言ってた」
それに、と、私は小さく付け足した。
「私も、怖いの。待つのが。棚に茶碗を置いて、帰ってこない人を待ち続ける女になるのが」
ルミ子さんは、しばらく黙って、私を見ていた。
それから、ふっと、笑った。
いつもの、色っぽい笑い方じゃなかった。少し、さびしそうな笑い方。
「ちなっちゃん。あたしの昔話、聞く?」
「三十年前。あたしが、二十六のときよ」
ルミ子さんは、グラスの縁を、指でなぞりながら話しはじめた。
「好きな男がいたの。料理人でね。腕がよくて、いつか自分の店を持つのが夢だった」
「……」
「ある日、その人が言ったの。ブラジルに行くって。向こうに親戚がいて、日本料理の店を出さないかって誘われたって」
ブラジル。
四十七都道府県より、ずっと遠い。
「あたしはね、待ってる、って言えなかった」
ルミ子さんは、グラスを傾けた。
「あの人も、待っててくれ、とは言わなかった。お互いに、相手の重荷になりたくなかったのね。足かせになりたくなかった。夢の邪魔になりたくなかった。……かっこつけたのよ、二人とも」
氷が、からん、と鳴った。
「成田の、出発ロビーでね。笑って、手を振ったの。元気でね、がんばってね、って。あの人も笑ってた。最後まで、二人とも笑ってた」
「……それで」
「それで、三十年」
ルミ子さんは、あっさりと言った。
「あの人は、向こうで結婚して、子どもが三人。毎年、年賀状が来るのよ。家族の写真つきで。みんな、日に焼けて、幸せそうに笑ってるの」
カウンターの奥の壁に、絵はがきが一枚、貼ってあるのが見えた。
青い海と、白い砂浜の写真だった。
「後悔、してるんですか」
聞くと、ルミ子さんは、少し考えた。
「あの人が幸せなのは、うれしいのよ。本当に」
それから、私の目を見た。
「でもね、ちなっちゃん。言わない後悔はね、言った後悔より、ずっと長いのよ」
息が、止まった。
「言って、だめだったなら、そのときは泣くわ。一年くらいは泣くかもね。でも、そのうち終わる。……言わなかった後悔は、終わらないのよ。三十年たっても、まだ、成田のロビーの床の色を、覚えてる」
タツさんの声が、重なった。
――言わねえで終わるのと、言って終わるのは、ぜんぜん違う。
「でも」
私は、グラスを握りしめた。
「でも、帰ってきて、って……それって、檻みたいで」
久我さんの、やさしい檻。
蒼くんのお母さんの、棚の上の茶碗。
どっちも、檻だ。
帰ってきて、と言ったら、私は、蒼くんを、檻に閉じこめることになるんじゃないか。
ルミ子さんは、グラスを置いた。
そして、カウンター越しに、私の手に、自分の手を重ねた。
「ちなっちゃん」
やわらかい声だった。
「檻ってのはね、出口に鍵がかかってる場所よ」
「……」
「帰る場所ってのは、鍵が開いてるのに、帰ってきたくなる場所」
私は、ルミ子さんの顔を見つめた。
「あんたの月見湯は、どっち?」
月見湯。
のれんは、毎日、午後三時半に上がる。誰でも、くぐっていい。誰でも、出ていっていい。
それでも、みんな、帰ってくる。
タツさんは、毎日、二時から縁台で待っている。キヨさんは、死ぬまで通うと言った。沙耶さんは、夜中の二時に逃げてきて、ここで「おかえり」と言われて泣いた。
――ただいまー!
ひなたちゃんの声。
「あんたが毎日、番台で言ってる『おかえり』って」
ルミ子さんが、微笑んだ。
「そういうことでしょ」
胸の奥で、何かが、ほどけた。
ずっと、絡まっていた糸が。
待つのと、閉じこめるのは、違う。
帰ってきて、と言うのは、鍵をかけることじゃない。のれんを、上げておくことだ。
いつでも、くぐれるように。
「……ルミ子さん」
「なあに」
「ありがとう」
「どういたしまして」
ルミ子さんは、カウンターの端の、白い椿を、指でつついた。
「あの百合ね。蒼ちゃんが持ってきたやつ。三日で捨てたわ。においがきつくて、お客さんが頭痛いって」
私は、吹き出した。
ルミ子さんも、笑った。
夜中の一時。小さなスナックに、二人分の笑い声が響いた。
十二月十九日。
古い釜の、最後の日だった。
閉店後、釜場に、タツさんがやってきた。
この日だけは、蒼くんも、止めなかった。
タツさんは、一升瓶を提げていた。何も言わずに、釜の前に立って、栓を抜いた。
とくとくとく、と、釜の腹に、お酒を注いだ。
熱い鉄の上で、お酒が、じゅうっと音を立てて、白い湯気になった。
「……ご苦労さん」
タツさんは、釜の腹に、手のひらを当てた。
しわだらけの、大きな手。五十年前、この釜を据えた手。
「五十年。よく、働いた」
手のひらで、ゆっくりと、釜をなでた。
「源さん。あんたの釜、今日でお役ごめんだ。……ハルさんにも、よろしく言っといてくれ」
釜場の明かりの下で、タツさんの背中が、小さく震えていた。
私も、蒼くんも、何も言えなかった。
しばらくして、タツさんは、くるりと振り向いた。
目が、赤かった。
そして、蒼くんを、まっすぐに見た。
「蒼」
蒼くんの体が、びくりと揺れた。
ペンキ屋、じゃなかった。
初めて、名前で呼ばれた。
「新しい釜、頼んだぞ」
蒼くんは、しばらく、言葉が出ないようだった。
それから、深く、頭を下げた。
「……はい」
私は、釜場の隅で、こっそり目をぬぐった。
十二月二十日。
朝の七時に、トラックが来た。
安田さんと、若い職人さんが三人。古い釜を、切り分けて、運び出す。新しい釜を、運びこむ。配管をつなぐ。煙突まわりを直す。
一日がかりの工事だった。月見湯は、二十日を臨時休業にした。二十一日は、もともと定休日だ。
夜の十時。
「よし」
安田さんが、腰をとんとんと叩いた。
釜場の真ん中に、新しい釜が据えられていた。前の釜より、ひとまわり小さい。でも、銀色の肌が、蛍光灯の下でぴかぴかに光っていた。
「火、入れるか」
「はい」
蒼くんが、薪を手に取ろうとした。
「待て」
安田さんが、止めた。
「最初の火は、オーナーがつけるもんだ」
安田さんは、私を見た。
蒼くんも、私を見た。
釜場の入り口にいたタツさんも、私を見た。
私は、マッチを擦った。
焚き口の、細い薪の先に、火を移す。
小さな火が、ぱちぱちと、薪をなめた。それから、少しずつ、少しずつ、大きくなっていく。オレンジ色の光が、新しい釜の銀色の肌に、ゆらゆらと映った。
新しい釜は、静かだった。前の釜の、ごうごうという唸り声とは違う。しゅうしゅうと、やさしい音で、湯を温めていく。
湯温計の針が、ゆっくりと上がっていった。
三十度。三十五度。四十度。
夜中の、二時。
四十三度。
「……沸いた」
声が、かすれた。
「沸きました」
蒼くんが、隣で言った。
タツさんが、黙って、私たちの背中を、ばしん、ばしんと叩いた。痛かった。
安田さんは、作業着のポケットから缶コーヒーを四本出して、配ってくれた。
四人で、釜場の床に座って、缶コーヒーで乾杯した。
十二月二十一日。冬至の前の日。
朝、トラックで、段ボール箱が三つ、届いた。
千葉の、柚子農家さんからだった。祖母の日誌に書いてあった、『いつもの農家さん』。日誌の最後のほうのページに、電話番号がメモしてあったのだ。
箱を開けると、黄色い柚子が、ぎっしり詰まっていた。
いいにおいが、ふわっと広がった。
添え状が入っていた。
『ハルさんには、四十年お世話になりました。今年の柚子は、お代はいりません。来年から、またよろしくお願いします』
来年から。
私は、添え状を胸に抱いた。
その夜。
試し焚きの湯で、しまい湯に入ったあと。
台所でお茶を飲んでいると、蒼くんが、二階から下りてきた。
手に、二通の封筒を持っていた。
白い、普通の封筒。表に、祖母の、角ばった右上がりの字。
『千夏へ』
『蒼ちゃんへ』
「早乙女さんから、預かってました」
蒼くんは、封筒を、テーブルの上に置いた。
「ハルさんからです。冬至に、ふたりで一緒に開けるようにって」
私は、その封筒を、見つめた。
祖母の字。
最後の、言葉。
「明日の夜」
蒼くんが、言った。
「しまい湯で」




